我慢の限界だ、キレさせてもらう
首輪が嵌められたことを合図に術式の魔力が寝かせられている白竜一点に集まる。
ただ循環していた膨大な魔力は理路整然とその形を変え始め、一つの意味を紡ぎだす。
それが術であり、俗世間で言われる魔法だ。
人が数多の奇跡を実現する唯一の方法であるが、此度のそれは今までのものとは一線を画く。
技術で言えば初めて魔力に指向性を持たせることに成功したこと。術式による大まかな操作しかできなかった旧体系のものと比べれば、それが到達する領域は人類に新たな境地を見せることになるだろう。
その一点だけでも偉業と言っても良い。
しかしそんなものは男にとってはどうでも良い。微塵の価値もない。
「これで……!」
到達した。成し遂げた。手が届いた。
今まさにまた一つ手に入らなかったものが手に入った。フェルナンの身体が歓喜に打ち震えた。
地面に刻まれる術式はその役目を果たし終えその光を失う。集まっていた魔力は白竜に、正確にはその首輪に収束しそこに複雑極まりない紋様を刻んだ。
あれこそが研究者たちが編み出した秘儀だ。その回路とも言うべき複雑な式が、竜の爪で造られた首輪から発せられる魔力を元に、白竜の意識へと干渉する。
複雑極まりない式が紡ぎだす命令は服従のただ一つ。これによって彼らは空を飛ぶ竜を地に縫い付けた。
主人の周りに控える研究者達も口々に感嘆の声を漏らす。
それをフェルナンは一瞥し嗜めた。まだ一つだけ儀式が残っているのだ。
術式は成された。だがフェルナンが、卑小な人間が超越者たる竜を組み伏せたと確認する、凱歌とも取れる勝利宣言がまだだ。
彼が見れば白竜がぼんやりとした表情で辺りを見渡している。先程までの怒りや絶望が一切抜け落ちた完璧な無表情であった。
そんな白竜の前に彼は自身の右足を示す。
「服従を」
足の甲への接吻を求めた。
それは隷属の証だ。臣下が主君に捧げるものではない。道具として、奴隷としての服従を要求する行為であった。
本来ならば同じ人間同士さえそれを求められることは屈辱極まりない。
ゆっくりと白竜がベットから降りる。
その顔は未だ不確かな表情をしながらも足取りは確かなものであった。
やっと、やっとっ、やっと!
フェルナンの心は最早爆発するのではないかと心配するほど、高まる。そして白竜が彼の前にたってそれは絶頂をみる。
彼の心に呼応するように白竜はフェルナンの足の甲を
自身の脚で、その怪力を活かし、原型が無くなるほどに踏みつぶした。
枯れ木が折れるような音が室内に起こり、少し遅れて断末魔が響く。
そして締めくくるかのようにゆっくりと、室内の中の者を絶望させる声が紡がれた。
「人間風情が」
白竜の顔が狂気に染まる。
従え……
働かない脳内で何かが聞こえる。
それは問答無用で俺に服従を求めてきた。そんな訳の分からない戯言に耳を傾けるなど、言語道断、大爆笑なものであったが、何故だか抗いがたいものが含まれている。
しかもそれがずっと繰り返し、繰り返し響く。面倒くさいと蹴っ飛ばし、そんな義理あるわけないだろと門前払いし、頼むなら相応のもの差し出すのが筋だろと脅しつけても、延々と響く。
主観時間で永劫に続く催促に、朧げな理性が砂の城を少しづつ削るかのように摩耗していく。
もしも俺が屈するまでこれがリピートするというのなら、いつかきっと従ってしまうのだろうなと変な感想を抱いた。
……れ……
だがそうなる前に違う声も同時に頭にとどいてきた。
前者が無機質なものならばこれは、怨嗟や恨みの声といった負の感情を濃縮還元したどろどろのものだ。
……許す…な……
不明瞭で聞きづらい。人の頭の中をジャックしているのだから、せめて明瞭に意見を伝える位の誠実さは持てないのか。
見当違いの怒りを覚えながらも、其方に意識が傾く。
……許すな
何を許すなというのか。
……人間を許すな!
聞いてもらって増長したのか一等でかい声でそれは俺に怒鳴りつけた。更にはそれの感情がどっと心の中に流れ込んでくる。
あまりの情報量にただでさえ鈍い頭は思考停止の一歩手前に追い込まれる。
そちらはそう言うけどなあ。生き残るためには、媚売らないといけないし。
あ、でも成功できてるのだろうか? 先程も表情だけ人類越えの爺に何かされた。しかも、そうだ。しかもあの気狂い青年とその保護者は裏切ったではないか。
停止する思考に一つの焔が灯る。
これは余りに手酷い仕打ちだ。俺は今まで人にどれだけ貢献してきたか思い出す。
個人的に二人を助けてあげた。
睨まれても脅されてもニコニコ対応を心掛けてあげた。相手が増長しても下げたくもない頭を下げて相手を立ててあげた。
化け物古竜が襲ってきたとき、結果的に敵を引き付けて王国への被害を抑えてあげた。
どれ程俺が挺身低頭尽くす義理もない王国に貢献してきたか思い出した。
では逆にだ。彼らが俺に何をしてくれたのか。
剣持って囲って脅して。
王城行ってみれば化け物たちに囲まれて結果忠誠誓わせて。
紅茶ぶっ掛けて罵倒して。
死地に追い込んで放置して。
そして今度は信じてくださいとか、言ったくせにこの裏切りである。疑問が、怒りが湧いてくる。
後どれぐらい尽くして譲歩すれば相手もこちらに誠意を返してくれるのだ。そもそもこのまま使い捨てられるのではないか。
優しく接したからといって付けあがり過ぎだ。本来ではそれこそ貴族待遇で迎えてくれても罰は当たらないのではないか。
不安と不満と疑念が噴出する。
許すな……滅ぼせ……
このままいって事態は進展するように思えない。彼らが俺を敬って待遇を良くする光景が到底思い描けない。
『違う』このまま俺を磨り潰そうとする未来しか見えない。
我慢は結構。地面を舐める様な屈辱も、その下に安息という金塊があるのならば掘り進めるような勢いで地面を舐めつくしてみせよう。
だが、ただ屈辱と譲歩しかなく、そこに対価がない徒労など俺は耐える気も耐えられるはずもない!
人間を許すな……滅ぼせ……
ああ今までなんて無駄な行為をしていたのか。『憎い人間』に媚を売るだけで無駄足も良い所ではないか。
ではどうする。ここに来れば本来諦めていた案に立ち戻ろう。赤竜が人間に関与するようになって多少は勝ちの目は見えた。
不可能で不愉快な案より、困難で愉快な案を採用することは理性ある常識竜として、至って当然の思考。
人間を許すな滅ぼせ!
そうだ。『我々』はもう我慢せず憎き人間どもを滅ぼすのだ!
決意をすれば突然に思考がクリアになる。
事態を把握しようと辺りを見渡せば、愚かな人間が間抜けにも俺に服従を求めているではないか。
何と滑稽で失笑ものの出来事かと笑いそうになるが、抑える。竜を舐めたのだ。返すのは笑顔ではなく牙である。
俺は抑えていた力を解き放ち、眼の前の老害の脚を踏みつぶす。
響く声が不愉快ながらも同時に心地よい。一種の酩酊感を味わいながらも、狼狽える馬鹿共を置き去りにして俺は全力を解き放つ。
その時。フェルナン候邸にいる全ての魔術的素養を持つものは、自身のすぐ近くで地獄が現出した事に気付く。
何もない凡人たちも一瞬後に起こった轟音により事態を把握する。建物が倒壊する音と共に、言い知れぬ恐怖と嘔吐感が彼らを襲う。
彼らの動物的部分が警報を上げているのだ。逃げろ近くに死が出てきた。怯えて隠れてやり過ごせ。でなければ死ぬと本能がその場の人間達を罵倒した。
だが無視し彼らはそれの発生源を凝視する。
近くに窓がある者は身を乗り出し音のした方向を見る。
偶々近くにいた者達は腰を抜かしながらそれを仰ぐ。
「なんだあれはっ!……」
その中には竜殺しを抜いて屋根に登っているアリューも含まれていた。
彼は膨大な魔力と異音の発生から即座に愛剣を抜き放つと、窓をぶち破り視界が確保しやすい屋根の上に飛び乗っていた。
そんな彼が仰ぎ見ている。貴族派の中核であるフェルナンの邸宅は決して低い建築物ではない。その上に飛び乗っているというのに、彼は上を見上げていた。
それは邸宅の右側一部を完全に倒壊させて、瓦礫を踏みつぶし君臨していた。
視界に映るのは一切の汚れが混じらぬ純白。
圧倒する強靭な身体と発せられる魔力は見るものにまるで服従を強いているかの様に絶対的。
瞳の青は空の様に澄みきり、サファイアの様に煌びやかであった。
彼が見間違おうはずがない。白竜の本来の姿だ。
だが纏う空気が全く違う。暴力的な魔力を辺りに叩きつけ、強靭な牙をむきながら獰猛に嗤う姿はアリューは一度も見たことが無い。
普段の温厚な様子とは打って変わった、別人にでもなったかの印象を受けた。
今視界に映る白竜は明らかに近寄りがたい。脆弱な人間が近寄ればたちどころに引き裂かれることになるように思われた。
あまりの変わりように呆然としていると、彼の視界外から急速に接近する人影が十ばかり程現れた。
身に包んだ鎧の形からして候の貴族軍の者達だ。
そして抜き放っていたのは、アリューの物とは比べものにならない程劣っているが全て竜殺しだ。
邸宅の近くに布陣していた候の貴族軍が、異常を察知し素早く最大戦力を投入したのだった。
彼らはアリューと同じ様に屋根に素早く飛び乗ると、彼と白竜を一瞥する。
一瞬アリューと彼らの間で緊張が奔るが高位にいるであろう男が制止すると、それはすぐさま霧散する。
「あれは?」
端的な質問が投げかけられる。だがそれには彼にも答えられない。
「……分からない」
そうする内にまたしても彼らの元に四人の人が集まってきた。
貴賓室に軟禁されていたオードラン達である。オードランと指揮官である男はそれぞれ竜殺しを抜き放ち、アミルカーレは指揮官の横に抱えられていた。
「いきなりなんだってんだっ! 奴さん何でいきなり……」
そう愚痴を漏らそうとしたところで、白竜の様子を間近でみて閉口する。
明らかにあの様子では平常ではない。では、何があった?
その疑問を解決する前にあらん限りの力を籠めた絶叫が白竜の足元から彼らの耳に届く。
「あああぁあぁぁあああ!」
ボロボロの黒いローブを着た男が錯乱し、遠ざかりながら攻勢術を白竜に乱射していた。
竜殺しを使わない彼の攻撃は通用するはずもなく、純白の鱗に届く前に魔力障壁に阻まれて霧散していく。
情けなく瓦礫を這い上がり、屋敷の外へ逃げ出そうとする男を白竜は見ていた。
その表情は離れている竜殺したちにもはっきりと分かった。無邪気で、残忍で、戯れに蟻を踏みつぶそうとする童のような顔をしていた。
ゆっくりと白竜は、いたぶるように男の頭上に右手を持っていく。
意味を理解した男の表情は完全に絶望に染まる。
「御免っ!」
動いたのは候の竜殺しであった。
事態は把握できずとも、候の邸宅内にいた人間が踏みつぶされようとしている。
いくら候の宣言があろうが見過ごすわけにはいかなかった。
跳躍する貴族軍を追い、残されたアリューらも素早く後を追う。彼らにしても目の前で起こる惨劇を放置するわけにはいかない。
候の貴族軍は素早く男と白竜の間に割って入ると、伸ばされた手に全員で斬りかかる。
部位を命に影響がない手にした以外は全力の一撃だ。しかし。
「ぐうっ!」
「固いっ……」
竜殺しを持ち、ローブを着た男よりは格段に強い一撃を放てる彼らであっても、所詮彼らが手に持つのは三級だ。
色付きの白竜には絶対に届かない。
「白竜っ! 何があった!」
続いて間に入った三人の内、アリューが叫んで白竜に問いただす。
最初邪魔をしてきた竜殺し達に対し煩わし気に一瞥したのに対し、彼らが眼に入るとその表情が一変する。
そこに映るのは白竜が今まで見せたことが無いほどの憤怒。思わず身が竦み三人は危うく白竜に竜殺しを向けかける。
『何があった? 何があったと抜かすか裏切り者』
微かな頭痛と共に声が響く。
声音に乗るのは怨嗟。暗い粘着質のある感情は、アリューの感情に纏わりつき怯ませる。
「裏切り? 裏切りとは何だ……」
青ざめながら彼はまた問いかける。
『白を切るか。いやそれとも最初から裏切りではないと言うのか。流石は騎士、流石は小賢しい人間。全ては勘違い、騙された方が悪いという事か。そうだな親の躯を剣にし、それを向けてくる相手を味方と思う方が間抜けよな』
返ってくるのは憎悪の言葉しかない。そのあまりの冷たさにアリューが完全に硬直してしまう。
慌ててオードランが口を挟む。
「白竜殿っ、貴方は何やら勘違いをしておられる。我らはっ……」
『良い。もうそれ以上戯言を重ねるな裏切り者の片割れよ。どれ程言葉を重ねようが、この状況こそが証拠。煽てられて騙された哀れな竜が一匹いることに変わりはない』
おかしい。白竜と自分たちとの間に絶対的な齟齬が発生していることを彼は悟る。
それと同時に白竜自体に異常も感じられる。余りに話が通じない。
如何に怒り狂おうが白竜の性格からして全く話に耳を傾けないのは異常な事態だ。
そしてオードランは気付く。白竜の首元に何やら材質が分からないサークルが嵌められている。
彼は振り返り腰を抜かしている黒ローブに近寄ると、首元を掴んでその怪力で持ち上げる。
男はあわあわと震えながら弁明した。
「わ、私はっ! ただ長とフェルナン様に命令されてっ」
「今はそんなことはどうでもいい。聞きたいのはお前達が何いらんことを仕出かしてくれたかだ!」
「それはっ」
『それもどうでもいいだろうオードラン? ここで仲良く死ぬのだから諍いを起こすこともあるまい』
その場の一同は白竜の魔力が高まるのを感じる。規模からして冗談で済むものではない。
オードランは情けない声を上げ続ける男を容赦なしに遠くに向かって放り投げた。
それを合図にしたかの様に全員が跳躍し白竜から離れる。
そして白竜の魔力が辺りを薙ぎ払った。




