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8:モンゴル進軍5:ビシュバリク→サイラム湖→四十八橋→アルマリク

 挿絵(By みてみん)

 重複をいとわずに記すと、チンギスはウルングゥ川・イルティッシュ川流域で夏営し、秋に進軍を再開した。

 天山山脈北麓のビシュバリク(唐代の北庭)の手前にて、ウイグルのイディクートに迎えられた。

 そのまま『東の天山山脈』の北麓沿いを進み、その西方に連なるボロホロ山脈(天山山脈の支脈)のやはり北麓沿いを進む。

 その後、サイラム湖に至る。

(シルダリヤ北岸のサイラームとは全く別の地。グーグルマップでは「サリム湖」で検索できます。表示は「赛里木湖」です)

 ここは標高高きところにあってなおその四囲を山々に囲まれるという天与の夏営地と言って良いほどのところである。

 湖を過ぎると、その南の険しき山峡の地を越える。

 その地にては、チャアダイが石をうがって道を通し、幾本もの急流を渡るために四十八本もの橋をかけたこと、しかも車二台が並んで通れるものであったと、長春の西遊記が伝える(注1)。

 それゆえ、やはりチャアダイがチンギスを出迎え、先導した。

 サイラム湖と四十八橋についていえば、後代の清国の徐松の『西域水道記』が伝えています。

 これにより、旅情を味合っていただくのも、一興でしょう。訳してみます。

『湖はまさに円(形)であり、その周囲は百余里です。

 雪山が囲み、いわゆる(長春の名づけたところの)天池海です。

 湖に沿って五十里を南に行くと塔勤奇(タルキ)の山峡に入る。

(この山峡は)(ことわざ)(=伝承?)に(いわ)く果子溝と。

 溝(谷川)の水は南流し(←つまり下り斜面にて)、勢いははなはだ湍(=速く)急である。

 木橋を架けて、以て車馬を渡す。

(山)峡の長さは六十里であり、四十二橋を為す。

 即ち、四十八橋の遺趾である。』(注2)

 車馬の渡れる木橋が四十二橋も残っておったのです。

 恐らく余りに有用ゆえ、修繕しながら長く保たれたのでしょうが、最初の造りがしっかりしておらなければ、それもかなわないでしょう。

 旧金国人を大量に動員して作ったと想われます。

 実際に長春はその帰途にアルマリクにて、チャアダイに属する工匠集団の頭とおぼしき張公という人物に会っており、その配下を四百余と伝えます。(注3)

 清代では60里はおよそ35キロとなります。まさに大工事です。

(グーグルマップでは「果子溝」で検索できます)

 

 四十八橋を越えると、イリ渓谷がうるおすところのアルマリクです。

 アルマリクは現中国の新疆ウイグル自治区北西部にあるグルジャ(クルジャ。中国語名 伊寧(イーニン))、もしくはその近郊とされます。

 いずれにしろ、これをうるおすイリ川沿いにありました。

(グーグルマップでは、少し大まかですが、「グルジャ」でおよその位置が検索できます。イリ川は「伊犂河」と表示されています。)

 サイラム湖と果子溝の位置から考えますと、グルジャを西に外れて、イリ川沿いにあったと考えた方が良いかもしれません。


 ところで、このアルマリクにはダルガチが配されます。

 ダルガチは主に定住地に置かれ、カンの代理人として、その権益を確保します。

 ここでは農産物の確保を目的としたものと想われます。

 これまた鎭海城近郊における屯田命令、そして前話の哈刺(カラ)某へのビシュバリク東方への移住開墾命令と共に、兵糧確保のためと言って良いでしょう。

 兵糧として乳製品や干し肉より、穀物が優れるは、備蓄・運搬の観点から明らかでしょう。穀物の方が常温でより長期の保存が可能であり、また重量あたりの栄養価も高くなります。

(哈刺某も元史によれば、子の代でダルガチに任命されております。)

 その哈刺某の伝では明らかに牧地を潰して、農地にしておりました。

 そもそも、『その土地を牧地とするか農地とするか』に始まり、

『農地として確保したとしても、家畜が農作物を食べるということ』もあり、

 この農耕・遊牧の両立というのは、時にはトラブルに発展します。

 自ずとモンゴル内では遊牧諸侯の地位が高く、どうしても農耕が圧迫されます。

 チンギスのこれらの命令・任命は、農耕保護を目的としたものと想われます。それがチンギスによるものならば、誰も文句は言えません。

 農耕や建築技術など、それまでその社会に無かったものを貪婪に吸収して、モンゴルが急速に帝国の相貌を帯び始めておることに、気付かざるを得ません。

 西征がその契機となったは明らかでしょう。


 そのアルマリクの手前にてカルルクのアルスラーン・カンとスクナーク・テギンに迎えられた。

 イディクート、アルスラーン、スクナークいずれもチンギス一族の王女を与えられたところの、古き血筋を誇る草原の名家の出です。

 その歴史をかいつまめば、以下となりましょうか。

 一度は唐朝に服属するも復活した東突厥に引導を渡したのは、このウイグルとカルルクにバスミルを加えた連合軍です。

 次には、(あるじ)として擁立したバスミルを追い落とす。

(ところで、ウイグルのイディクートというのは、名ではなく、カンに相当する称号なのですが、この称号はそもそもはバスミルのものであったとされています。)

 更には両雄並び立たずということか、仲違いし、カルルクは西走する。

 そののち、ウイグルは東アジアにての主役となり、カルルクもまた西アジアにては無視できぬ存在であり続ける。

 カラ・ハン朝のカンも、ウイグル王統もしくはカルルク王統とされます。

 ところで、突厥やウイグルやカルルクと言っていますが、これはあくまで父系の血筋の話であり、他国の姫君をめとるを習いとする遊牧勢にては、血はまさに混ざりあっています。

 母系を併せ考えれば、カラ・ハン朝のカンがウイグル・カルルク両者の血を引いておる可能性はかなり高いと言って良いでしょう。

 また部族などというあまり日本になじみのない語を持ち出して、部族間の争いといえば、一見全く血筋が交わらぬ勢力同士の争いと想えるかもしれません。

 しかしその内実にては、親戚同士の仲違いに他ならぬというのは、それほど珍しいことではありません。

 それもあって、本書ではよほどの必要がなければ部族という表現は用いません。

 日本人になじみ深い「勢力」や「家」の語で十分に理解できるし、また説明できるのです。


 最後に、この地、アルマリク周辺へのチャアダイの進出が何時かということを少し考えてみたいと想います。

 そもそも、ここアルマリクは、前出のスクナーク・テギンの父オザルが治める地でした。

 ただナイマンのグチュルクにより攻囲を受け、このオザルは捕えられ、殺されてしまいます。

 この攻囲から解放したのが、ジェベです。

 つまりこの時はまだチャアダイは、この地に進出しておりません。

 それでは、このジェベによる解放が何時かとなります。

 ジュワイニーは、これをオトラルにての隊商虐殺の後のこと、ただしモンゴルがホラズムに遠征を始める前とします。これであれば1218年となり、これが定説となっております。

 私自身はこれを採らず、6話でも述べましたが、ジェベの遠征は、ジョチやスブエテイの遠征と同一時期に、およそ1216年から1217年にかけてなされたものであり、ただジェベのみ長期化し、グチュルクを捕えたのが1218年であったと考えています。

 理由の一つは、モンゴルがメルキトのみ追って、ナイマンを追わぬというのは考えられぬこと。

 もう一つは、チンギスがホラズムへ和平と交易の協定を申し出る以上、その前提として交易路の安全が確保されておるはずと考えるからです。

 アルマリクというのは、まさにこの交易路の途上にあり、これをグチュルクが攻囲しうる状況というのは、安全というには、ほど遠いものであるは明らかです。

 グチュルクはジェベが大軍を率いて迫ったからこそ、戦わずに逃げました。

 しかしグチュルク率いるはあくまで軍勢であり、盗賊などよりはるかに規模が大きく強力なのは確かでしょう。

 これがうろついておる状況では、安心して交易などできるはずもありません。

 例え千人隊を護衛に付けたとして、守り切れるかは分かりません。

 ゆえにチンギスの協定の申し出は、ジェベによるアルマリク解放の後と私は考えます。

 そしてこの後、まさにジェベはグチュルクを追うので、グチュルクの脅威は完全に除かれておると言って良いでしょう。

 その時は1216もしくは1217年となります。

 この後、この地は一端チンギスにより(オザルの子たる)スクナーク・テギンのものとされたようです。

 そしてチャアダイのこの地への進出は、西征の準備をせよとのチンギスの軍令に基づくと想われます。

 というのは、前述の如く、グチュルクを追い払ったのは、あくまでチンギスに直属するジェベであり、チャアダイはこの地を要求しうるような勲功をあげていないからです。

 西征の正式決定は、1218~1219年の冬のクリルタイのことと想われますので、これ以降のこととなります。

 スクナーク・テギンはどうなったかと言うと、チンギス直属のまま、アリマリクはチンギスとの共同統治、そして近郊に牧地を与えられたと想います。どの程度旧領を保つを得たのかは、はっきりしません。

 そもそも自らではグチュルクを追い払えず、モンゴルの軍事介入により、その地を保つを得たのですから、文句が言えるはずもありません。

 実質的な主がチンギスとチャアダイに移ったのは確かでしょう。

 ジョチ家が西方への攻略を託されておったのは良く知られたことですが、

 チャアダイ家の西南方向への攻略というのは、まさに、この時に始まったと言って良いでしょう。

 いわゆるこれがチャガタイ・ウルス(チャガタイ・カン国)の礎となる訳ですが、これは怪しむに足りません。

 後のクビライによる元やフレグによるイル・カン国の建国は、もとをただせば、遠征を命じる大カンの軍令に端を発するものです。

 モンゴルにては、以下はしばしば見られることです。

 1.軍令が国家の制度へと定着すること。

 2.遠征命令(軍令)に基づくゆえに、本来は遠征終了と同時に効力を失うはずの臣従関係(遠征部隊内での上下関係)。それが、遠征が終わった後もそのまま継続されること。


 注1:岩村忍訳『長春眞人西遊記』筑摩書房 1948年 70貢


 注2:那珂通世訳『成吉思汗實錄』筑摩書房 1943年 415貢にある那珂の引用(漢文に返り点付き)


 注3:注1の前掲書119貢


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