いつか、君のとこまで
とある企画で候補に上がったお題を元に書いています。
お題は『勉強会』
広斗がチャイムを鳴らし、不用心にも鍵の掛かっていない玄関を開けると、ドタバタと階段を駆け下りる音とともに、マユがピンクのパーカーとハーフパンツの部屋着姿で現れた。
「ヒロ、いらっしゃい」
「おう。あれ、オレも着替えてくればよかったかな」
自身のブレザーに視線を落とし、広斗はそうこぼしたが、マユは、
「いいよ、私はちょっと掃除してただけだから」
と言って笑った。
「ふぅん。そんなきれい好きだったっけ?」
「どうでもいいでしょ。それよりほら、上がれば」
靴を脱ごうとしたところで広斗は気づく。
「あれ? おばさんは?」
「ん、今日は仕事だよ……って、2人きりだからって変なことしないでよね?」
「するか、お前に。――ちゃんと勉強しに来たんだよ、オレは」
勉強道具の入ったトートバッグをマユに見せつける。
「はいはい。んじゃ二階に行こ」
+ + +
階段を登り、久しぶりに幼なじみの部屋に入るとマユは、
「お茶持ってくるね。……あ、変なとこ開けないでよ」
「開けねぇって。お前の下着なんか興味あるか」
「別にタンスとは言ってないんですけど……」
「う…………」
疑いの目を見せてくるマユの気を逸らそうと広斗は、手に持っていたもう1つの袋をマユに押し付けて、
「ほらこれ、うちのオカンから。プリン」
「うわ! ほんとに?」
「つーかお前、さっきからこればっか見てたろ」
「えへへ、バレた? だって気になっちゃって。おばさん、私の好み覚えててくれたんだ」
ほころぶように笑うマユを見ながら、
「『マユちゃんに勉強みてもらうんならプリンくらい買っていきなさい!』だってさ」
「気を遣わなくていいのに」
「――でも食べるだろ?」
「もちろん!」
心なしか、軽やかな足取りで一階へと降りていくマユを見送って広斗は、床のクッションに腰を下ろし、改めて部屋を見渡す。
マユの部屋に入るのは中学生以来だった。小奇麗に整頓された部屋は、記憶の中の幼なじみの部屋とそう変わっていないとは思うが、学習机に並ぶ本や、ぬいぐるみのラインナップは入れ替わっているようだった。
ついついタンスに目がいってしまうが、
「いやいや、そうじゃねえって……」
と、誰にするでもなく言い訳をして頭を掻く。
しばらくしてドアの向こうから、
「ねえヒロ、ドア開けてー」
というマユの声がしたので、お盆で両手の塞がったマユの代わりにドアを開けて、勉強を始める前に2人してプリンを突いた。
「んー、おいしい! ここのプリンは絶品ですなー」
とろけそうな笑顔でマユはプリンに陶酔する。
「そりゃ良かった。――そういやお前さ、まだあの漫画読んでんの?」
本棚にあった野球漫画を視界に捉えて広斗は言う。
「だって気になるじゃん、途中で止めらんないよ」
そう言ってマユはプリンを食べあげると、早速教科書を開き始めた。
「ささ、ちゃっちゃっとやっちゃおうよ」
「やっぱ漫画1冊読んでから――」
「だーめ! おばさんからプリンまでもらっちゃったんだから、今日はヒロが微分積分マスターするまでがっつりやるよ」
「うげ……」
舌を出す広斗にマユは、
「うげ、じゃないでしょ、うげ、じゃ。テストがやばいって泣きついて来たのヒロでしょ?」
「お前が教えてあげようか――っつって来たんだろ」
「なによ……おばさんに言いつけるよ」
「それはやめよう。よし、じゃあ始めるか」
わざとらしく腕まくりをする姿を見ながら、マユは嘆息してペンケースを開いた。広斗もシャープペンシルを取り出すが、
「あ、やべ、芯切れてる。マユ、シャー芯ちょうだい」
「いいけど……自分で持っときなさいよね。あ、私0.3ミリしか持ってないけど……」
「うっそ、お前そんな細いの使ってんのかよ」
「いいでしょ、私の勝手でしょ」
語気を強めるマユに少し気圧されたが、
「じゃあペン貸して、シャーペン」
「もう、仕方ないなあ。はいこれ」
「げ、これヤダ。恥ずかしい」
差し出されたピンクの花がらのシャープペンシルを差し戻す。
「ちょっと、贅沢言わないでよ。誰かが見てるわけじゃないのに」
「花がらのペンは使うなって、じーちゃんの遺言なんだよ」
「おじいちゃんどっちもピンピンしてるでしょ? 不謹慎なこと言わないの。ほんとに文句多いんだから……」
ぶつぶつとボヤきながらマユは、学習机の引き出しから赤いシャープペンシルを取り出して、広斗に渡した。
「お、サンキュー。これもやっぱ0.3なのな」
「そ。ほら数学の時間ですよ」
「はいはい」
+ + +
「つーかさ、マユは大丈夫なのか? 自分の勉強」
「定期テストくらいなら、普段から勉強してれば慌てることないもん」
「優等生だなぁ。昔はオレのほうが成績よかったのにな」
シャーペンをくるくる回しながら広斗は言う。
マユは怪訝な目つきで、
「ヒロが高校入ってサボってるからでしょ。野球も途中で辞めちゃうし。中学のときはエースで4番だったのに、もったいない」
「うっせ。色々あんだよ男には」
「はいはい、そういうことにしときますー」
強豪校での高校野球は、広斗にとっては少々窮屈だった。
先輩や同級生と上手くやれず1年生の夏前には辞めてしまい、それを後ろめたく思っているのだが、知ってか知らずかマユはからかいはするものの、あまり深く追求してこない。
それに――とマユ。
「ヒロに教えるの、私の勉強にもなるからさ」
「復習みたいなもんか?」
「それもあるけど、私、将来先生になりたいからさ」
「そうなのか?」
野球部を辞め、人間関係を一度リセットして以来、何となくマユとの接点も薄くなって2年が過ぎていた。
だから、マユの進路の話を聞くのはこれが初めてだった。
「教師としての予行演習かな、ヒロに勉強教えるのは」
「高校教師か?」
「んーん、小学校の先生」
「小学生は微分積分やらねぇだろ」
マユは「そうじゃなくて」と言って、花がらのシャープペンシルでまず教科書を指し、
「こっちじゃなくて――」
次に広斗の鼻頭を指して、
「そっちが小学生レベルなの」
と真顔で言う。
「……ええっと、つまりオレの精神年齢が小学生並みだから、ってことか?」
「ピンポン! 大正解! よく出来ました〜先生が花マルあげましょーねー」
頭を撫でられそうになったので、広斗は慌てて払いのけると、
「くっそ、絶対お前を追い抜いてやる! 見てろ」
「あ、やっとやる気出した。作戦成功。ヒロは負けず嫌いなんだから」
「……弄ばれてんな、オレ」
広斗は小さく悪態をついた。
+ + +
「うっは、もう無理。もう頭に入んね」
大きく息を吐いて広斗は大の字に倒れた。
「もう、まだまだだよ。ほらこの公式、覚えてから休憩しよ?」
テーブル越しにマユの声がするが、
「糖分が足りねぇ。頭に糖分がない」
「プリン食べたじゃん。……中学のときは数学、得意だったくせに」
「公式増えすぎなんだよ、そんなに覚えられるか。マユはいいよな、暗記の鬼だもんな」
「鬼ってなによ」
マユは頬をふくらませる。
「もうちょっと可愛い言い方できないの? ほら、『天使』とか、『アイドル』とか」
「暗記のアイドルって何だよ。ファンの名前でも暗記すんのか」
「あ、それ人気出そうじゃない?」
「まあ、確かに」
広斗は、話題が逸れたことを密かにほくそ笑んでいたが、
「ほら起きて。さっさとやるよ」
「……無理」
「気合出しなさいってば、もう。……ねえ、ヒロは行きたい大学とかないの?」
脈絡のない問いに少し躊躇したが、
「……ない。特に将来の夢もないしなー」
「ヒロも教師になって、野球でも教えたら?」
「無理無理。高校で挫折した奴が監督とかなれねぇよ」
「そっか……」
しばらく2人とも黙りこみ、壁時計の秒針の音だけが流れたが、広斗が体を起こそうとしたときマユが口を開いた。
「そのシャーペン、覚えてない?」
と、やや声のトーンを落として言った。
広斗は、テーブルに向かい、手元の赤いシャープペンシルを一瞥したが、よく分からず訊き返した。
「ん? 何が?」
マユはため息をつき、
「中学のとき、広斗のほうが成績良かったじゃん」
急に話が飛んだ気がしたが、広斗は当時のことを思い出しながら、とりあえず相槌を打った。
「ああ、まあそうだったかな」
「……そのシャーペンね、どっかの野球バカが誕生日にくれたの。『悔しかったらオレと同じ高校に入れるくらい勉強しろよ』とか言って、押し付けて来て」
マユは優しく、そして淡く笑いながら、
「悔しかったから、そのペンで勉強しまくったんだもん。そしたら楽しくなってきちゃって、勉強が。しかもさ、シャーペンの芯も0.3に慣れちゃって。字も細くなっちゃった」
耳心地のいいマユの声を、しかし広斗はただ呆然と聞いた。
「だからもし、バカヒロに行きたい大学が出来たらさ、そのペンで勉強しなよ。縁起いいよ。貸したげるからさ」
「マユ、オレ――」
「さ! まずはこの公式をやっつけよ。暗記が駄目なら計算過程からしっかり覚える。先生、手加減はしませんからね」
いつもの調子に戻ったマユに、広斗は何か言いたかったが、今はそのときではないと思った。まだ、マユに何かを伝えられるような自分ではないと思った。
だから、2人きりの勉強会が終わるとき、いつか返すとマユに告げて、赤いシャープペンシルを大事にペンケースにしまった。
★
「あ、いたいた。やっほー」
「おう。遅かったな」
マユは隣の席に座ると、バッグから教材と文房具を取り出した。
「ん、ちょっとゼミの先輩に声かけられて」
「男?」
「んーん、女の先輩。――あ、妬いてる?」
「妬くかバカ」
「妬いたっていいんだぞ、このこのー」
マユに脇腹を突かれる。身も心もくすぐったいので軽くあしらうと、広斗は正面に視線を戻した。
「ヒロ、今日は野球?」
「いや、今日は休み」
「そっか。最近調子はどうなの」
「やっと感覚戻ってきたかな。高校と違ってまったりって感じだけど、これはこれで楽しいよ」
手を頭の後ろで組んで、背もたれに体重を預ける。
気恥ずかしくて控えめに言ったものの、サークルでの野球は少年の頃を思い出すような、何にも代えがたい楽しさがあった。
「ところでさ、今日ヒロの部屋行っていい?」
「いいけど。……ああ、この間お前が休んでたところな」
「そ、ノートだけじゃちょっと分かんなくて」
「いいぜ、教えてやるよ」
遅ればせながらも、あの高校3年生の春から大急ぎで詰め込んだおかげで、受験の頃にはマユと並ぶくらいの成績になったし、教科によってはそれ以上の自信がついた。
だからだろうか、一度離れてしまった野球にも前向きになれたのは。
「バカヒロも成長したねー。よしよし、偉い偉い」
「だから撫でんなっつの。――ふん、いつまでも小学生呼ばわりはさせねぇぜ」
「そうだね、小5から中1くらいには成長したかな?」
「オレまだ中学生かよ……ってほら、講義始まるぞ」
そう言って幼なじみの頭を小突いて、広斗はペンケースから赤いシャープペンシルを取り出す。
すっかり手に馴染んだペンを見ながら、今日、このペンを返そうと心に決めた。
ずっと言えずにいた気持ちも一緒に伝えようと、高鳴る胸に密かに誓った。




