婚約破棄?え?だめだめ、やめてください
「ルシアナとの婚約を破棄しようかと思うんだ…」
「え?ちょっと冗談やめてください、笑えませんよ?」
アーロンがぽつりと洩らした呟きに、エレナはぎょっとした。
***
―――世の中には観賞用の美形というものがいる。
ルシアナは美しく才気に溢れる完璧な令嬢だ。
未来の王の伴侶としてなんら遜色ない。その艶やかな姿はまるで女豹…いや女狐…いいや、美猫といったところか。
ところがアーロンは、婚約者であるルシアナが『王家が、貴族が、平民が』とそればかりで、殿下殿下殿下――名前すら呼んでもらえないことに辟易としていた。
未来の王妃としてはむしろ立派だとすら思うのだが、アーロンには物足りなかった。
だから扱いやすく、令嬢としては至極平凡なエレナに近づいたのだろう。
ルシアナの艶やかな宵闇色の髪はずっと鎖骨の辺りまでの長さしかなかった。まるで年若い少年がするような短さで、ご令嬢としては大変珍しい。
けれど白いうなじに張りつくような細い髪は艶かしく、やけに色っぽかった。
それを指示したのはアーロンその人だという。
まだ幼い当時、月からやって来た姫が最後はまた月に帰ってしまうという異国のお伽噺を読んだアーロンは、ルシアナの美しさを讃える言葉を耳にして、すぐに髪を短くしろと厳命したらしい。ルシアナと物語の姫を重ねて、連れて行かれてしまうと恐れたのだ。
「そこまで執着する相手がいるのに、真に受けるわけがないわよね」
アーロンはよくエレナに睦言を囁いたが、それを鵜呑みにすることは一度もなかった。囁きながら視線はルシアナを追っているのだ。アーロンの本心なんて明白だった。
それにエレナは平凡ながら穏やかな幸せに憧れていた。王妃なんて大金を積まれても……ちょっと悩むが、やはり断りたい。
アーロンはたしかに美男だが、次期国王という手の届かない存在――いわゆる観賞用なのだ。
「そうか?うまくいけば玉の輿だったのに」
ところでエレナにはフィデルという護衛騎士がついている。
きらきらとした銀髪で大変見目麗しい。
幼い頃からの付き合いだが一時期エレナもうっかり憧れたことがある。だが、その中身はただのろくでなしだ。
「オレも王宮に上がってみたかったな」
「万一召し上げられていたとしても、お兄様は連れて行かなかったわよ」
「なんでだ、正妃様もお望みだったのに」
「だからよ!」
ルシアナがフィデルに目を奪われていたのは気付いていた。阻止しようにも、アーロンがエレナに近づいてくるものだから、自然とフィデルとルシアナも距離が近くなってしまう。
ルシアナがエレナを呼び止めたときには戦慄した。
「あーあ、あの美人にお兄様って呼んでもらいたかったなー」
「断っていたじゃない」
「断ったんじゃない、遠慮したんだよ。どうしてもって言われたら断れないさ」
ほらこれだ。
フィデルはもっともらしく対応するが、繰り返し訴えられたら『押し切られたのだから仕方ない』とあっさり受け入れる。ずるい男なのだ。
美しいのは見た目だけ。フィデルもまた観賞用がちょうどいい。
「正妃様もわかってたと思うけど」
「…そうね」
エレナはルシアナとの会話を思い出した。
『――殿下の正妃になるのはわたくしよ』
それだけだったらどんなによかったか。
『ええ、もちろんです!』
『でもわたくしはあなたが側妃になっても構わないと思ってるの。そのときはあなたの護衛騎士を貸してね、夜に』
『…えっ?』
『恐れながら。命令していただいて構わないのですよ?貴女にはその権力があります』
『ちょっと、フィデルお兄様…!?』
『ふふ。そういう趣向も試してみたいわね』
アーロンが聞いたら泣き出してしまいそうなことをルシアナは楽しそうに笑って言った。エレナは内心で悲鳴を上げる。
『ルシアナ様は殿下の婚約者なんですよ!?』
『わたくしだって美しい獣を手懐けてみたいのよ』
ルシアナはフィデルの性格も察した上で誘いをかけていた。たしかに火遊びの相手として手慣れたフィデルは申し分ないだろうが、エレナは目眩を覚えた。
殿下!あなたのお姫様が月の使者に連れて行かれてしまいそうですよー!?
しかしそれから事態は急展開。
アーロンとルシアナの婚約期間は繰り上げられ、あっという間に結婚してしまった。いまでは国でも有名なおしどり夫婦だ。
「あーもう本当なんでオレまで…」
「それが条件ですもの。我慢してよね」
「…王都に残ってたらまだチャンスがあるかもしれないのに…」
狙いはそれでしょうね、とエレナは肩を竦める。
アーロンとルシアナの婚姻から数年、エレナも結婚することになった。
嫁ぎ先は地方貴族の次男だ。領内の特産品で成功しており、格は下がるが、エレナの理想通り平凡ながら穏やかな生活が期待できる。
条件はただひとつ。フィデルを連れて行くこと。
仲を取り持ってくれた王太子からの指示だったため、相手方がエレナの不義を疑うことはなかった。…首を傾げてはいたが。
ルシアナはアーロンと結婚してからすぐに双子の男の子を産み、お役御免とばかりに公務に復帰しようとして、またも妊娠。かわいらしい女の子を産んだ。そしていまもお腹が大きい。
どれだけ執着してるのよ、とアーロンに呆れるが、ルシアナがフィデルを見る目にはまだ断ち切れないなにかがあった。フィデルも当然それに気付いていて、これは殿下も焦れるはずだわ、と納得してしまった。
だからエレナは新天地にフィデルを連れて行くことに了承した。…本当は嫌だけれど。
しかし、ルシアナがどうしてそこまでフィデルを気にかけるのか、それが長年の疑問だった。
「ルシアナ、君はもう私の伴侶なんだぞ」
「殿下はいつもそう!婚約者だからとか、伴侶だからとか、そればっかり。わたくしの本心なんてちっとも理解してくれないんです!」
「ルシアナ…!!」
あるときエレナは王太子夫妻の痴話喧嘩を耳にしてしまい、そっと気配を消した。
…なるほど。それは勘違いされても仕方ないわね。
アーロンはずっと婚約者を想っていたのに、それを伝える術を怠っていたのだろう。女性なら悩むのも当然だ。ところが続いたルシアナの言葉は。
「わたくしだって愛人の一人や二人飼ってみたいんです!殿方ばかりずるいですわよー!!」
…あれ?
「うん。だから大概にしとけ?」
頭を抱えるアーロンにエレナはこっそり同調した。
美貌の令嬢と謳われ、仲睦まじい夫婦として国民からの人気も高いルシアナは――なんてことはない。彼女もまた観賞用の残念な美人だったのだ。
おしまい!