旅だろう、楽しめよ
万事塞翁が馬、終わり良ければ全て良し。
俺は自分の生を実感しながら陽の光を片手で遮り空を仰ぐ。雲一つも無く快晴で、視界一杯に澄み切った青が入ってくる。少し頭を下げれば今度は地平線の向こうにまで草原が広がっていた。
科学技術が発達していないこの世界では、何も珍しい光景ではないが、今はやけに綺麗に思える。
ああ、まるで世界がこれからの俺の人生を祝福しているかのようではないか。
年甲斐もなく、果てがない草原の向こう側にまで走り出したい衝動に駆られた。そこまではいかずとも、俺の身体は草原の中をせわしなく動き回る。
こんなどこかの純情村娘がとりそうな行動を、恥ずかしげもなくするほど俺の機嫌は天井知らずだ。
「白竜殿! お待ち、下さいっ。速いです! おい、つけ、ません。従者を置いていかないでっ! でないと、私がフェリクス様に殺されてしまいます!」
「すみません。アミルカーレ、ですが騎士が女性に後れをとるなど言語道断ですよ! 今一緒に鍛えましょう!」
俺の与り知らぬところで決まったぽんこつ従者、アミルカーレにだって、今は営業二割、本気八割の笑顔で対応できる。
アミルカーレを置いてきぼりにしながら、あの時の王との会見を思い出す。
殺されると戦慄したあの場で、俺は閃くことがあった。
このままそれとなく王へ近づけば、いざという時人質にできるんじゃないかと。
脅して王の真意を確かめるため、竜に戻り王へ接近する。もし相手が踏みとどまればそれでよし。
貴方の器量を見せて頂くためにわざとやったのです、害意はありませんとしらを切れる。
王が殺せと言ったのならば、魔法で後ろの怪物どもを足止めして王を生け捕りにする。
後はもう王を盾にしてその場を乗り切る。保つ体裁はないのだ。城をぶち壊してでも逃げ延びる。
結果、見事賭けに勝った。
その後は王を褒め、俺のできることは少ないと釘を刺し、更にそちらが考える以上に強い竜がいるぞ舐めるなよ、と強がる。
そして忠誠を誓うと嘯きながら、それとなく保身をはかった。
そうして最後の演出とばかりに、殺せるはずもない剣で信じられないならば殺してどうぞ、とアピール。
完璧であった。我ながら自分の咄嗟の機転の良さに戦慄する。
もう俺は適当に人間の領域に踏み入る竜を適当に追い返すだけで良いのだ。
人間に害を成そうとしている竜は多くは俺が軽く捻れる下級であり、僅かばかりの数が俺より少し劣るか同格といった具合だ。俺よりも強い竜はほとんど人間に無関心である。
だから殆どは難なく追い返せる。そもそも戦いが起こるかどうかも怪しい。
彼等は人間を心底憎悪しているとか、絶対に殲滅させてやろうなどとは考えていない。
人間側からかかってきて、さらにこちらを傷つけることができるからこそ、とりあえずは殺しておこうと行動しているのだ。
同族のそれこそ勝負にならない格上か、争えば己もただではすまないという同格である俺を敵に回してまで、人間を殺したいと望む竜など皆無だ。
もしかすれば人間同士の戦争に巻き込まれるかもしれないが、そこはある程度はしょうがない。人間全体を相手にするよりは危険が少ない。
よって今の俺は順風満帆。希望の未来へヨーソロー。こうしてサノワ騎士団の砦に戻る道を、旅のように楽しんでいた。
サノワ騎士団一同の帰路は、行きとは打って変わって緩やかな進行となっていた。
緊急性が無いため、帰りは道中替えの馬や補給は用意されていないし、王の勅令により関を無審査で通り過ぎることはできない。
だから騎士団はゆっくりと、馬を酷使しない速度で砦へと帰っていた。
そうした帰路の途中、馬の休憩と水を飲ませるためにも、川の近くで騎士達は休憩を取っていた。
警戒に騎士達を数人巡回させているが、場所は王国内で天気は視界の良い快晴だ。殆どの者が暖かい日の光に当たりながら気を緩めていた。
その中で三人の男たちだけは気疲れしていた。サノワ騎士団の両トップ、フェリクスとオーバン。そしてこの度竜の警護を正式に通達されたオードランだ。
フェリクスははしゃぎ周る竜とアミルカーレを憎々しげに睨んでいた。
「私は長年騎士団に在籍していたが、こうして忌々しい青春劇をする餓鬼二人を警護する仕事があったことは初めて知ったぞ」
「団長、さすがにそれはあの馬鹿が可哀そうかと。アミルカーレは見るからに振り回されています。ところで団長。竜の従者はあのアミルカーレでよろしかったのですか?」
「誠に遺憾極まりないが、竜の従者という立場を利用しない者として、あいつが一番適任だ。あの馬鹿が利用できたら俺は色つき相手に丸腰で突っ込んでもいい」
未だ人間社会に不慣れな白竜を助けるため付き人をみつくろう必要があった。
よってフェリクスの決定によりアミルカーレは竜の従者、正式には従騎士となっていた。
理由としては上記のこともあるが、なにより竜に怖気づくことがなく、更に死んでも大して問題はないということで新入りの少年が選ばれることとなった。
これでせいぜい苦しめばよい、とフェリクスはアミルカーレを鼻で笑う。
だが竜についていけず、汗を珠のようにかきながら走る少年を見ても、フェリクスの心は全くもって癒えなかった。
「やはりあの竜は間抜けだ。阿呆だ。見込んだ私が馬鹿だった。王に竜の姿で迫った後、ああして駆けっこに興じているのを見ていると頭を叩き割りたくなる」
「団長を見込んだ方だけはあるということでしょう」
「その副官であるお前が言えたことか」
二人は玉座の前で白竜が王に危害を加えかけたと聞き、卒倒しかけた。
勿論それは本気ではなく、その後の竜の態度から王を試したのだとは分かる。だがどの世界に臣下に成ろうという者が、その主人に牙を剥ける素振りをするだろうか。
そして極めつけは重圧から解放された反動からか、あのはしゃぎ様だ。
政治的に極めて不安定な立場である白竜の警護を任された身としては、呆れを越し侮蔑を超越し殺意が芽生える。
「あの、悪い方ではないですよ、悪い人では。多少向こう見ずで純粋な人なだけで」
猪突猛進の単細胞という表現をなんとか穏やかにして、オードランは苦笑いする。
彼とアリューは現在完全に所属が王の直属となっていた。
元々コルテ騎士団所属というのも、制度上そうなっていたからであって、実質的にはそう大きな変化は無かったが。
「悪意が無い方が問題だよ。無意識にやられては注意もできない。しかしオードラン。貴様はやけにあの竜の肩を持つな。惚れたか?」
「団長殿、御言葉にご注意なさいませ。団長で無ければ斬っておりました」
軽い言葉回しを好む男にあるまじき、底冷えする発言であった。フェリクスは越えてはいけない領分を侵したのだと察知し、軽く頭を下げて謝罪する。
オードランはすぐさま微笑を浮かべて謝罪を受け入れた。彼としても冗談であることは理解している。
「このまま竜征伐が無くなるかもしれない。その可能性を持ってきてくれただけで好意的にもなります。あれは仲間が死にすぎますからね。それに私情で悪いですが相棒の件もあります」
三人は遠くのある一点に視線を向ける。
そこでは走り回る白竜を険しい顔で凝視するアリューがいた。護衛であるはずであるのに、傍から判断すれば暗殺者と間違われる程の形相だ。
「あれに良い影響の一つでももたらすんじゃないかと思いまして」
「ずいぶんとアリュー殿にご執心なのですね」
「副団長が団長に寄せる思いと比べれば、軽く吹き飛ぶ様なものです」
二人はお互いに軽く横目で見やる。皮肉屋と捻くれもの、波長こそ違えどどこか通じ合うものがある二人であった。
フェリクスは軽く肩をすくめた。三人の間に和やかな雰囲気が流れる。
「本当に、待って、下さい! 僕、この鎧はまだ着こなせていないんです! 誰か! 止めて! お願いですから!」
しかし少年の悲鳴と共に、三人は揃ってため息をついた。
彼等一同はそれから数時間を行軍に費やし、野営することになる。
夕刻の陽があるうちに天幕が立てられ、簡易な野営陣地を騎士達は形成した。
一般の騎士達は基本的に外であり、高位の階級者のみが天幕を使用することになっている。
そうして陽が完全に暮れると騎士達は運んできた荷駄から食料を運びだし、ささやかながらも楽しげにたき火を囲って食事をしていた。
月が出ていることもあり、陣地内は明かりを持たなくても移動できるぐらいには明るい。
そうした騎士達の喧騒を避けながら、アリューは一人白竜に振られたテントへ足を向けていた。
砦内ならともかく、簡易陣地では敵の侵入が防ぎきれない。貴族派の人間が紛れ込む可能性もあり、白竜には夜間一人以上の警護をつけることになっていた。
ちなみにアミルカーレは警護人員から外されている。彼では密偵の腕前には十中八九敵わないからだ。
なんだかんだいって、フェリクスは彼を大事にしていた。
白竜の天幕は陣地の中の一番中央部分に設置されている。近寄りがたいからか、他の天幕との間隔はやけに広い。
アリューは天幕の入り口に着く。
「白竜殿、警護として遣わされたアリューです。よろしいでしょうか」
『はい、どうぞ』
「では失礼」
白竜の許可を得ると彼は天幕内へ入る。
簡易の机や椅子、ベットが配置されていた。何かを温めて飲んでいるらしく、机の上にはコップとポット、それに上級騎士達に供給されている、魔力を元として熱を発する石があった。
「遅くにありがとうございます」
「いえ、仕事ですから」
アリューは淡々と答える。なるべく視界に入れないよう彼は視線を逸らす。
彼にとっては今の白竜の姿は忌々しいものであった。王国側からの要請であっても、竜が彼の妻の姿を取ることは到底許容できるものではない。
しかしそれと同時に、もはや白竜がなにかしない限りは、自身の仕事は竜の警護だともはっきりと理解していた。
だから彼はなるべく感情を排して竜の警護に当たっていた。
場に静寂が下りる。
彼は白竜が不機嫌になろうともお構いなしに黙りつづける。彼としてはこのまま後続のオードランと交代する時間までこうしていたかった。
けれども一刻が過ぎたあたりからか、白竜がおろおろとし始める。
その様子を視界に捉え、アリューの胸の内に何故かどんどんと暗い感情が芽生えだした。
警護のため眼を閉じるわけにもいかず、彼は無表情を決め込みながらも、その心の内は荒れ狂っていく。
その暗い感情は彼が竜の背中に居た時と同じだ。さらに言うならば昼に野を駆ける竜を眺めていた時にも感じていたものだ。
「その、あの」
それが今まで彼が竜達に向けていた憎しみとは違うことには、彼は気付き始めていた。
怒りが胸の中を渦巻く、だがそれは相手にぶつける類のものではない。
苛立ちが彼の心を炙る、しかしそれは相手を怒鳴り散らさせるものではない。
この感情に似たようなものを、アリューはしょちゅう抱いていたような気がした。
「えーとですね」
アリューは思考の渦にはまり込んでいく。この暗い感情の出所を探っていく。
そう、こんな思いを感じたことは数えきれないほどあった。ずっと前、騎士になる前には毎日感じていたはずだ。
彼は昔の思い出を掘り返していく。こうして昔のことに思いをはせるのは何時振りだろうか。
そして彼は思い出す。この思いは彼の妻と過ごしている時に抱いていたものだと。
だが彼は疑問を抱く。自身はこの感情を度々感じていた。それこそ呼吸するのと同じ頻度ぐらいで。
それでは彼はその時、その感情を嫌っていただろうか。
それはないはずだ、と彼は断言した。過去、彼の妻であるセレストが竜に殺されるまで、彼は不幸だと感じたことは一切なかった。
妻との生活は彼に幸福以外をもたらしたことは無かった。
『ごめんなさい、アリュー。今日の夕飯の食材、道端でお腹を空かせた子供にあげてしまって、ないの……。え、あの子はいつも食材を売って儲けている? いやね、アリュー。あんな小さい子がそんなことするわけないじゃない』
彼の妻はいつだって悪意を持った人間に騙され損をしていたが、アリューはそれを迷惑に感じたことはなかった。
彼女の純真さに苦笑し、時々は怒ったりはしたが、彼はセレストのその純朴さが好きだった。
『貴方が居ないときは絶対に領主の兵が来たら、兄の所に逃げろ? アリュー、真面目に働いている兵隊さんを疑っては駄目だわ』
彼の妻はいつも周りの人を疑うこともせず自分の身を危険に晒し、彼はその対処に四苦八苦したが、アリューは嫌だなんて感じたことは無かった。
彼女の身を案じ、時には苛立ったが、彼はセレストのその心が大好きだった。
そうだ彼は確かに彼女に対し、怒り苛立っていたが、それ以上にそうしたことをする彼女を愛していた。
「あ」
アリューは気付くことができた。気付いてしまった。この感情の出所を。
どうして自身が絶好の機会の時、竜の首を刎ねなかったのかを。
彼はセレストを愛していた。それは決して容姿が優美だからではない。
だからこそ白竜がいくら彼女の姿を真似ようと、彼が魅かれることは絶対にない。姿形を真似たところで、彼が白竜と彼女を混合することはありえない。
しかし白竜は彼女と同じ様に人の悪意を疑うのを知らなかった。
けれども白竜は彼女と同じ様にいつもその身を無防備に晒していた。
姿だけではなく、その心の在り方まで似ていた白竜を、アリューはどこか彼女と似ていると無意識に考えてしまっていたのだ。
そしてその感情は、竜に対する憎しみと、セレストの死を冒涜されたと憤る心によりぐちゃぐちゃとなり、自身ですら分からなくなっていたのだ。
「その、冷えますからこれを飲んではどうでしょうか」
そう、こうしていくら悪意をぶつけようと嫌いもせず近寄ってくる白竜に、彼はセレストを重ね合わせていたのだ。
「っ!」
「熱っ!」
咄嗟に彼は白竜が差し出してきたコップを払いのける。冷えを凌ぐために相当温めたのだろう、腕に中身の飲み物がかかると、白竜はその部分を抑える。
一瞬罪悪感が心を掠めるが、すぐにそれを振り払う。
「失礼。考え事をしていたもので、咄嗟に払いのけてしまった。だが大丈夫でしょう。貴方は竜だ。その程度なんともないはずだ」
心の中の悪意を全て目の前の白竜に彼はぶつける。
この時彼はどこかで期待していた。嫌えと、悪意を自分にぶつけてみせろと。そうすれば彼は無理やりにでも心を落ち着かせることができた。
やはり気の迷いだった。仲間の死に当てられて、どこか気が触れていたのだと納得ができた。
しかし、白竜は怒鳴りもしなければ、罵倒もしなかった。
赤くなった腕をもう片方の腕で抑えながら、ぎごちなくこちらへ笑いかけた。
「そうですね……アリュー殿。私は大丈夫です。人間である貴方にまでかからなくて、本当に良かった。もう一度、入れなおしますね」
その笑顔を見たとき、アリューの心の中は真っ白になった。
どうすれば良いのか分からなくなり、前後不覚に陥った。叫びださなかったのが、彼の精一杯の自制心であった。
「し、失礼する……」
返事を待たず、引き継ぎのことも全て忘れて、彼は天幕を飛び出した。
泣いているのか、怒っているのか判別のつかない表情をして、彼は逃げ出した。




