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sweet edge

sweet edge  ~ はじまりの鼓動

作者: 真織

 

 いつから、その想いがあったのか、私にもわからない。

 ……ハルくんは、いつのまにかここに。

 私の、心の中に住んでいた。






 大学に入ってすぐ。

 一般教養の必修科目を履修するためのクラスがあって、あまり規模の大きくないうちの大学では、法学部はざっくりAとBに分けられていた。

 それは、二限目の英語の講義が始まる前だった。みんな新しい友達関係をつくるのに気持ちが向いていて、ざわめきが講義室を支配していた。一限目の講師が消し忘れていったホワイトボードに、誰も気がついていないくらいに。

 後ろから、柔らかい風が私の席の横を通り過ぎていった。背の高い、白いシャツの後ろ姿。さっと前に出た彼は、手早くホワイトボードを白紙に戻して、また元の席へと戻っていった。

 戻り際に目が合ったと思ったのは、気のせいだろうか。

 思わず後ろを振り返ると、彼は一番後ろの席に座るところだった。

 誰もが目を引くほどのルックス。けれど嫌みなく、さり気なく、気配りをしてしまう。それが、ハルくん、だった。



  ※  ※  ※



「ボート祭っていうのが、あるらしいよ?」

声がかかったのは、連休に入る少し前。

「法一Aで、応援に行こうかって話なんだけど」

実家からの通い組、かつ通学に時間のかかる私は、サークルにも入っていなかった。真面目に講義に出ているので、おなじような通学組と行動を共にすることが多かった。

 ボート祭は、大学の近くを流れる都香川で、五人一組で漕ぐボート競争。サークル対抗らしく、それなりに参加者も多いらしい。

「それで、なんでクラスで?」

サークルの、応援?

「それが、掛け持ちしている子たちが、それぞれのサークルから応援ってわけにいかないって」

はあ、一方だけ応援するわけにはいかないと。

「で、それならいっそ、クラス引き連れて応援しますってほうが、ギャラリーも増えていいかなってことになったらしいのよ」

……なるほど。

 そうして、特に予定のなかった連休の一日を、私はボート祭の見学に行くことになったのだった。



 集合場所の都香川の河川敷公園に行くと、

「美緒、こっちこっち」

おいでおいでと手をひらひらさせて、呼んでくれたのは、同じく遠距離通学組の千裕。

「連休中に、遠いところからわざわざどーも」

お互い、ここまで片道二時間くらいかかるので、いつもの労い、プラス、他に行くところがなくて寂しい傷の舐め合い。

「ウチのクラス、あそこに固まってる」

と、千裕がより川に近い一角を示した。

 クラスでも華やかな女子の固まりに、談笑する男子たち。そのなかに、背の高い彼が混じっていた。

 目敏く同じクラスの女子と気づいたのか、その彼がこっちに手を振ってきた。合流するべく、足を向けながら、

「どこの応援するの?」

と、千裕に聞いてみる。

「テニスと歴史?」

「は?」

なんでまた、わからない取り合わせ。

「いや、さっき、藤崎くんが、その二つをよろしくって」

千裕が言うので、藤崎くんに視線を向ける。その会話を聞き逃さなかったのか、ほぼ合流した私たちに、

「そう。うちのサークル、応援してあげて」

と彼は言った。

「もともと今日は、ハルくんからの声掛けで集まったようなものだし。法一Aで、ハルくんのサークルの応援よ」

彼の一番近くにいる大野さんが、決まりきったことのように言った。いや、いいんだけど。すごく、近いデスね。あからさますぎて、なんだか、そういうの見ているほうが、ちょっと……。

「じゃ、とりあえずクラス行事ってことで。藤崎くん、ギャラリー集めるのうまいね」

私の隣で千裕が軽く受け流す。

「ハルでいいよ。みんな大体そう呼ぶし」

五月の風のように爽やかな笑顔で、彼―――藤崎遥人ふじさきはるひと、通称ハルくんは言った。

「あ、始まるよ!」

どこからともなく声が上がって、拡声器から『ただいまより桜橋大学ボート祭を開始いたします』と聞こえてきた。

 都香川の川幅は広く、対岸に小さくずらっと並んだボートが見える。この辺りは流れもゆっくりで、水深も十分なんだそうだ。五人一組の漕ぎ手を乗せたボートは、いったん上流に向かい、折り返して帰ってくる。スタートとゴールの地点が、階段状の堤防の上に当たるここからよく見えた。

「一番遅れてきた佐々木さんと長谷川さん」

ハルくんに名前を呼ばれ、千裕と目を見かわすと、

「はい、佐々木さんは、こっち持って」

ハルくんは足元に置いていた紙袋から、なにやら布の巻いたようなものを取り出すと、その布から突き出た棒の先をまず千裕に渡した。

「長谷川さんはこっち、来て」

くるくるっと布を広げつつ、歩くハルくんについていくと、

「こっち、持ってて」

と、ハルくんは、もう一方の棒の先を私に手渡した。

 広げられた横断幕。渡されたときにほんの少し触れた指先。

 男子に免疫のない私は、それだけで少し顔が赤くなっていたんだと思う。

「長谷川さん?」

ちょっと不思議そうに私をのぞき込むハルくんをさえぎって、

「横断幕、もう一本あるんじゃ?」

と、私は地面に置かれたままの紙袋を指した。

 私と千裕が持たされた横断幕に書かれていた文字は、《GO! Histories!!》。テニスサークルの応援用に、もう一本あってもおかしくない。

 ハルくんは、何か言いたそうにしていたけど、

「ハルくん、横断幕こっちも持つよー?」

女子の集団のほうからお呼びがかかった。

「じゃ、頼むね」

私にはそう言い置いて、ハルくんは戻っていった。



 ボート祭の結果は、ハルくん所属のテニスサークルが三位と健闘、歴史研究部は残念ながら後ろから数えた方が早い十二位だった。

 ボート祭の後は、クラスで打ち上げと称してほとんどハルくんを囲む会が行われた。

 一応私も参加したけど、大野さんはじめ華やか女子チームの妙なガードがなんだかいたたまれず、千裕と組んで、二次会には行かず、お茶に走った。

「藤崎くんは、なんだろね、あれは」

店員さんが置いていったアイスティーの氷を突きつつ、千裕が言う。

「等身大アイドル? 本人は、かえってこっちにも気を使ってて気の毒だけど。大野さんなんか、狙ってるのバレバレだし」

「そうだね、なんかスルーされてるのが痛い感じ」

そう。ハルくんは、あくまで自然体。輪に入れていない子がいないかとか端にまで気配りしつつ、わざとらしい女子同士の牽制なんて素知らぬふりで。

「超越してるっていうか。まあ、あれだけ恰好よかったら、いちいち対応するのも大変そうだし。慣れてるんだろうね」

確かに、際立って目立つ容姿に生まれれば、みんなと上手くやっていくのって逆に大変なのかもしれない。ハルくんの「さりげなさ」はすごいと思う。

「……美緒、赤くなってたでしょ?」

突然の千裕の突っ込みに、

「え?」

驚いた私は、飲んでいたアイスオーレのストローから手を放した。

「ほら、横断幕渡されたとき」

「……男子に免疫なくて。千裕は、そういうの平気だね」

「高校の時から、クラスやら部活やらでわいわいしてたし」

それに千裕には、彼氏がいた。

「なに? 美緒って、ああいうの、タイプだったりするわけ?」

千裕は探るように私を見た。

「タイプって。なんだかすごすぎて、雲の上って感じかな。見てるぶんにはいいかもだけど」

私は答えつつ、小さな動悸を抑えていた。

 かすかに触れただけの指先の、その形がとても綺麗だった。長い指。乾杯のグラスを持ち上げた時も、少し離れていたにもかかわらず、その手が目に入ってきた。

「なんで、テニスと歴史なんだろね?」

そう言って、私はちょっと笑ってしまった。



 連休も明け、五月も半ばを過ぎたころ。

 一限目には、まだまだかなり余裕な時間。

 電車の中で扉近くの吊革に一人つかまっていた私。

 大学最寄り駅まであと二駅のところで、私の立ち位置に近いほうの扉が開いた。その扉から、同じ車両に入ってきたのは、ハルくんだった。

「おはよ、長谷川さん」

ハルくんは、私に気づくと屈託なく挨拶してくれた。なのに、私は、

「お、おはよう、ハ……藤崎くん」

と、突然の接近遭遇に変な慌て方をしてしまった。

「ハルでいいって。いつもこんなに早いの?」

ハルくんは、私のすぐそばに立った。話しかけたクラスメイトからわざわざ距離をとるのも変なので、これはごく当たり前のことなんだろう。

「遠距離通学だと、どうしてもこうなるんです」

そう、三度も乗り換えしていると、どうしてもこれに乗らないとって、計算して。そうしてどんどん余裕をとっていって、結果的に早くなってしまうのだった。

「なに、その丁寧語」

くっとハルくんは小さく笑った。その笑顔が、なんだかずるい。

「遠いと大変だね。そういうの放棄して下宿しちゃったから、たいていギリギリになるんだけど」

「え、じゃあ、今日は?」

「あー、テニスコートの専用許可を昨日のうちに取っとかなきゃいけなかったんだけど、忘れてて。一限前に取りに行こうと思って」

一回生持ち回りの役目なんだそうだ。説明してくれる声が、柔らかく降ってくる。ハルくんは、ほぼ平均身長の私より頭一つ高い。

「なんでテニスと歴史?」

サークルの話が出たので、前に不思議に思ったことをつい尋ねてしまった。

「んー、テニスは流れかな? 知ってる先輩に会って引っ張り込まれた」

「じゃあ、歴史は?」

「好きだから」

……違うよ。わかってる。歴史のことだって。でも、次の言葉が出てこない。

「そういえば、佐々木さんは? 一緒じゃないの?」

ハルくんは、言葉に詰まった私に、さらりと矛先を変えた。

「千裕は、路線が違うから」

「ああ、地下鉄?」

私はうなずいた。うなずいてから、視線をあげてハルくんを見た。

 なんで、このひとは。

 つり革を持つ、肘の角度が深い。シャツの袖をまくり上げた腕。

「長谷川さん?」

呼ばれて、あわてて視線を外す。

「もう、着くよ」

言われて電車がホームに滑り込んでいるのに気づいた。二駅なんて、すぐだった。

 ホームに降りると、別の車両から降りてきた男の子がハルくんに声をかけた。大学構内に入るまでにさらにハルくんの知り合いが増えて。

「じゃあ、長谷川さん、俺、事務所によるから」

そう言ってハルくんは、行ってしまった。

 なんで、だろう。ハルくんは、とても話しやすい。

 なのに、なんでだろう、ハルくんとは話がうまくできない。

「おはよう、美緒」

その背中を見送ってしまっていた私の、後ろから馴染んだ声がした。

「おはよう、千裕」

千裕は、軽く私の腕をたたいて、

「……自覚した?」

と言った。

 そうだね。

 いつからか、もう、そんなこともわからないけど。

「イバラの道、かもね」

千裕が言った。

「だからって」

「やめられるようなら、恋じゃないでしょ」

 これは、はじまり。

 ハルくんの後ろ姿から目を離せない。ハルくんが事務所の建物の中に消えても。 

 胸の奥にはないはずの、こころがぎゅうっと締めつけられて。

 それが、なんで、ハルくん、なのか。答えは、もちろんなくて。



 ――――息づき始めた、sweet pein.










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