<5> 有価証券報告書を読む(平均年間給与、平均年齢、平均勤続年数の見方、退職金の大きさの評価、役員報酬の見方)
<5> 有価証券報告書を読む(平均年間給与、平均年齢、平均勤続年数の見方、退職金の大きさの評価、役員報酬の見方)
「就活四季報も読んだし、就職・転職口コミサイトとかエントリーシート集積サイトにも登録したし、選考フローを確認できるサイトにも登録したし、やることはたくさんやった!」
オケアナは単純な女である。だからここまで色んなことをしてきたので、何となく自分に自信が湧いてきたのであった。流石にここまで頑張っている他の就活生は少ないだろう。きっと自分は内定をどこかから貰えるかもしれない。
ひょっとすると、たくさん内定をもらう可能性もあるのでは――そんな根拠のない自信が彼女を包んでいた。
「やることをやった? お前が? ばーかじゃねえの?」
「ぴぃ!?」
だから、背中からぬぅっと誰かの顔が伸びてきたときに、奇声を上げて驚いてしまった。たとえそれが、イケメンエルフのサヴァンの顔であったとしても、登場の仕方があまりにも心臓に悪い。音もなく背中から現れるのは反則であった。
「え、何、まだ足りないの?」
「足りないにもほどがある。まあ、転職口コミサイトに気付いたのは褒めてやろう。だがお前、有価証券報告書は読んでないな?」
「……有価証券報告書?」
有価証券報告書。それは年に一度発行される、株主向けの報告書のことである。企業情報、もしくはIR情報のところに有価証券報告書のpdfファイルがおいてあることが多い。そしてそこにはかなり重要な情報がたくさん書かれている。
「――というわけだ、分かったか?」
「重要な情報って、何?」
「平均勤続年数、平均年収、あとは退職金とかだな。こっちの情報は、就職四季報の情報よりも、より正確で嘘のない情報が記述されている。というより嘘をついちゃいけない報告書だから絶対に目を通せ」
サヴァンの口調は相変わらずぶっきらぼうであった。だが重要そうな内容なので、無視するにも無視できない。オケアナはとりあえず、有価証券報告書には平均勤続年数、平均年収、退職金が書かれている、とだけ覚えておくことにした。
「有価証券報告書の『第1 企業の概況』の『5 従業員の状況』を開いてみろ。そこに平均年間給与、平均年齢、平均勤続年数が載っている」
「あ、本当だ」
「※の部分もよく読んでおけ。『基準内・基準外給与及び賞与を含んでおります』って書かれているだろ。これはボーナス込みでこの年収って意味だ。――逆に、とある電力会社とかは『基準内・基準外給与を含んでおります』としか書いてなかったこともあった。これはボーナスがいくらなのかを隠して報告してるって意味だな」
「……なるほど、電力会社、色々あったもんね」
実際に数字を見てみると、オケアナは何となく実感のようなものが湧いてくるのだった。平均年間給与。平均年齢。平均勤続年数。数字しか見えてこないデータではあったが、高齢な人が多い職場なのか、若者が多い職場なのか、仮に40歳ぐらいになったときに年収がいくらぐらいなのか、ということを想像するには十分なデータでもあった。
こうしてみると、口コミサイトと年収のデータにずれがあることに気が付く。やはり一番正確なのは、この有価証券報告書なのだろう――と考えて、オケアナはふと奇妙なことに気付いた。
「あれ、従業員数が100人しかいない企業がある?」
「ん、どれだ」
「これ。就活ポータルサイトでは、募集要項で新卒250人って言っているのに、従業員数が少ないのって、おかしいよね。これってもしかして」
「ああ、ホールディングス形式か。持ち株会社ってやつだな。これは外から見たときの見かけの情報をよくするために行われたり、節税のために行ったりするやつだ」
サヴァンはここで、タワミという企業の有価証券報告書のpdfを開いてちょっとだけ説明を補足した。
「例えばこのタワミホールディングス株式会社は、平均勤続年数は16年、平均年間給与が560万もあるが、従業員数は20名しかいない。つまり限られた役員がそれだけの給料で働いている、ということになる。――実態はもっと悪いものと思っておいたほうがいい」
「うわあ……」
平均年間給与、平均年齢、平均勤続年数を鵜呑みにしてはいけない、ホールディングスカンパニーかどうかを確認しておかないといけない――という新しい警戒事項が、オケアナの脳裏に刻み込まれた瞬間であった。
「あとは、『第5 経理の状況 1連結財務諸表等』のところに、『退職給付』とあるはずだ。退職金について書いてあるのがここだ」
「……これって、退職金のこと?」
「退職制度には、確定給付、確定拠出、厚生年金基金などの種類がある。だがここでは、採用している退職制度が『厚生年金基金のみ』となっていないかどうかチェックしておけ。厚生年金基金は約9割が解散予定になっている。退職金が消える、ということはないと思うが……まあ注意しておけ」
「え゛」
「例えばさっきのタワミの場合は、『1.採用している退職給付制度の概要 当社グループは、従業員の退職後の福利厚生のために外食産業ジェフ厚生年金基金に加入しております。当該厚生年金基金制度は退職給付会計実務指針33項の例外処理を行う制度であります』と書かれているな。これは厚生年金基金だけのパターンだ」
「怖い……」
「別に、外食産業ジェフ厚生年金基金が解散予定の厚生年金だと決まったわけじゃない。だが、まあ、覚えておくといいだろう」
サヴァンの気難しそうな表情の理由を、オケアナは何となく想像した。きっと、これぐらい疑り深くないと世の中生きていけないのだろう。いつもしかめっ面の幼馴染をみるに、エリートはそうやって生きていかないといけないんだろうなあ、という妙な考えが脳裏に浮かび上がる。
そうでなければ、こんなことに気付くだろうか。オケアナは自分が楽観的過ぎたことに今更ながら気づいた。
「そして、退職金の大きさの見分け方だ。『第5 経理の状況 1連結財務諸表等』の『退職給付費用』の部分を見ろ。『確定拠出年金制度に係る退職給付費用』、『確定給付に係る退職給付費用』という欄に書かれている数字が、全体の退職金だ。これを連結従業員数で割ると、一人頭に一年でどれぐらい退職金を積み立てているのかが分かる」
「ほええ……」
「例えばテレビ業界のYHKは、平均年間給与が大陸テレビやYBSなどの他のテレビ局と比べて300万ほど低い。だが大陸テレビやYBSはホールディングスカンパニーだから、役員にならない限りはもう少し給料が低いことが予想できる。そのうえ、退職給付費用を連結従業員数で割り算して計算すると、YHKは一人当たり退職給付費用が300万で、大陸テレビやYBSの50万を大幅に上回っていることが分かる。――つまり」
「YHKのほうが生涯年収は高い、ってこと?」
「そういうことだ」
サヴァンはここで、いつも細い目をさらに細めて皮肉げに微笑んだ。まるで「平均年収しか見ていない人間は本当に重要なことに気付かない」と言いたげな表情であった。確かに、お金が欲しいということを軸にして就職活動を行っている人間でも、こういった退職金込みの計算を行っている人間は少ない、とオケアナは思った。
だが、それを調べろというのは酷な話である。何も知らない状態ではこういう情報にたどり着くのは酷く困難である。
「他にも、役員報酬について調べるのもいいかもな。『第4 提出会社の状況』の『6 コーポレート・ガバナンスの状況等』を開いてみろ。役員の報酬の合計が分かるぞ」
「役員報酬……」
「取締役、執行役とかだな。例えば取締役が11人で報酬総額が500百万だったら、一人頭で4500万ぐらい貰っている計算になる。こういう情報から経営状況がいいのか悪いのかを何となく推察することだって――」
「……ねえ、サヴァンってどうしてこんなに賢いんだろうね」
「あ?」
得意げに有価証券報告書について説明を垂れていたサヴァンの言葉が突如止まった。オケアナも別に喋らなかった。僅かな沈黙が生まれて、何ともいえない空気がそこに生まれた。
確かにサヴァンは賢い。普通の人間なら気付かないようなことにもサヴァンは気付いている。だから人生が上手くいって当然なのである。エリートとはそういう生き物だ。そういう言葉で、オケアナは自分を納得させていた。
「……そりゃ、まあ、勉強しているからな」
「そうだよね、勉強家だもんね。……色々教えてくれてありがとう」
繰り返すが、オケアナは単純な女である。だからここまで色んなことをしてきたのに、それが全くサヴァンに及んでいないような気がしたことを、口には出さない。ちょっとだけ悔しい気がしたが、それはどうでもいい話である。
それよりも、彼女にとっては、有価証券報告書の見方を教えてもらったことのほうが遥かに大事なことであった。
自分はサヴァンじゃないから、うかうかしていると騙される――という気持ちが、脳裏のどこかにちかちかと点灯していた。
(今度カザランさんにも教えてあげようかな、有価証券報告書の読み方)