1話
朧気に見える視界。父と母の怒号が飛び交う。
毎日同じような内容の会話でよく飽きないなと思いながら翼つばさは漫画を読みスナックを頬張る。この両親の喧嘩を聞くのも妹が成人するまでと決まっているから、ある程度心に余裕を持って過ごしていける。
何年か前、妹を除いた家族会議で妹が成人したら離婚する事に決定した。中学に上がる頃から酷くなった両親の喧嘩はついに最終的な結論を出したのだ。
「あの二人はなんで結婚したんだろうなぁ。」
父はとても女好きで翼と二人で出かける時は必ずと言っていいほど母以外の女性の話が出る。
ある程度栄えているところに出かけたら、あそこの店の女は中々話も上手くスタイルも良くて素晴らしい等という、翼にとっては少し早い話で盛り上がる。
母は生真面目な人だ。ルールや規則に厳しい。そして世間体をとても気にする。
少しでも人の目から見て好ましくない事を行った場合、雷を落とす。学校の成績もその対象に入る。成績が好ましくないと一週間はヒステリックな声をあげ続ける。お陰で平均よりも上の成績を維持出来ていたが、とてもつまらないものだった。
そんな父と母が20年近くも夫婦を続けている。
これは奇跡と言っていいものだ。だからだろうか、離婚すると決定した時も翼はあまり動揺したりしなかった。むしろ、妹が成人するまで我慢してくれる事に心底感謝していた。
父と母の毎夜の喧嘩で翼よりも擦れてしまった妹だが、やはり父と母が離婚した時は辛いはずだ。ただ、離婚すること事態にショックを受けることはないと思う。
「外面が良く、内面は凄い後ろ向きに育ったからな。仕方がないと思うけど。」
パリッとスナックを齧り、そんな事を考える。
そうして翼は学生時代を過ごしていく。
仕事に疲れ午後まで寝てやろうと予定を立てた休みの日、インターホンが音を鳴らす。無視しても良いが、宅配便だったら後が少し面倒だと考え、ベットから起きて天国を生成している布団をどけ、眠い目を擦りながら対応に向かう。
「誰だよ…。それにしても懐かしい夢だったな。と、んー…。」
テレビドアホンに映っているのは、肩に掛かる程度の茶髪の小柄な女性だ。前髪を分けているヘアピンがワンポイントになっているのが分かる。
現在、翼がお付き合いをしている心中だ。お付き合いの理由は、一度でも女性と付き合った経験があるという事実が欲しかったことと、単純に名前が愉快だった為だ。
「翼くん、今時間ある?お話したい事があるんだけど…。」
正直、心身共に休みを求めているから再び天国に戻って休養したい。しかし、折角付き合っている娘が訪ねてきたのだから突っ返すのも悪い。そう考え、少し時間を取って話を聞こうと口を開く。
「心中か。いいけど、仕事で疲れてて休みたいから少しの時間ね。」
「うん…。」
ドアに向かい鍵を開け、心中の顔を確認する。俯いて何かを考え込んでいる様だ。ドアが開いたことに気付き、彼女が顔を上げて目線を翼に向ける。
「あ…、翼くん。おはよう…?」
「おはよう。」
もう昼近くなのに頓珍漢な挨拶を言うのは、翼の髪の自由さ加減を見てだろう。現在、彼の頭上を形成しているのは無秩序である。相手が見知っている相手なので差して気にすることでも無い。
「まぁ上がってよ。お茶出すから。」
「うん、お邪魔します。」
心中を部屋に上げ、翼は台所に向かいお茶を淹れる。パックで作り置きしてあるものだが、24歳の一人暮らしならこんなものだろう。湯呑みにお茶を淹れて部屋に持っていく。
部屋の中心にある炬燵で綺麗な正座をして待機している心中の前に湯呑みを置く。心中はお礼を言い、湯呑みに口を付ける。
「に、苦い…。」
それは当然の感想だろう。仕事のある日に寝起きの気付けの為に飲む物だ。苦々しい味を発揮し、心中の舌を蹂躙する。心中は涙目になっているが、そこは余り気にしない。その内に回復するはずだ。
「で、話って何?大切な話なんだよね?」
「うん…。翼くん、なんで私のメールに返信してくれないのかなって…。」
「あぁ、メールなんて着てたっけ…。」
携帯の履歴を確認すると大量にメールが送られてきているのが分かる。一時間に50件程のペースだ。余りにメールの頻度が多いから鬱陶しくなってバイブレーションすらオフにして無視を決め込んでいた。
「仕事で疲れてさ、ずっと寝てて気づかなかったよ。」
「けど、起きてそうな時間にもメール送ってるよ。」
「仕事中だったし、その後上司に飲みに誘われたんだよ。上司からの直接の誘いだから断れなくてさ。フラフラになりながら帰ってすぐに寝たんだ。」
「そうなんだ…。」
返事をする心中はだんだんと俯いていた。
その心中の追求を鬱陶しく思いながらも、少しだけ嘘を織り込んだ事実を伝えた。
上司と飲んでいたのは本当の事だ。誘ったのは翼からだが。上司を飲みに誘った理由としては非常に単純。スタイルが非常に良く、翼の好みの内に入るからだ。もちろん上司は女性である。
「そっか…、けどさ…。」
「ん?」
「翼くんと、一緒に居た、上司の人。」
「翼くん好みの人だったよね。」
顔を上げた心中は目からコンストラクトを無くし、抑揚の無い言葉を発する。その言いようもない形相に翼は思わずゾッとする。
いつの間にか心中の右手には業務用と思われるプラスドライバーが握られていた。
「待て待て。あの人は本当に俺の上司だ。やましい事も何も無い。」
「翼くんさ、私の事好きって言ってくれたよね。」
会話になっていない会話に翼は顔を顰める。
「けど、翼くんって私の事、愛してるって言ってくれた事、無いよね。」
恋愛物の小説や映画は見て、大小あれども感動する。しかし、自分の事となると別になる。特定の女性を愛そうとは思えない。感動を得られない。好意を抱くことが出来るが愛せない。性交渉に快感を覚えるが、愛していない。好みの女性であればあるほど快感なだけだ。
「なんで、愛してるって言ってくれないの?」
心中が右手に持っていたプラスドライバーは、今はしっかりと両手で握られ、彼女の胸のあたりで翼に向けて構えられている。彼女の納得できない答え次第では、恐らくそれを武器に襲われるのだろう。
「…心中の事は好きだけど、一度も愛したことないからね。」
場に緊張感が張り詰められ、静寂が訪れる。心中はコントラストを失くした目で翼を呆然と見ている。翼にとっては当然の答えだったが、彼女に与えたダメージは相当以上だったようだ。
彼女は翼を一途に愛していた。愛しすぎて狂ってしまう程に。
どれだけの時間が過ぎたのか、場の感覚がおかし過ぎて時間の感覚を無くす。翼が時計に目を向けた瞬間、心中がプラスドライバーを構えたまま突撃した。
不意を突かれ、避けようと判断した時には、既に心中に懐に潜られどうする事も出来ない状態であった。心中が構えたプラスドライバーがズブリと翼の左胸に深く突き刺さる。
「ぐッ…ガ…ァッ…!」
苦痛を口から漏らし、くの字に体を折り曲げた翼の体を心中が優しく両手で抱いて、顔を翼の耳元に寄せる。
「私を愛してくれない翼くんなんていらない…。私以外を女を愛する翼くんなんていらない…。私だけの翼くん。天国で二人だけで暮らそう。私が永遠を賭けて翼くんを幸せにするね。」
心中という名前はフラグだったのか。完全に体に力が入らなくなった翼は完全にその身を心中に預ける。
「一杯幸せになろうね。」
そんな言葉を右耳から左耳に流し、プラスドライバーの意外な殺傷力を考えつつ、翼は意識を手放していった。
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