小さな雲
「小さな雲」
一
黄金に輝く朝日を浴びて、大きなおおきな積乱雲から小さな雲が湧き出るように、次からつぎへと、生まれてきました。
沢山の雲が生まれる中で、一番最後に、一緒に誕生した他の小さな雲とは、大きさが半分ほどしかない、小さなちいさな雲が、朝の光の中に、勢いよく飛び出しました。
朝の光は、海面をエメラルドと黄金をかき混ぜたようにきらめき、反射させ、たった今、生まれたばかりの雲達を、祝福するかのように、更に輝かせました。
そのきらめきは、今水平線から顔を出したばかりの燃えるような太陽へと続いておりました。
「なんて気持ちのいい日に生まれたんだろう」と、一番最後に生まれた小さな雲は思いました。
空には白い絨毯で敷き詰めたように、かあさん雲から連なる沢山の雲が、小さな雲の下に広がり、その雲の切れ目から、まぶしいほどの光が差し込んできました。
気持ちのいい爽やかな風が小さな雲の周りを流れておりました。
小さなな雲は、その風にそっと乗ってみました。
少しずつ小さな雲は、大きなかあさん雲と離れていくことに気がつきました。
「ああっ、離れていく」
あわてて、小さな雲は、かあさん雲に大声で叫びました。
しかし、小さな雲は、風に流されるばかりで、どうすることもできませんでした。
かあさん雲は、その小さな雲に言いました。
「あらあら、風に乗ってしまったのね。わたしたち雲は風に乗って世界中を飛び回るのよ。行ってらっしゃい。立派な雲になるんだよ。きっと会えるときもあるからね。」
かあさん雲は、雲が風に乗って離れていくことが当たり前のように言いました。
小さな雲はぴかぴかと、朝日に照らされながら、そうかいつでもあえるのかと思い、「いってきまーす。」と小さな雲は、軽い気持ちで、かあさん雲にしばしのお別れを告げました。
風はゆっくりと、小さな雲を少しずつ、北へと運びました。
かあさん雲は、ずっと遙か遠くに小さくなっていきました。
小さな雲は、初めての冒険に、心がおどりました。
風を全身に受ける感覚、きらめく海原、海面を泳ぐ大きな鯨の影、沢山の魚の群れ、全てが新鮮で、これから何が起こるのだろうという希望でいっぱいでした。
陽が次第に傾く頃、雲は初めて人間というものを目にしました。
そこには、大きな島の波打ち際の砂浜の浅瀬で、人間たちが、波間にぷかぷかと頭をだし、ばちゃばちゃと水面を足で打ち、砂浜と海辺を行ったり来たりしておりました。
その中で、砂浜に、ビーチマットをひいて、横たわり、眩しそうに、雲を見ている人たちがおりました。
その人間たちの周りを、更に小さな犬がじゃれながら駆け回っておりました。
「人間てなんて小さいんだろう。僕の半分もないじゃないか。」
そう思うと、小さな雲はちょっとした優越感を感じて、胸を張りました。
小さな雲は、自分が見られているような気になり、精一杯の大きな声をかけてみました。
「おーい、ぼくをみてるのかい?」
その人間たちは、、何も聞かなかったかのように、太陽を眩しそうに、手をかざして、空を見ておりました。
人間たちの、小さな雲の声は、届いている様子は無く、「なーんだ聞こえないのか」小さな雲は少しがっかりしました。
小さな雲は人間が何を話しているのか知りたくなって、耳を澄ませました。
でも小さな雲は高く飛びすぎて、人間たちの話し声は聞こえませんでした。
「楽しそうだな」と小さな雲は思い、もっと低く降りようとしても、まだまだ小さな雲には、風に乗るのがやっとで、低く降りることが出来ませんでした。
小さな雲は唯ただゆっくりとした風に乗り、空を漂っているにすぎませんでした。
そのまま風に乗り、漂っていると、あの大きな島は、遥か水平線の方に、夕日の中の影となってしまいました。
あっというまに、陽が沈み、あたりを、暗闇が支配しました。
生まれて初めての夜になりました。
小さな雲はさっきまでの暖かかったあたりの空気が、急に寒くなってくるのを感じました。
それとともに、ゆっくりと小さな雲を運んでいた風は、闇が深くなるにつれ、少しずつ強くなってきました。
月が上がり始めると、その光の下に、見知らぬ雲が集まってきました。
雲が集まるにつれて、月の光が雲を照らしまるで昼間のように、明るくなりました。
もこもこっとした雲が、まるで海原の波のように、影をつくり、幻想的な光景が広がっておりました。
地上では、真っ暗に見えるようでも、月に照らされて、雲の上では、まるで昼間のように明るい光景が広がっているのです。
「君はどこから来たんだい?」
月の光の中で、いつの間にか小さな雲と並んで風に乗っていた少し大きめの雲が言いました。
「僕は南の島から来ました。」
「そうか、じゃ南の島の一番大きな積乱雲のかあさんのところからだね。」
その少し大きめの雲が言いました。
「はい、まだ今朝生まれたばかりです。」
「僕も積乱雲のかあさんからうまれたんだ。生まれたのは去年だけどね。
君と僕は兄弟雲だね。しばらく一緒に飛ぼうか?」
「ええ、ひとりでこんなに真っ暗な空を飛ぶのが、心細かったんです。」
と小さな雲は、心配そうにいった。
少し大きめの雲は、小さな雲に向かい、安心させるように、笑いながら言いました。
「心配することはないさ、だんだんと仲間がいるって事に気が付いてくるさ。
仲間がいっぱいになれば、にぎやかになるよ。雷がなったり雨を降らせたりってね。ここにだって、沢山の仲間が居るし、今君の周りに居る雲のほとんどが、南の島のかあさん雲から生まれたんだ。みな、きみの兄弟雲さ。のんびりと風に漂い、何年も何年も風に乗って漂っているんだ。ただ、台風ってものには、気をつけなければいけないよ。台風は僕たちを、破壊してしまうんだ。僕たちの雲の最後は、台風に飲み込まれてずっと北に連れて行かれて、消えてしまうんだ。そうでなければ、いつまでも、形を変えて、生きていけるんだ。」
よく知っているだろうと、少し大きめの雲が胸をはって言いました。
「台風って、あったことがある?」小さな雲は怖くなって少し大きな雲に聞きました。
「今の季節は会わないさ、もう何ヶ月も先にならないとね。発生しそうだって感じたら、急いで、別の風に乗って、出来るだけ早く、はなれるこった。でも去年は沢山の兄弟雲が台風に引き込まれたって、聞いたけど、僕は運良く台風とは反対の風に乗ることが出来たんだ。」
小さな雲は心配になってきました。
「どうしたら別の風にのれるの?どうしたら台風に会わずにすむの?」
矢継ぎ早に質問を少し大きめの雲に質問をしました。
「風を乗りこなす雲はそんなに多くないよ、僕も見たことないけど、本当に特殊な雲さ、それこそ雲の神様に選ばれた雲さ。僕らはただただ風に漂っているだけで、運が良ければ台風に会わずにすむってことだけさ。台風に会わないようにするには、動かずに南の島でじっとしているか、ずっと北へ行くことだ。南の島へはもう戻れないってくらいにずっとずっと北へと行くと、台風はないって聞いたことがあるけど、でもそうとう寒いらしいんだって。」
「寒いってどのくらい寒い?」
「雲ぜんたいがカチカチに凍っちゃうんだ。でも聞くところによると、だからといって雲じゃなくなる訳じゃなくて、少し重いなーって感じたらそのカチカチに凍った水分を地上に降らせるだけだって言ってたよ。もしかするとそんなに悪くないかもね。それとね、雲にはいくつかの種類があってね、ひとつは生まれたところからほとんど動かずに、じっとしている雲と、この南の島を中心に周る雲と、世界中を飛び回っている雲と、そして、北と南や東や西を行ったり来たりとする雲に分かれるんだって。
南のかあさん雲は、きっとほとんど動かない雲だね。雲はどんな雲になるかは、生まれた時に、どんな動きをするかで決まるらしいんだ。
僕は、東から西へ行ったり来たりしてる雲になったんだ。君はどんな雲になろうと思ってるんだい。」
「思ったらその雲になれるの。」
「どうもそうらしいんだ、こんな雲になりたいなーって、僕は生まれた時に、東から西を行ったり来たりする雲の仲間になったんだ、それでこうやって、西に流れる風に乗って、かあさん雲に会いに来てるんだ。」
小さな雲は、どんな雲になろうかと想像してみました。
でもどうしても、こんな雲になりたいと思うことが出来ませんでした。
「どんな雲になったらいいのだろう。」
小さな雲は、困った様子で、兄弟雲に尋ねました。
「そんなのは、自分できめるのさ。でも、殆どの雲は、自分の生まれたところの近くを、くるくると周っているのさ。台風の季節さえ辛抱すれば、これほど快適な生活は無いからね。」
「台風ってそんなに心配なの」と不安気に兄弟雲に尋ねました。
「そりゃ、心配さ、みんな台風を怖がっているし、いつ巻き込まれるかもしれないしね。みんなで居ると、そんなに怖くはないさ。きみも僕らの仲間になるかい?少しは怖くなくなるかもね。」
小さな雲は、しばらく考えて、その兄弟雲に言いました。
「じゃ僕は北にいってみることにするよ。」
「うん、そうかい、僕はこのままこの辺りで、浮かんでようと思う。なにせここが僕のふるさとだからね。北にあきたら戻ってくるがいいさ。世界中の風は、どこかでつながっているからね。ずっと風に乗って旅を続けていれば、また会えるさ」
そう小さな雲たちが話していると、沢山の雲が集まってきました。
みながやがやとにぎやかに、他の雲たちの安否を気にしているようでした。
小さな雲が、みんなの話を聞いて気づいたのは、殆どの雲は自分の意志で移動することが出来ないということでした。
旅を続ける雲が、経験を積み、世界中の風や辺りの風の流れがわかったときに、自分の思うような移動が出来るらしいということでした。
しかし、思うように飛び回る雲には、ここに集まっている雲は誰もが、会った事がありませんでした。
というのも風を知るほど世界を自由気ままに、飛び回る雲は、殆どいないからからでした。
そうして雲たちに混じって、風に流されているうちに、夜が明けてきました。
小さな雲にとっての二度目の朝でありました。
さっきまで一緒だった、兄弟雲も、ほかの雲も、みんないつの間にかいなくなり、小さな雲はまたひとり青い空の中にぽっかりと浮かんでおりました。
下を見下ろすと、大きな青い海が広がっておりました。
風が丁度、小さな雲の横を通り過ぎようとしておりました。
小さな雲は、その風に乗ろうとし、出来る限り空の中で大きく自分を広げてみました。
うまく、だいぶ広がって薄くなった雲の先が風に触れることが出来ると、風は小さな雲を吸い込むように、小さな雲全体を、引き込んでいきました。
今までの、ゆっくりとした動きから、小さな雲はびゅーんと風に乗りました。
見る見るうちに小さな雲は、風に飛ばされていくのを感じておりました。
海原を見ると、大きなタンカーや客船が、あっという間に遠ざかっていきました。
何日もなんにちも雲はその風に乗って、旅をしました。
そうしていると、陸が見えてきました。
その大きなおおきな陸地にそれは大きな街がありました。
街の中には、工場の煙突が空に向かって何本も伸び、雲に届きそうなほど大きな建物が立ち並んでおりました。
その街の雲たちは、たくさんの工場から出る煙と、車からでる排気ガスで薄汚れていて、皆、ぜいぜいとあえいでおりました。
その黒い煙や、埃をいっぱいに吸い込んだせいで、体が重くなって、その島から逃げ出すことが出来なくなっていたのです。
「そこの風に乗っている雲さんや。どこにいこうとしているんだね。」
小さな雲にその島の雲が、見上げて呼びかけました。
「北に行こうと思ってます。」
「北か。それはいい、私も行ってみたいけど、どうも体がいうことが利かなくてね。」
どす黒い雲は、うらやましそうに言いました。
「そこから出ることはできないの?」
小さな雲は、言いました。
「ここから出るには、台風が来ないと、出れないんだ。でも台風が来ると、消えてなくなってしまうから、一度ここに入ったらおしまいなんだ。でもね生まれたときは、君みたいに本当に白く小さかったんだけど、いつの間にか、こんなに黒くなってしまった。雨を降らせても下の人間たちは嫌がるし、降らせなきゃそれで益々黒くなるし。」
どす黒い雲は、悲しそうに、小さな雲を見上げました。
「気をつけなさいな、小さな雲さん、決して街中の雲になるんじゃないよ。」
小さな雲は、もしかしてその雲を風に乗せることが出来るのではないかと思い、体を大きく広げて、引っ張ろうとしましたが、どうしても、どす黒い雲の低いところまで体を伸ばすことが出来ませんでした。
「もう少し大きければ、届くのに。」
と小さな雲は、自分の小さな体を嘆きました。
なんと無力なんだろう、もし自由に空を駆け巡り、困っている雲を助けることができたら、どんなにかうれしいのにと小さな雲は思いましたが、結局、どうあがいてもどうすることもできませんでした。
「やめときなさい、もしこの町に吸い込まれでもしたら、おしまいなんだからね。その風に乗って、そのまま北へ向かいなさい、いつか台風に乗って、わたしが消えなかったときには、きっとまた会えるといいね。」
そうどす黒い雲は、悲しそうに小さな雲に言いました。
小さな雲は、どす黒い雲を助けようと体いっぱいに広げた体が、風と雲の間で、伸びきっているのを感じました。
これ以上風に逆らうと、切れてしまいそうでした。
「それじゃ黒い雲さん、北で先に待ってますね。」
小さな雲はそのどす黒い雲に同情し、悲しく思いながら、又再び、伸びきった体を小さな白い塊に戻していきました。
風は、少しだけ、速度を速めましたので、どす黒い雲の町はどんどんと遠ざかっていきました。
こうしながらも、小さな雲は、少しずつ風をつかむこつを覚えていきました。
二
それから幾日も幾日も風に漂いながら、小さな雲がついたところは、広い畑の広がる、盆地でありました。
そこまで来たときに小さな雲は、自分の姿が、今までの何倍もの大きくなっていることに気づきました。
その白さは更に白く、青い空に上に、純白の大きな雲として、風に乗って北へ向かって漂っておりました。
小さな雲は、風に乗り方を、知るようになって来ました。
よほどの事がないかぎり風は、いろんな方向にも吹いているということも、わかってきました。
山からの風は、地上をなめるように吹き、その上を交差するように風が吹いていて、更にその上を山とか関係なく、南からの風、と北からの風が流れておりました。
その風の吹く方向に体を広げて、その風に吸い込まれるだけで、自由自在に方向を変更できることがわかったのです。
上空を一所に向かって吹いているときは、風の交差する所まで一旦行って、そこから別の風に乗ればいいのです。
ただし、あまり湿気を多く含むとそこから、新しい風に乗ることはとても難しく、その土地から身動きが出来なくなるということもわかってきました。
このことは、小さな雲にとって大変な発見でした。
「なんだ簡単じゃないか、なんでどの雲もやらないんだろう。」
ああこれで世界中を自由に飛びまわれると、思ったのです。
小さな雲はその大きく広がる畑の上で、盆地の中の風に乗りました。
その風はのんびりと盆地の中を、照りつける太陽の下で、くるくると周っておりました。
太陽は、容赦無く地表を照りつけていて、地表からは殆ど、水分を感じることは出来ませんでした。
盆地の中の畑は、よく見ると、だいぶくたびれたようすで、どうやらここ何週間も雨が降ってはいないようでした。
小さな雲は、盆地の畑を見下ろすと、その真ん中で、一人の男の人が、いるのに気がつきました。
その人は、白い手ぬぐいで、汗をふきながら、かんかんと照る太陽の下で、一生懸命仕事をしておりました。
畑のそばを流れる川は、ほとんど流れているのがわからないくらいに細くなっておりました。
およそその男の人の一歩ほどの幅しか無いように見えました。
川に沿った土手から以前の川幅が、男の人の百歩もあるだろうと思われるほどの川幅でした。
畑で仕事をしている人の様子を、高い空から見ていると、どうやら、枯れてしまって駄目になった野菜を畑から、引っこ抜いているようでした。
その時、畑で仕事をしている人に子供が、団子が転がるように駆け寄ってきました。
麦藁帽子に、ランニングシャツに、短パンという格好の子供が、その人に声をかけました。
小さな雲は、耳を澄ませて彼らの話に聞き耳をたてました。
「とうさん。お昼ごはんを持ってきたよ。」
手に持った小さな包みを、畑で仕事をしている人に、差し出しながら言いました。
声をかけられた男は、動かしていた手を休め、腰を叩きながら、子供の方へと、顔を向け、その包みを受け取りました。
「このまま雨が降らないと、今年の野菜は全滅かもしれないな。」
大きなおとなの人が、その子に、険しい表情で言いました。
「この野菜が収穫できないと、困ったことになってしまう。昨年は冷夏で野菜がとれなかったし、今年は暑すぎて、枯れてしまう。どうしたらいいのだろう。」
大きなおとなの人は本当に困ったという表情で、独り語とのように言いました。
子供は、大人の困った様子に、途方にくれて、空を見上げました。
そしてそこに小さな雲が、青空の中にぽっかりと浮かんでいるのを、目にして小さな雲に向かって指をさしました。
「きっとあの雲が雨を、降らせてくれるよ。」
大きなおとなの人も子供と一緒になって、空を見上げました。
「あれは雨雲じゃないから、駄目だな。それにうんと小さいじゃないか。もっと水分を含んでなきゃ、降りそうもないね。」
「じゃ、あの雲に、大きな雲になって、雨を降らせてって、お願いしてみる。」
子供は大きな声で小さな雲に呼びかけました。
「おーい。そこの小さな雲さん、雨を降らせておくれ~。今年、野菜がとれなきゃ、ここを出て行くしかないんだ~。雲さん、雨を降らせておくれ~。」
その子の声は、畑じゅうにこだまして、小さな雲にも十分聞こえてきました。
小さな雲はその畑の周りを、大きくゆっくりと円を描いて、回り始めました。
翌日もその翌日も、子供は小さな雲を見かけると、同じように大声で声をかけてきました。
小さな雲は、その子の真剣に、お願いする姿に、どうにかしてあげたい、と小さな雲は思うようになってきました。
それでも小さな雲は相変わらず小さく、水分などほとんど吸い込んでいませんでしたし、照りつける太陽で、小さな雲さえ蒸発してしまいそうなくらい、暑くなっておりました。
雨を降らそうにもどうすることも出来ませんでした。
小さな雲は、どうしたら雨を降らせることが出来るか一生懸命考えました。
海に行こうと、小さな雲は考えました。
きっと海に行って、低く飛ぶことさえ出来ればたっぷりと水分を吸収することができると、小さな雲は考えました。
今までゆっくりとその畑を回っていたのんびりとした風から、海へと向かっている東の風にのりました。
海へ向かう風は強く吹いていて、瞬く間に、小さな雲を海へと連れて行きました。
そして小さな雲は、今後は海面に沿って吹いている風に乗りました。
その風に乗ると、小さな雲は、海面から蒸発してくる水で、自分が重くなってくるのを感じてきました。
水分を吸収すると、みるみるうちに、大きな灰色の雲となっていきました。
もう十分すぎるくらいに、小さな雲は水を体いっぱいに含み、これ以上大きくなると、もう動けないというところまで大きくなりました。
もう風に乗らなきゃ、と小さな雲は思おりました。
海面すれすれを飛ぶ、小さな雲は大きな畑へと向かう風になかなか乗ることができませんでした。
体を伸ばして、風に乗ろうとすると、どうしても今まで含んだ水分が雨となって海面に落ちてしいました。
また、落とした分の水分を含んでということを繰り返しておりました。
そんなことを繰り返していると、小さな雲は自分が、今までに感じたことが無いほど、大きな雲になっていることに気づきました。
もう、大きな畑へ向かう風に乗れるくらいの大きな雲へと変わっていきました。
盆地へ向かう風に、小さな雲は、その大きくなった体をあずけました。
ようやく、畑へと戻ってみると、相変わらず大きなおとなの人は、畑から野菜を引っこ抜き、無造作に投げ捨てている最中でした。
屈んでいた体を起こして、山の端を眺めると、大きなおとなの人は、小さな雲が、畑へと向かっていることに気づきました。畑の近くの家にむかって大きな声をかけました。
「雨雲が近づいてるぞー。」
家から、あの子供と、そのお母さんが飛び出してきました。
お母さんは、洗い物をしていたのか、前掛けで、手を拭きながら、山を越えてやってくる小さな雲を、目を細くして、見上げました。
子供は、畑の中のお父さんに向かって駆け出しました。
もくもくとした、雨雲に姿を変えた小さな雲は、ゆっくりと畑へと近寄っていき、畑の風に乗った瞬間に、抱えていた、水分を全て、吐き出すかのように大粒の雨を降らせ始めました。
盆地一面を、叩きつける雨で土埃が舞い上がり、蔽いつくしました。
畑の真ん中で、その親子は、ずぶ濡れになりながら、小さな雲を見上げておりました。
「絶対間違い無いよ、とうさん。あの小さな雲が、この雨を運んできてくれたんだよ。僕の声に応えてくれたんだね。」
小さな子供が、誇らしげに大きなお父さんに言いました。
「きっと、そうだね、あんなに大きな声でお願いしたんだから。聞こえないはずがないじゃないか。」
大きなお父さんは、小さな子供のずぶぬれになった頭を撫でながら言いました。
小さな雲は、それから一日中、雨をふらし続けました。
畑は、その雨で十分、水を含んだ、灰色から、こげ茶色へと、色を変えながら空から降り注ぐ雨を、勢いよく吸い込んでいきました。
あるかどうかわからなかった川は、たちまちいつもの大きな流れへと変わり、辺りの緑はようやく息を吹き返したようでありました。
その翌日は、先日までの日照りがうそのように、畑一面を緑が蔽いました。
太陽の光は、柔らかく畑を照らし、葉に付いた水滴にその光が反射して、畑一面がきらきらと輝いて見えました。
あの小さな子供は畑の中を、泥だらけになりながら、嬉しそうに駆け回っているのが見えました。
それを見ると、小さな雲は、とても満足した気持ちになりました。
小さな雲は、自分の中の水分を全て出しきったため、またもとの小さな雲に戻っておりました。
前と同じように、青空の中にぽっかりと、小さな雲が浮かんでいる小さな雲を、見上げた子供が、両手を口に当てながら、大声で小さな雲に、叫びました。
「ありがとう、小さな雲さん」
初めて、人間と話が出来た気がしました。
小さな雲は、その声に答え、二回ばかり回転すると、また北へ向かう風に乗りました。
三
もう小さな雲は、風に乗ることも、自分を大きくすることも小さくすることもできるようになりました。
空中を旋回したり、大きくなったり、薄く空に広がってみたりと、小さな雲は、考えることができる、様々な形を試しました。
あるときは、魚の形をしてみたり、車の形とか、そうすると、地上の人間たちが小さな雲を指差して、なにやら嬉しそうにしているのを、
楽しんでおりました。
そうして北に向かって風に乗っていると、ある日、小さな雲は、たくさんの雲の群れに出会おりました。
ふつうは雲は単独でいることが多く、見た目にはたくさん雲があるように見えるけど、それはひとつの雲であることのほうが多いのです。
小さな雲はいつものように大きくなったり小さくなったりの飛行を楽しんでいると、少しばかり早い風に乗った、鰯雲の群れが近寄ってきました。
その雲の群れは、小さな雲を発見すると、小さな雲と同じ風に乗りました。
「そこの雲さん、楽しそうだね。」
リーダーと思われる、年老いた雲が、うらやましそうに言いました。
「ええ、どんな格好が一番楽しいか、試しているんです。」
「そんなことが出来るなんて、よほど年齢が上なんだね。」
「いいえ、つい何ヶ月か前に生まれたばかりです。」
小さな雲は経験のある雲と間違われて、照れくさそうにいった。
「大きくなったり小さくなったり、旋回したりって、そうそう身に付くものじゃないよ。
誰かに教わったのかい?」
「それもないのです。自分で楽しいと思ったり、しているうちにできるようになってしまったんです。」
「それはすごい。この群れは、100近い雲が一緒に漂っているけど、大きくなったり、小さくなったりはできても、旋回したり、ものの形に見せるってまだできる雲はいないんだ。」
そして何か思いついたように、小さな雲に提案を持ちかけてきました。
「もしよければ、一緒に群れになって、しばらく教えてくれないかな。」
小さな雲は、一緒に旅をしたことがなかったので、仲間ができることをうれしく思いました。
「いいですよ、一緒に飛びましょう。」
雲の群れはみんな嬉しくなって、喜びの声をあげました。というのも、どの雲も、自分の思うように、旅ができ、思うように形を変えたいと、いつも願っていたからなのです。
地上から見上げると、規則正しく並んだ鰯雲の中心に白い餅のような小さな雲が、混じっているのが、不自然に見えていることでしょう。
鰯雲は、みんなで一つの雲のように、リーダーの向かう方向に、移動を繰り返しておりました。
その移動は、季節によって、移動場所を変え、秋の季節の地域を行ったり来たりする雲でした。
その日から、鰯雲の皆で風に乗る練習や形を変える練習をしました。
しかし、小さな雲がどんなに教えても、上手く形を作ることができませんでした。
皆それぞれ思った形ではなく、誰もができる鱗の形しか作ることができませんでした。
どうしてできないんだろうと、小さな雲は残念に思いました。
小さな雲が形を作るときには、過去に見た動物や人間や時には、夜空に広がる星や月を心の中でイメージしていくと次第に、その形となっていくのでした。
これは、薄く空いっぱいに広げたり、ずっと身を縮めて今にも雨を降らすぞっていうぎりぎりのときに、できるようになったのでした。
小さな雲は、皆に薄く広がる練習をするように言いましたが、なにしろたくさんの雲の群れの中にいるのでお互いにどうしてもぶつかってしまい、上手く広がることが出来ませんでした。
風にのるのも同じ事で、自分の思った風に乗るには、どうしても幾つかの風を、自由気ままに、感じなければ乗れないのです。
小さな雲は、どうしてこのくもの群れが、上達しないのかを、知りました。
「雲のリーダーさん、練習していて気がついたんですが、こうして皆が一緒にいると、上手く風に乗れませんよ。形を変えたり、思ったような風に乗るには、空いっぱいに体を広げなければ、乗れないのです。風に乗るには、体を大きく広げて、自分に触ってくる風を感じるのです。風を感じたら、その風に吸い込まれるように、身を任せるのです。」
「でもそんなことをすると皆ばらばらになっちゃうんじゃないか。僕らの仲間は、どうしても離れるのが怖くてね。一緒にいることが多いんだ。北から南へと、ゆっくりと秋を感じながら、仲間と一緒に移動しているんだ。君みたいに、世界中を一人で旅して回る雲は、台風や大きく成長し過ぎた雲を除いたらほとんどいないね。」
「でも台風が来たときは、どうするんですか?結局、台風とかに飲み込まれたら、それで終わりじゃないですか。」
「台風の時には、確かに幾つかの体を軽くできない雲が飲み込まれることがあっても、みんながそうなるってことはないんだ。もっと体を軽くして、空高く宇宙に本当に近いところまで、
上昇するんだ、そうすると大丈夫さ。ほとんど青空の中に溶け込むぐらいに体を軽くしてね。」
小さな雲は、初めて台風から避ける方法を知りました。
「でも、台風から助かる雲とそうじゃない雲はどうやって決まるの。」
「それは、いち早く軽くできるかどうかさ、軽くできたものから、どんどん大空へ上昇していくから、ようは早い者勝ちだね。まあこの中の雲で言えば、半分は台風に飲み込まれてしまうんだけど、また、すぐに、生まれてくるのさ、新しい雲がね。」
小さな雲はその話を聞いているうちに、だんだんと悲しくなってくるとともに、自分が一人ぼっちの小さな雲であることを感じ始めました。そいえば、みんなどの雲も一人じゃなかった。一緒に群れて、同じように移動して、同じように消えていくという繰り返しを、みんなしていたことに気がつきました。どうして僕だけが、一人なんだろう。もしかして北へ行くとひとりじゃなくなるかもと、小さな雲は考えました。
「僕はもっと北の台風の無い、ところを目指そうと思ってます。なんかずっと北のほうで、漂う風になりたいと思ってます。明日の、夜明けの一番風にのって、皆さんとお別れします。」
だんだんといたたまれなくなった、小さな風が鰯雲の年老いたリーダー雲に言いました。
「そうか、夜明けの一番の風で行くのか、もっといてくれたら、もっと教えてもらえたのに。」
年老いた雲はは小さな雲に、残念そうに言いました。
その日の夜は小さな雲は、眠ることができませんでした。
あたりの雲の群れは、皆、離れ離れにならないように、寄り添って、分厚い雲の塊のように眠っておりました。
その雲の塊の真ん中に、ひとつだけ小さな雲が月を半分、隠すように浮かんでおりました。
結局、小さな雲は眠ることができませんでした。
夜が明けてきて、周りの鰯雲の群れを赤々と照らし、水面を照らす太陽の光は、ダイヤモンドのきらめきのように、雲の群れを照らして、銀と灰色のコントラストの中で、浮き上がって見えておりました。
小さな雲は黄金の光の中で、まだ寝ている鰯雲のみんなに、小さな声でお別れをいい、空いっぱいに大きく広がりました。
大きく伸びきると、丁度、北へと向かっている風を、捉えることができました。
小さな雲は北へ向かう風に吸い込まれていきました。
四
上空を流れる北へと向かう風は、ものすごい速さで流れていて、海面や陸地をあっという間に遠い水平線へと消していきました。
そこからは小さな雲はゆっくりとのんびりとした風に乗り換えて、北を目指しました。
あたりはだいぶひんやりとしていて、かなり北に来たことがわかりました。
地表を見ると、針葉樹の森が広がり、鹿の群れが、その針葉樹に見え隠れしておりました。
大きな川はゆっくりと、湿原の中を蛇行して流れ、川底の魚の影もしっかりと見えるくらいに、空気が澄んでおりました。
その湿原の傍には、人間の住む家が点在しており、家と家の間には、小道で結ばれておりました。
小さな雲は、暫くここにいることに決め、この湿原地帯を周回している風に乗りました。
湿原地帯では、低く水分を十分に含んだすき間雲が群れて、住んでおりました。
群れといっても、湿原を覆いつくすほどでは無く、湿原に散らばって、存在するといったようなものでした。
小さな雲は、自分の下に広がるすき間雲の邪魔にならないように、遥か上空に巻き雲として、薄く広がっていることに、決めました。
そこの雲たちは、陽が上り、気温が高くなると、霧状雲へと変化し、その繰り返しで、雲たちは、湿原に適度な雨と光を、注いでおりました。
湿原の雲は皆この地で生まれて、この湿原をまわっている雲たちでした。
雲たちは、自分たちも、そこに住んでいる人間たちも、共存することが出来るように、気を使いながら生活をしておりました。
そこに住む人間の中で、小さな雲は、老夫婦が、仲良く暮らしているのを目にしました。
彼らは、湿原の端に、少しばかりの畑を持ち、自分たちの食べる分だけ、耕し、生活をしておりました。
小さい畑ながらも、来る日も来る日も、二人は畑に精を出しておりました。
朝、日が明けるとすぐに、畑へと向かい、昼時に一度、二人は家へと戻り、また畑へと出てくる。そんな生活を繰り返しておりました。
小さな雲は、下に広がる、たくさんの雲の合間から、二人を見ておりました。
湿原の雲たちは、その老夫婦を生まれたときからの知っているらしく、何かにつけ、老夫婦の手助けをしていて、一緒にくらしておりました。
老夫婦は、そのことを知ってるかのように、時折畑に振り下ろす鍬を置き、感謝するかのように、空を見上げておりました。
小さな雲は、そんな雲たちや老夫婦の、生活を邪魔しないように、空高く、出来るだけ高いところで、見ておりました。
そこに住んでいるどの雲も幸せそうで、賑やかで、又、歳をとって蒸発していく雲もあれば、新たに誕生する雲もあり、そして新しく誕生してくる雲は、古くからの雲から、そこでの生き方を受け継ぐという形で、生活をしておりました。
夏には、程よく湿原を湿らす雨を降らせ秋の実りある収穫を約束し、秋には、冬へ向かう準備の雨を降らせ、冬には、たくさんの雪を降らせ、春には深く積もった雪を溶かし、緑を芽吹かせる雨を降らせるという、一年の繰り返しが、そこにはありました。
何年も何年も小さな雲は、遥か上空に留まり、湿原の雲と老夫婦との生活を見ておりました。
穏やかで、何かほっとするような、リズムがその中にあり、何事も無く、平穏な日々が流れていくように思われ、小さな雲は、それを見ているだけで、幸せを感じるようになってきました。
幾年かが過ぎても、老夫婦は歳を重ねたようには見えず、相変わらず、朝早く畑へと、出て夕方になって陽が暮れる頃に帰っていくという生活をしておりました。
ある朝、突然、小さな雲は、なにやら下の雲が騒がしくなっていることに気づきました。
ここに小さな雲が来て以来、初めてのことでした。
小さな雲は、あまりの雲たちの騒がしさに、何を話しているか聞き入ろうと、少し低いところまで降りていきました。
今まで見たことの無い雲たちが、湿原の全てを覆い尽くしていて、いつも湿原の下にあった畑や老夫婦の姿は全く見ることが出来ませんでした。
いつの間にか、下の雲たちの数が急激に増えてきておりました。
それも次から次へと雲がその湿原に入り込んできて、押し合いへしあいをし、真っ黒な雲になり、渦を巻いて、たくさんの雨と、雷を地表に落としておりました。
次から次へと押し寄せる雲に、今までいた湿原の雲たちが、必死になって追い出そうとしておりました。
「どこから来たんだ。こんなにもたくさん。」
湿原の若い雲が、新しく侵入してきた雲に、怒って言いました。
「西からさ、もう西じゃ雲が生きていくことが、出来ないんだ。どんどん砂漠が侵攻して、雲を作るような水もなければ、湿気もない。
あるのは、人間が排出した薄汚れた空気と、砂に埋もれた建物があるだけだ。人間は木を切ることしか知らないし、少しばかり残った緑さえ、飼っている動物に食べさせてしまう。
緑がどんなに雲にとって大事かこれっぽっちも考えちゃいない。ある日突然に、西のほうから砂嵐が吹いてきて、驚くような速さで、残った緑や、そこにあった川や湖、そして人間が作った建物を、一気に飲み込んでしまったのさ。
ほとんどの雲は、砂と照りつける太陽にやられてしまって、結局、蒸発しなかったものだけが、この地にやってきたっていうわけだ。」
西の雲は、どうしようもないって顔で言いました。
その話を聞いていた、北から来た別の雲が言いました。
「君は西から来たのか。僕は北から来たんだ。
北もひどいことになってしまっていてね。というのも、北ではどんどんと暖かくなってきてね、雲が次からつぎへと誕生してしまっているんだ。居る場所も無いのに、生まれてくるから、あふれ出てしまっているんだ。勝手に風に流されて、ここにきてしまったんだけど、ここよりももっとひどい状況でね。なにせ急に、気温も水温も上昇してね。海の中にいる、低温の好きな生物は、殆ど死に絶えてしまったよ。今じゃ暖かいところの生物が、我が物顔でのさばって…」
北の雲は、困ったように言いました。
しかし、一番困っていたのは、湿原の雲たちでした。
湿原の雲は、何年もなんねんも仲間同士でのんびりと平和に暮らしていたのに、突然、世界中の雲がここに押し寄せてくる、そんな気がしておりました。
既にこの湿原の雲は、一番低い層に湿原の雲、その次の層に、西から押し寄せた雲、そしてその上の雲は、北から押し寄せた雲、それらの雲を覆うように成層圏に届きそうなところに小さな雲が、広がっておりました。
小さな雲からは、湿原をこれっぽっちも見ることは出来なくなっておりました。
北の雲と、西の雲とが、渦を巻いて、湿原の雲を圧迫しておりました。
渦の中からたくさんの雨と雷を、湿原の雲を突き抜けて、湿原に叩きつけるように、落としておりました。
湿原の雲の悲鳴が、ずっとずっと上空にいる小さな雲に届いてきました。
小さな雲は、大きく広がっていた体を、再び小さくし、少しずつ、低い雲のほうへと、降りていき、充分に水を含んだ新しくやってきた雲から、水分を自分の中へと取り込み始めました。
見る見るうちに、小さな雲は大きな体へと成長していきました。
小さな雲は、体が大きくなるたびに、体を広げ、湿原のすべて覆い尽くす程の巨大な雲となりました。
雲は、水分さえなければ、とても小さな塊でしかありませんでした。
みるみる内に、小さな雲の下の雲たちは、小さくしぼんでいき、それまで、湿原に降らせていた雨や雷が、少しばかり、やわらいできました。
それを確認すると、小さな雲は、西へ向かう風に乗りました。
小さな雲の下に逆方向に流れる風には、西の雲が、途切れることなく、次々と湿原に向かって、流れていくのが、見えました。
小さな雲は、丁度砂漠が進行しているところに到着しました。
そこには西の雲が、我先に湿原へと向かう風に乗ろうと、ひしめいておりました。
地面は、そこに集まっている雲と地表の区別がつかないほど、砂埃が舞い散り、陽が高いにもかかわらず、まるで夜のように、真っ暗でした。
そんな光景が、見渡す限り、砂の海原のように地平線まで続いておりました。
西へと向かう風は細く、乗れる雲も限られておりました。
ずっと最後尾の雲の端から、砂嵐と熱風とかんかんに照りつける太陽の下で、蒸発して消えていくのがわかりました。
「そこの大きな雲さんや、何しにここへ来たのかい。もうここには何も無くなってしまったよ。水も、緑も、人も、全て砂になってしまった。ここにくる意味なぞ無いのに。私らも、早いとこ、水の沢山あるところに行こうと思っているんだ。」
この地の長老雲が、細く東へと流れている風のところに行こうと、あせった様子で、小さな雲に言いました。
「東の湿原は、もう雲で一杯で、これ以上東に行くの無理だよ。みんなに、ここに留まるように言ってくれませんか。」
「そうは言っても、ここじゃ蒸発してしまうだけで、誰も聞きやしないさ。誰も、自分だけが大事なのさ、こういっているわたしだって、すぐにでも東の風に乗りたいのさ。」
小さな雲は、再び砂ばかりの地表を見ました。
砂嵐の切れ間からところどころ、以前は人が住んでいたと思われる、ビルや家々が、まるで遺跡のように砂に埋もれているのが、見えました。
「どうだい。見ただろう、この下には、砂ばかりさ、人間が、緑を食い散らかし、水をどんどんと使い、今、この下には水分なんて殆どないのさ。砂の下には、コンクリートとアスファルトが広がっているのみさ。」
長老雲が、うんざりとした様子で、言いました。
「でも、このままみんな東へと行ったら、それこそ、そこで生きている人や雲が迷惑すると思うのですが…。」
「でもそこには水はあるのだろう、みんな集まるって、いうことは、ここで、蒸発するよりはいいと、皆、思っているのさ。」
「そうだ、そうだ。僕たちが、どうにか生きていければいいのさ。」周りの雲も長老雲に同調するように言った。
「じゃ、水があれば、ここに留まってくれるんだね。」
小さな雲は、長老雲だけでなく、周りの雲にも、尋ねた。
「そうさ、ぼくら雲は、水分がなきゃ、生きていけないってよく知っているじゃないか。この下はなにも無い、水も緑も、ましてやその原因となった人間さえ逃げ出してしまった。」
それを聞いた、小さな雲は、大きく広げた体を、再び小さくして、その大きく広がった、砂漠に、たくさんの雨を降らせました。
雨は、ものすごい勢いで、小さな雲から流れ出ました。
砂嵐はたちまちのうちに、収まり、そして雨は、砂漠の中に、吸い込まれるように消えていきました。
その雨は、小さな雲がなくなってしまうほど沢山降らせました。
今度は、東の風に乗ろうとしていた、雲たちは、立ち止まり、砂漠の中から蒸発してくる水分を、我先に取り込もうと、今度は、砂漠の中で、争い始めました。
吐き出すだけ雨を降らせた小さな雲が、本当に小さな雲になったときに、再び、東の湿原へと向かう風に乗りました。
湿原に戻ると、上空を流れる北と西の風に乗って、さらに多くの雲が集まり、幾層にも重なり合いながら、
これでもかって言うほどの、雨を湿原に降らせ続けておりました。
湿原の真ん中を流れていた小さな川は、今や湿原いっぱいに広がり、あの老夫婦の家も、畑も水のそこに沈み、ようやく家の屋根が、見えているという状態でした。
老夫婦は、豪雨の中、ずぶぬれになりながら、家の屋根に並んで腰掛けて、水の引くのを待っておりました。
しばらくすると、ゴムボートにのった何人かの人が、老夫婦を助け出しました。
それを見て、小さな雲はほっとして、再び水をたっぷりと含んだ巨大な雲となり、砂漠へと戻っていきました。
砂漠では、小さな雲が降らした雨のおかげで、大きな川ができておりました。
照りつける太陽のもとで、水分が蒸発し、霧が発生しておりました。
長老雲や、東に向かおうとしてそこに留まっていた雲たちが、その水蒸気をたっぷりと吸い込んでおりました。
それらの雲は、僅かばかりではあるが、雨雲となって、雨を降らせはじめました。
西の雲たちは、小さな雲が運んでくる雨を期待して、そこに留まることにしました。
小さな雲は、何年も何年も砂漠と湿原の往復を繰り返しておりました。
しかし、湿原は、元の湿原には戻りませんでした。
湿原には、相変わらず北からの雲が流れ込んできて、その降らす雨が、大きな川をつくり、
あの老夫婦の家も、畑も飲み込んでしまいました。
その後、再び、小さな雲は、あの老夫婦の姿を再び見ることはありませんでした。
五
何年かそんなことを続け、次第に砂の大地が、緑色に染まっていくのがわかりました。
そして何十年かが経ち、砂の大地に木々が育って、ちょっとした森へと変わっていきました。
鳥が戻り、動物が森を駆け回り、湿原へと逃げ出していた、西の雲がこの地へと戻ってきました。
西の雲が戻ってくると、森はさらに深く緑を繁らせ、人がそこに住み始める以前にそうであったような、雄大な自然を取り戻していきました。
あるとき、森の端に一軒の家が建ちました。
どうやらこの森の動物を狩る猟師のようでした。そのうちに森の真ん中に道ができました。
人が新たに出来たこの森に、住み始めたのです。
小さな雲は、せっかく育った緑の森が、切り倒されるのを見ると、心を痛めました。
最初は一人だった人が、二人になり、五人となり、次第に人が増え始めました。
森の木々は刈り取られ、少しずつ、緑に代わってコンクリートとアスファルトが広がっていきました。
西から、熱く乾燥した埃っぽい風が、吹き始めました。
風の匂いが変わったと、小さな雲は思いました。
無性に、小さな雲は、生まれたときの、あの美しい、南の島を懐かしくなってきました。
小さな雲は生まれた南の島に戻ろうと思い、何十年ぶりの故郷へと、帰ることにしました。
そう考えると、小さな雲はいてもたってもいられなくなり、遠い南の海の母や兄弟のことを思い出し、無性に懐かしくなってきました。
そう小さな雲は帰ろうと決意すると、自分の体を大きく広げて南の風に乗りました。
南への風は気持ちよく、小さな雲を運んでいきました。
何日も旅を続け、ようやく南の大海原へと到着しました。
小さな雲が、生まれて、初めての黄金のきらめきを、見て以来、何十年の月日が流れておりました。
懐かしい風と何も変わっていない風景を見ると、ほっとし、気持ちが落ち着いてくるのがわかりました。
もう既に、あの時の小さな雲では無く、この辺りでは一番大きな堂々とした雲へと成長しておりました。
近くを通り過ぎる雲はどの雲も見知らぬ雲ばかりで、なにか別の世界へ来たような気がしました。
「そこの立派な雲さん、あなたはどこから来たのですか?」
小さな雲の横を通り過ぎるそれもまた大きな雲が小さな雲に尋ねました。
「北から来ました。」
「北からですか。北には永遠に雲が消えない土地があるということを聞きましたが、とても住みやすいところなんでしょうね。」
その通り過ぎようとした雲は、好奇心いっぱいに小さな雲に尋ねてきました。
小さな雲は、なんと言ってよいかわからずに、その雲に微笑みかけました。
小さな雲はその雲に大きなかあさん雲のことを尋ねました。
「何十年も前に、ここに本当に大きな母雲がいたと思うのですが、それもここの大海原全体を覆いつくすような大きな母雲ですが、どこにいるかわかりませんか?」
通り過ぎの雲は、なんと応えてよいかわからないという口調で小さな雲に言いました。
「大きな母雲なら沢山あって、わからないけど、ほとんどの雲が何年か毎に台風に成長して、辺りを巻き込んで消えてしまうんですよ。
それこそそんな大きな母雲なら、台風になってしまっているでしょう。きっともうあなたのいう母雲はなくなっているね。毎年、大きな積乱雲は、台風になって、消えていくからね。」
通り過ぎの雲は、すまなさそうに言いました。
小さな雲は、台風の発生が母雲にあったと知り、びっくりしてしまいました。
「今まで、知らなかったのですが、台風って母雲だったんですか。」
「そうだよ、何回か台風を生き延びた雲だけが、それを知っているんだ。君ほど大きな雲となれば、当然、知っていると思ったのだけどな。」
小さな雲は、悲しそうにその言葉に、ただただうなずくのみでした。
暫く、南の島の上に、留まっておりましたが、そこにも自分の居場所を見つけることが出来ずにおりました。
沢山の喪失感を感じながら、小さな雲は、大きく体を広げて、空高く、薄く広がりながら、上がっていきました。
海から見ると、小さな雲は、空いっぱいに広がって、宇宙の色と変わらないくらいに、薄くなりました。
小さな雲の下にはいくつも雲が、大きくなったり小さくなったり、新しく生まれたり、消えていったり、その時間の流れの中で、眺め続けることにしました。
時には地上のどこかの山が噴火して、空中を灰が覆っても、人間が出す、排気で、汚れた雲が漂ってきても、小さな雲は、づっと見続けることにしました。
何十年、何百年と、そしていつか本当に地上の生命と、小さな雲とが共存できる時がきて、
雲の助けが本当に必要となったときに、小さな雲は、再び本当に小さなな雲に形を変えて、雲としての一生を終えようと決めました。
誰もが本当に澄み切った青空を眺めたとき、その空にいつもうっすらと、白い雲が、青い空の中に広がっているのを見ることができるでしょう。
きっと人間が本当に困ったときに、暑く陽に照らされた盆地に水を運んだように、また、湿原の雲や老夫婦を助けようとしたように、その白い雲が地上に近づき、それこそ小さな雲となって、私たちを、助けてくれるでしょう。
その時がくるのを、づっと、小さな雲は、私たちを見続けているのです。
おわり