由希子
その日、私の気分とは裏腹に天気は青天も良いところで、いっそ清々しいほどだった。
午前中は、咲菜とのんびり過ごし、共に午後には用事があるということで昼食を食べた後、解散した。
やっぱり何かあるんじゃないの?と、靴を履く私の背から咲菜の心配そうな声が響く。
それに私は、大丈夫。お腹の肉がちょっとキツイだけだからと言った。
少し不満そうな顔の咲菜に、ありがとうと伝える。
「何かあったらすぐに連絡して。」そう言って咲菜は私を見送ってくれた。
人混みも激しい繁華街の一角。
細い路地を少し歩いて、人目を忍ぶように鎮座する小さな喫茶マンダラは足しげく通う常連とその客が連れてくる新客を相手に、のんびりとした時間と香り高いコーヒーを提供している。
マスターは少し変わった出で立ちで、髪は金髪というより黄色の長髪で後ろで一つに束ね、陽に焼けた肌はつやつやとして、いつもサングラスをして、胸元には異国文化様々な胸飾り。その喫茶の外観やインテリアからは想像できないマスターだった。常連はともかく、新客はいつもギョッとする。
ギョッとする新客の一人だった私も、今や常連となった。ここを紹介してくれたのは涼だ。
涼やかでクールな涼が、常連であることが不思議なほどに真逆のイメージのマスターだ。
けれど、それは見た目だけで、口数の少ない寡黙なマスター塩沢は、かつてインドを旅して歩きヨガを極めようとしていた経歴の持ち主で、その旅の最中に飲んだコーヒーに惚れこんだことをキッカケに、ヨガは趣味と割り切りコーヒーに道へと進んだという。
そのことを聞いたのも、通い出してから半年が経ってからだ。
何だかんだ、涼と知り合って友人になってからの付き合いである。
その塩沢が、私に気の毒そうな視線を寄越した。(ような気がした。)
サングラス越しでも分かる、この憐憫の眼差しはなんだろうかと考える余裕もなく、カウンター席で涼と美しい女性が寄り添うように囁き合っているのが目に入る。
私は、塩沢に(大丈夫)という視線を寄越し、コーヒーを一つ頼んだ。
この熱い空気の恋人たちの間に入って行くのは、やけに勇気がいる。
「お待たせしました。」
そういうと、涼がパッと振り向き、その隣の由希子が間延びした調子でゆっくりと振り返る。
その視線が、同情や懺悔を前にする人のそれではないことに、私は気づいた。
由希子の瞳にあったのは、明らかな嘲笑。
一瞬で私の全身を値踏みした後、片頬を吊り上げ口の端でひっそりと笑む様はまるでドラマの悪役そのままであった。
けれど涼の目にはそんな様子は目に入らないだろう。
私の立ち位置からしたら、手前に由希子、奥に涼の順番なのだ。涼の目に入るのは、由希子の後頭部と、引き攣る私の顔くらいだ。
その顔を何と取ったのか、涼は私に非難するような眼差しを寄越した。
――彼女に失礼な態度を取るな。
見て取れる彼の言いたいことに、私は即座に反応を返した。
「わあ!やっぱり綺麗な人だなって会社でも思ってたけど、近くで見ると、すっごく綺麗ですね!!私、中原茜って言います!」
隠された女優魂を発揮するときなのだ。
私は、瞳を可能限り輝かせ満面の笑みと崇高なる憧れの眼差しを由希子に向け、褒めちぎった。
すると、みるみるうちに由希子の表情に満足さが浮かぶ。
拭い切れないのは、私を侮辱する目の表情だけだ。
「嬉しいわ。ありがとう。女性に褒められるって、女性にとって一番嬉しい事なのよ!分からないでしょうけど、見た目を磨くことはその人のスキルだと思ってるの。だから、嬉しいわ。」
涼は、ふと変な顔をしながらも由希子の言葉に賛同するような表情になった。
まるで新興宗教にのめりこむ信者のように見えた。
これは早くに解散したほうがいい。ここに呼び出された本題にそそくさと移ろう。
「そうなんですね!うん、私にはちょっと分からないレベルかもしれないです!アハハ!ところで、山本君から聞きました。私に謝りたいと気に病まれていたとか。そんなこと、全然必要ないですよ!」
「そんな訳にいかないわ!女性にとって人から愛されることは必要不可欠よ。なのに、私たちのために愛のない婚約までしてくれたあなたには感謝しきれないの。」
――愛のない婚約。
「いいえ、私から言い出したことですから。親も結婚結婚うるさくて、少しの間黙ってもらえる。一石二鳥じゃないですか。」
「やだわ、妙齢の女性がそんなこと言ったら。あら、でも矛盾しちゃうわね。あなたのお陰で私たち、疑われずに会えるし、愛しあえるんだものね。ね、涼?」
「ああ。」
カウンター席の作り上、私は由希子の隣に座っていた。
それでも分かるのは、涼と由希子の距離感だ。身体を寄せ合っているわけじゃない、なのに、空気と眼差しだけでその関係を他者に知らしめるほどの密接なものがあった。
「本当、あなたには感謝しきれないわ。申し訳ないとも思ってるのよ。でも、感謝が上回っているの。女性としての喜びを感じられるのはあなたのお陰。あなたにも、女性としての喜びを享受する権利があるのに、あなたはそれを投げ打ったのよ、私たちのために!本当に、私たちの愛のためにありがとう!」
「いいえ。私としては信頼する友人のためだったので。」
「本当、お前には悪いと思ってる。でも、ありがとう。」
涼がふと口を挟むと同時に、誰かの携帯が鳴った。
涼だ。
「悪い。会社からだ。ちょっと出てくる。」
そそくさと立ち去って行く涼と同時、由希子の表情が一変していくのが見えた。
顔色一つ変えないマスターが、心の支えのように思える。
「勘違いしないでよね。」
さっきまでと打って変わった冷え切るような声に、私は喉の奥が絞められているような錯覚に陥った。
「何がでしょう」
「彼と婚約して、ちょっと長い時間一緒にいることが多くなっても、彼はあなたになんか目もくれるはずもないわ。ちゃんと分かってるんでしょうね?」
ふと、由希子が私の全身を見回して、顔の位置に視線を戻すと鼻で笑った。
「彼は優しい人だから、思わせぶりなところもあるかもしれないけど、そんな言葉には意味はないわ。彼は私を心底愛しているから。」
ふふふと鈴を転がすような笑いが由希子の喉から洩れる。
「どうせ、涼のことが好きで、涼を助けるかのように近づけば彼の心を手に入れられるとでも思ったんでしょうけど。憐れな人よね。そんな策略を組んだところで、自分のことが見えない人って可哀想ね、無駄骨で終わることにも気づけないんだもの。私を愛している人が、あなたみたいなブスで愚図で、頭も回らない人を好きになんてなるはずもないのに!」
由希子は、好き勝手言ってひとしきり笑った。
そこに涼が戻って来たが、彼は私の様子には気づかずに、由希子が楽しそうに笑っているのを見て満足げに頷くだけだった。
「俺んとこの部署で後輩がミスったらしいから、その対処するように言われたんだ。悪いけど、ここで解散しよう。」
涼がそういうと、由希子も立ち上がり、「私も一緒にお暇するわ。」と言った。
お前は?という視線を寄越した涼に、私は首を振って「もう少し、ここにいる」とやっと声に出した。
涼はただ「そうか」と言って、レシートを取り会計に向かう。
ふと、由希子が私に侮辱の眼差しで微笑み、「またお会いしたいわ。本当に楽しい時間をありがとう。茜さん。」と言って、涼の後ろを追うように去って行った。
一杯目のコーヒーが手の震えに応じるように揺れるのを何の気になしに見つめる。
いつもだったら美味しいと感じるコーヒーの味も分からない。
私は何にショックを受けているのだろう。
あからさまな侮辱を受け、嘲笑の眼差しを向けられたことだろうか。
それとも、由希子の言動だろうか。
それとも、一切私に目を向けようとしない涼の、由希子への眼差しを直で見たことだろうか。
そこには恋人にしか分からない蜜な空気があった。
気軽気楽で、私の何の気ない言葉に笑って喜んで、私に冗談を言って笑っていた涼の姿しか私は知らない。
だから、女性をあんなに熱く、絡めとるような眼差しを向け愛情を示す様子を私は知らなかったのだ。
ただ、そんなふうにいつか涼が私をと夢想するだけで、心ときめいていたのだ。
現実は違うのに。
彼が愛しているのは、由希子ただ一人。
だから、由希子から言われた言葉は、あながち的外れなんかじゃない。
それがショックだったのかもしれない。
――涼を助けるかのように近づけば、彼の心を手に入れられるとでも思ったんでしょうけど。
涼本人には、まるで気づかれていない私の下心を、由希子に見透かされたようで。
自分があまりにも無様に思えた。
冷めきったコーヒーをカチャンとソーサーに戻すと、すっと手が伸びてコーヒーを下げられた。
驚いて見上げると、顔色一つ変えない無口なマスターが、やっぱり表情一つ変えないで新しいコーヒーをカタリと置いた。
「コーヒーは熱く。それが俺のモットーだから。」
そう言って、そっと小さくてかわいい色のマカロンを二つ、コーヒーの横に置いた。
「俺の手作り。まだ店に出してない試作品。味見して感想くれたら嬉しい。」
私は、ありがとうと言って、温かく淹れなおしてくれたコーヒーを一口飲み込んだ。
鼻の奥がツンとして、やっぱり味も香りも良く分からなかった。
可愛い色のマカロンを一口齧る。
甘いマカロンに、ちょっぴり塩気が効いて、いよいよ鼻が詰まり出した。
私はそれを温かいコーヒーのせいにして、美味しいと呟いた。