ウソのはじまり
不倫という単語自体苦手な方は避けたほうがいいかもしれません。
――不毛な恋ほど、身を焦がすもの。好きが大きい方が負けなのよ。
いつだったか、そんなことを姉の未希が発した。
その時は知らなかったが、姉が結婚した後、久々に会った姉との会話でその事情を知った。
姉は、会社の上司と不倫関係にあったという。
未来のない恋に、無理矢理と未来を創ろうとする恋ほど、あたかも身を焦がすほどに相手を愛しているのだと錯覚し、不毛な恋に盲目になっていたそのころ、姉は幸せとは程遠い位置にいるようで悲しいだけだったという。
その関係にピリオドを打てたのは、後に夫となる男性と出会い、心底大切に扱われようになったからだという。
それまで、姉は自分の価値を認めてはいなかった。
だから、二番手に甘んじているということに気づけず、大切にされていないことにも目を伏せて気づかないふりをしていたという。
今、姉はとても幸せそうな笑顔で赤子を抱いて、結婚三年目を迎えようとしている。
義兄となった姉の夫、和也さんは義妹である私に対しても、まるで本当の兄のように優しく接してくれる、素敵な男性だった。
そんな姉に、「好きが大きいほうが負けなのよ。って言ってたけど、和也兄さんとはどうなの?」と聞いた。
姉は、照れたように笑った。
「好きが大きくなるほど、幸せだと思えるようになったわ。どちらが一番好きなのか喧嘩しちゃうくらいにね。愛してるって言葉を互いに向け合って受け取れる関係って、今までなかったから…とても幸せよ。」
そう、姉はいつも、先に愛して、愛を求めて泣いていた。
私はそんな姿を見て、恋愛って苦しいものなんだと思った。
さすがに不倫に関しては姉も後ろめたさを感じていたらしい。なんでも言えていた私相手にも、当時は、どうしても言えなかったという。
だから隠れて泣いていたんだろう。
今になって思えば、その頃の姉は生気がなくて、いつも悲しそうだった。
「だからね、茜も自分の価値を大切にするのよ。自分を心から愛してくれる人と出会って、素敵な恋愛ができるようにね。絶対、二番手になんて甘んじたら駄目よ。そんな価値がその男にあるか、よく考えてみて。不倫とまでいかなくても、二股とか、浮気相手になんてされちゃ駄目だからね。」
そう言って、姉はぐずりだした娘をあやしながら、私に優しい目を向けた。
私はこの人の妹で、本当に良かったと思った。
だけど、私は姉の言葉には素直に頷けなかった。
ウソを吐きたくない――と思ったからだ。
会社で出会った彼、山本涼は、私より三歳年上で、整った顔立ちと背丈があって均整の取れた体格、有能な仕事ぶりには会社の上司だけでなく社員全員が一目を置くような人。
当然のように女子社員からも人気があって、どうして見た目も頭脳も平均以下の中原茜の婚約者なんだろうって、会社中の疑問だった。
本当に恋愛関係で成り立っていたなら、私もきっと疑問に思っていたかもしれない。
でも、私は疑問にも思わなかった。
私と彼の関係は、契約で成り立っていたから。
顔立ちが整って、仕事もできる彼は黒縁眼鏡の力もあってか一見クールで近寄りがたい空気を纏っていた。
そんな人と仲良くなったのは、本当にひょんなことからだった。
たまたま入った映画館で、たまたま隣同士の席に座っていたから。
同じ、アニメ映画を見たよしみで、感想を言い合っているうちに、友達になっていた。
「俺、アニメ見るタイプに見えないらしくて、中々こういう話しできる人いなかったから嬉しいよ。」
そう言って笑った涼は、いつものクールさはなりを潜めて、無邪気で可愛らしかった。
そうして密かに友情を温めていくうちに、私のほうは恋心を自覚するまでになっていた。
だが、ある時、彼には心から慕う女性がいることに気づいた。
彼女のほうも、気があるように見えたことから、彼女なのかと気を落としたのも束の間、彼女は違う男性と結婚したのだ。
涼は、会社では気丈に振る舞っていたが、二人で酒を飲んでいるうちに涙ながらに彼女への想いがどれほどなのか切々と訴えてきた。
その言葉をうんうんと聞いて行くうちに、私まで泣けてきたんだ。
ああ、この人からこんなに愛されている女性がこの世にいるんだな。
私が好きになった人は、私を好きになってくれない人なんだな。
そう思ったら、堪らなくなった。
そして、次に会ったとき、彼は思いもよらないことを言った。
「彼女、本当は俺のことを愛してるって言っていたんだ。だけど、会社の上司の面子や、父親の体裁のために結婚せざるを得なかったんだって、泣きながら俺に言うんだ。俺、できる限り、彼女の愛に応えたいと思う。」
聞くに彼女、もとい由希子は平社員の父親の元に生まれた才色兼備の美女で、会社役員の息子である男性に見初められて見合いを打診されたが、結婚しなければ父親がクビにされてしまうという脅しのもとで、嫁いで行かざるを得なかったのだと。
本当は、涼のことを想っていたのだと。
だから彼は、そんな心にもない結婚を強いられてしまった由希子の心の支えになるべく、彼女の求めには出来うる限る尽くしたいのだと言う。
そして、そんな悲しい不毛な関係はやめたほうがいい――と、反対の意を唱える私に冷たい一瞥を向け「人を愛したこともないお前に何が分かる」と捨て台詞を残して去って行った。
そして月日が流れ。
一年が経つころ、彼が上司に呼び出された。
会社というのは秘密主義なんてものは成立しない。まことしやかに噂は流れ、それが嘘か真かなんて関係なく、面白い話しの種になって根も葉もない話しが生まれていく。
そんな流儀に則って、彼の噂もまことしやかに流れだした。
「寿退社していった由希子さんと不倫してるって。」
「ってことは、あの役員の息子の鷺山さんを敵に回したってことよね。」
当たらずも遠からず、どころではないドンピシャな噂話が社員の中で立ち込めた。
たまらず涼をバーに呼び出して、話しを聞いた。
疲れた顔で、酒を飲む涼に、既に噂が出回っていることを告げ、上司の話しは何だったのかと。
「ああ。由希子との関係がアイツにバレかけてたようだ。もし本当だったらクビだっていうから、咄嗟に、嘘を吐いたんだ。」
「なんて?」
「自分にはプロポーズしたい女性がいて、先から仲の良かった鷺山さんに相談していたと。」
「それでどうなったの?」
「それが本当のことなのか証明できるのかって言うから、それはプロポーズが成功しないと証明はできませんって言ったよ。もしできなければ、クビにするしかないって。鷺山常務を敵に回すような、そんな誤解を招くような軽率な行動をするやつだとは見損なったと。」
「どうすれば証明になるの?」
「誰かと結婚するなり、婚約するなりしないと無理だろうな。ハッ!いいさ、クビにでもなんにでもなってやるよ!」
ほんの一年前まで、そんな投げやりなことを言うような人じゃなかった。
ミスをして上司に怒られ落ち込む私を、懸命に励まして「ミスをしたなら仕事で挽回するしかない。お前なら出来る」と奮い立たせてくれた人。
そんな人の変わりようが悲しかった。
何より、由希子への想いが自分の解雇に、人生に関わっていても、未だ根強く彼の中を占めていることが悲しかった。
由希子という女性のことは、人づてでしか聞いたことはない。
――父親と同じ会社に、才色兼備の美女が社長秘書として入社した。
そして、数多の男性社員が失恋の痛みで涙した。
同時に、女性社員からは反感を買った。
従って、流れてくる情報は男女に差があった。
男性はひっきりなしに、その美貌と機転の利く頭脳、そして心配りのできる優しい女性だと言い。
女性は悪戯に男性の心を誘惑し、袖にしては優越に浸り、他の女性陣を見下す悪女だと言う。
それ故に、私はどの情報が一番由希子という人物に相応しいのか分かりかねた。
ただ、涼が恋い慕う女性で、ふと見かけた由希子の涼への態度はどこか気のある素振りのように思えた。
私が目にしたのは、それだけなのだ。
眼鏡のレンズ越しに、涼の切れ長でどこか透き通った琥珀のような瞳が濁ったように翳っている。
映画館で隣り合わせて、「アニメ映画で感想言い合える友人がいない同士」で瞳を輝かせて笑っていた、あのころの涼は、今の姿にはもう見えない。
私が、大学時代からの友人と喧嘩したときも「相手は自分の鏡。自分のこともちゃんと見て冷静になるんだ。」と諭し、「お前一体いつになったら恋人ができるんだ。心配だわ、俺。」と男子と引き合わせようとする、まるで母親のような面倒見で、病気になって寝込んだら見舞いがてら看病してくれていた優しい人。
どうして、そんな人が。
今、自分の目の前で人生を投げ売ろうとしている。
私は、そうやって自分を失う涼を見るのは嫌だと思った。
彼は私の好きな人。そして同時に、大切な友達。
だから、私は。
言ってしまったんだ。
「だったら、私と婚約しよう。私には、恋人がいなくて両親から嘆かれてるし、調度いいわよ。」
涼の返事は、簡単だった。
「愛することも女として好きになることもない。だけど、そうしてくれたら助かるよ。」
魂を投げ打ったのは、もしかしたら自分かもしれない。
そう悟ったときにはもう遅くて、涼との距離が近くなったと同時に、友人でいたころよりもずっと遠い人になった。
だから、姉の言葉に、鼻の奥がツンとした。
何かを、見透かされているような気さえしたから。