古竜だろう、出てくるなよ
アミルカーレの朝は早い。朝日が昇るよりも前に彼は起床する。
彼はむくりと起き上がると、硬くなった身体をほぐすため大きく伸びをした。
そして立ち上がるとあくびを噛みしめながら、地面に敷いていた支給品の布を畳む。
王国内は北の教国よりは温暖な気候であるが、外に地べたのまま寝れるほど暖かい訳ではない。
平の騎士達にとっては剣と並んで生命線である布を、アミルカーレは丁重に荷駄に返しにいく。
周りでは彼と同じ従騎士達が、それぞれ活動を開始していた。
彼等従騎士達は、基本的に騎士団内の雑務を担当している。単独での哨戒などの任務には、まだ実力が足りない未熟者である彼らは、役割分担として細々としたことをこなすのだ。
アミルカーレも従騎士であるのだから、本来であれば彼らと同じ様に雑務に励まなければならない。
しかし彼は布を荷駄に返し終わると彼等とは違う方向に足を進める。
目指すは白竜の寝ている天幕だ。
彼は従騎士というよりは、白竜の従者としての色が強い。
騎士としての鍛錬以外の時は、全ての時間を白竜の付き人として過ごすことになっていた。
他の騎士達にとって白竜は近寄りがたい存在であったが、彼の進む足には一切の淀みがない。
「あ、オードラン殿。おはようございます」
天幕の入り口には眠たそうに立ち番しているオードランがいた。
彼は挨拶されて初めてアミルカーレに気付いたらしく、軽く驚きながらアミルカーレの方を向く。
「おおっ、ああアミルカーレか。そっちも朝早くからご苦労。白竜殿ならばまだ眠っておられるよ。まったくお前の誠実さの万分の一でも良いから、アリューにありゃあなあ」
「そんな、オードラン殿こそ勤勉じゃないですか。こんな朝から警護なんて。竜殺しを持っている方がなさる仕事じゃありません!」
「そうだな。アリューがとんずらこかなきゃ、俺も不真面目でいられたんだがな」
昨晩、アリューが凄い顔をして陣地内を走り回っている、という報告を聞き、オードランはまさかと白竜の天幕に駆けつけた。
すると白竜は既に眠りに落ちており、それを守るはずであるアリューはどこにもいなかった。
結果オードランがその穴埋めをしなくてはいけなくなり、こうして夜通し立ち続けることになったのだ。
彼は眠い目をこすりながら、大きな欠伸をする。
オードランの様子から察した彼は、おそるおそるといった風に聞く。
「まさかアリュー殿は、白竜殿に何かしてしまったのですか」
「お前に迷いなく言い当てられるあいつも大概だが、多分そうだろ」
アミルカーレは難しい顔をする。
「なぜあそこまで白竜殿に冷たく当たるのでしょうか。いやもちろん奥方の格好をした白竜殿を快く思うはずはありません。ですがアリュー殿のような人の良い方が、あそこまできつくふるまわれるのは納得がいきません」
「人の良いって……お前も変なこと言うな」
「そうですか?」
「だってお前が会ってからずっとあいつは殺意を漲らしているし、しかもあの眼つきの悪さとくる。殆どの奴ならあいつのことをもっと酷く評価すると思うがね」
オードランは肩を竦める。実際白竜と過ごし始めてからのアリューの態度は、相方の彼から見てもあまりよろしいものではない。
元々が愛嬌のある顔つきでもないし、一級竜殺し保持者という、尊敬にしろ恐怖にしろ一歩退かれる立場にいる男だ。
そんな男を人が良いと評価するアミルカーレを、彼は不思議に思った。
少年は笑いながら、少しだけ誇らしげになる。
「私自身あまり学がないと自覚はしていますが、人を見る目だけは少しだけ自信があるんです。それにオードラン殿の言葉通りならば、私にとっては団長殿が一番最低な評価になってしまいます。なんせいつも叱責を頂いておりますし、私は正直言えば団長殿のことが怖いですからね」
でもあの方は凄い優しく尊敬に値する方でしょう? そう話をする少年にオードランは瞠目した。
少しだけ少年のことを見くびっていたかと反省する。どうやら人を見る目では自分は負けたらしいと、彼は自分を皮肉る。
「おいおい、そんなこと言っちまうと何処から団長の耳に入るか分からないぜ? 怖いなんて団長が聞いたら、それこそあの人の顔が鬼の形相に成るかもな」
「ここにはオードラン殿以外いませんから大丈夫です。あっ、あのオードラン殿は黙っていてくれますよね」
慌てながら詰め寄る少年に、彼は両手を軽く上げながら大丈夫だと落ち着かせる。
「言わねえよ。それとアリューのことは、俺も相棒の贔屓目もあるがお前の言う通り良い奴だと思ってる。でもなあいつはそれに加えて心が弱くて弱虫だからな。泣いて暴れて、疲れて落ち着いてきたところで、また泣き出して暴れだしたのさ。あいつが成長するのを見守るしかない。まあ心配いらねえさ。あいつは泣き虫だが卑怯者でもないし、臆病者でもないからな」
オードランの言葉にはアリューに対する信頼があった。
人間達が大荒野と呼ぶ土地の東端には空を見上げる程の山脈が横たわっている。
そしてその山脈を境にして、環境も天候も大きな違いを見せていた。
西は僅かな雨を頼りに細々と生える植物と動物以外は、地平線の彼方にまで広がる荒野と山しかない。
対して東側は豊富な雨量と肥沃な土地が広がり、様々な植物と動物達が暮らしていた。
東の土地に名前を付ける者はいなかったが、もし人間達がここに辿り着くことができるのならば、大森林とでも呼称するだろう。
そんな天国と地獄を隔てる様に君臨する山脈の頂上に、二体の巨竜がいた。
山脈の頂上には雪が降り積もっており、その白のせいで巨竜の存在は一層際立っている。
彼等の色は黒と赤。
黒の方は人間の領域に旅立った白竜と懇意にする黒竜だ。
竜達に古竜と崇められる鱗は、並大抵の生物であったならば凍り付いてしまう寒さの中でも、その輝きが失われることは無い。
黒竜は憮然とした態度でもう一方の巨体を相手にしている。
『黒竜の、出かけようとしていた俺の所に、急に押しかけてきておいてその態度は無いだろう』
獰猛に牙を見せる赤竜は、そんな黒竜に一歩も引く態度をとらない。
むしろその身からマナを放出し、今にも飛び掛かりそうになっている。
大多数の竜であるならば無謀の一言に過ぎる赤竜の行為は、一握りの例外であった。
赤竜もまた数百年を生き、古竜の領域に至った竜の中の一匹だ。小山程の巨体は黒竜に何一つ劣ることは無く、発するマナは黒竜に比肩しうる。
鮮血よりも、ルビーよりも鮮やかで深い赤色を示す赤竜の鱗は、どんな宝石よりも美しく輝いている。
正に生ける伝説同士の会合の中、黒竜は重い口を開いた。
『赤竜の、お主が目指すのは人間達の領域、いや正しくは白竜の元へ行くつもりだな』
指摘されると赤竜は面白そうに笑う。
『そうだ黒竜の。お前たちは下らぬと俺を相手にすることは無い。下の竜どもは怯えて尾を丸める腰抜け共ばかりだ。だがあの白竜ならば違う』
翼を大きく広げ、赤竜の身体は歓喜に震える。それは飢えた獣が久方ぶりの獲物を見つけた姿に似ていた。
『俺が人間達を本気で襲おうとすれば、あの小さき者達に入れ込む白竜ならば、きっと俺の身体に牙を突き立てようと立ち向かってくるだろう。お前に傷を負わせた者達も、姿を現すに違いない。それを俺が下すのだ。いや、もしかすれば俺の身こそが引き裂かれるかもしれぬな』
心底嬉しそうに赤竜は言ってのける。赤竜の性質は戦狂いだ。
この竜はどんな上質な食物やつがいの竜よりも、殺し殺される戦闘を望む竜であった。
『白竜のが成長するまで待ってみるとしたお主の言はどうした。今あやつと戦ったところでお主が満足できるかどうか分からぬぞ』
『おお、確かにそうだ黒竜の。しかし俺はもう飢えた。飢えてそのような時を待てぬ程になってしまったのだ。百年も待てばあいつも我らに匹敵する巨竜にはなる。だがそれがどうした! 今の俺に百年は永遠と呼べるほどに長い!』
黒竜の正論も赤竜の戦闘欲をかき消すことはできなかった。
古竜達は己の強大な力が振るわれ、周りが傷付くことを嫌い赤竜を相手にすることは無かった。
他の竜は赤竜の力に怯え近づきさえしなかった。
その長年の空白を赤竜は若い竜達の成長に期待することで耐えていたのだ。その若手の中の筆頭が白竜であった。
しかし白竜の行動によりその我慢の糸が切れてしまった。
今ならば確実にあの白竜と戦うことができる。あの若さに釣り合わない力を秘めた竜と殺し合いができる。しかも黒竜を傷つけた人間達とも一緒にだ。
赤竜にはその魅力に抗うことはできなかったし、するつもりも毛頭なかった。
それでも黒竜は諦めない。黒竜はあの馬鹿な竜にそんなことで死んでほしくは無かった。
白竜自身の夢で命果てるならば致し方ないと承知できるだろう。
だが若き芽が、自分と同じ古き者に蹂躙されることは我慢ならなかった。
そしてなにより、この赤竜が白竜を襲うこと自体が容認できることではない。
『お主の火のついた心は一旦は満足するやもしれぬ。だがその後は絶対にそれ以上の飢えがお主を襲うだろう。考え直せ。百年の月日があれば必ずや白竜のはお主に匹敵する。そうすれば思う存分お主の飢餓感を癒せることだろう』
『大丈夫だ黒竜の、何も俺はあいつを殺すつもりで行くのではない。そう、これは味見だ。俺の牙に並び立てるか確かめる儀式だ』
少しでも遅らせようとする黒竜の思惑などには耳を貸すことなく、赤竜は今にも飛び立とうとする。
ついに黒竜は苛立たしげに赤竜に思念波をたたきつけた。
『殺さぬと言ってお主が襲い掛かった先代の白竜はどうなった! なるほどお主は殺していない。だがあの時から一切の消息を絶ったではないか。それでどうして殺さないと言える!』
先代の白竜は黒竜や赤竜よりも短い時しか生きていなかったが、それでも古竜と名乗るだけに相応しい力を備えた強大な竜であった。
そして今代の白竜と同じ様に奇妙なものでもあった。
獲物を狩らず自身のマナのみで生き、他人の願いを叶えては喜んでいたのをよく黒竜は眼にしていた。
そんな甘い竜だからこそ赤竜に目をつけられてしまった。
白竜は赤竜の懇願を拒み切ることができずに、そして襲い掛かってくる赤竜から逃げ出すこともせず戦った。
それで結論は黒竜が言った通りだ。西から若き白竜が現れるまで、竜達の間から白色が失われることとなった。
『今代の白竜は先代を目にしたことは無い。それはつまりあのものが竜の墓場ではなく、どこかの地に埋もれていることを示している。お主はまたそれを繰り返すつもりか』
赤竜は動きを止め、つまらなそうに黒竜に向く。そして先程までとは比べ物にならない程のマナを叩きつけた。
『じゃあお前が俺を止めればいいではないか』
『……』
『俺は構わないどころか大歓迎だ。お前の方が白竜のよりは断然強いからな。まあどうせ黒竜の、お前は俺を止めないんだろ? 人間と違って、マナの解放なしに俺を止めたりはできないのだからな」
黒竜は押し黙る。
赤竜が指摘した通り、黒竜がマナを解放すれば簡単に赤竜をねじ伏せることができるだろう。
黒竜は他の古竜を歯牙にもかけない程の年月を生き、その実力も相応のものであった。
もし本気を出したのならば、他の竜達が総出になって敵うかどうかといった具合だ。
しかしそんな実力者である黒竜の本気を知る者は、古竜以外にはいない。
悠久の時を生きる古竜達でさえ懐かしむ程のはるか昔以来、この竜がマナの力を駆使することを止めていた。
そんな古竜である赤竜さえも下位に置く黒竜を、赤竜は侮蔑と共に嘲笑した。
『いくら強大な力を誇ろうと、それを使いもしないで何の意味がある。お前はどんな竜よりも強いが、どんな弱い竜よりも俺の脅威にはならない。俺は行くぞ。止めたいのならば、後ろからでも良いから喰らいついてくればいい』
赤竜は空に飛び立つ。そして見る間にその姿は小さくなっていく。
今ならば黒竜の攻撃は赤竜に届くだろう。まだ白竜の脅威を取り除くことができるだろう。
だが黒竜は動かなかった。
雪が降り始め、その身体が白に彩られながらも決して動くことはなかった。




