はじめ
君の口が開いた。
こぼれた言葉は届いてこなかった。
君の手が動いた。
その手は僕の頬に触れた。
君の足が動いた。
君は僕に1歩近付いた。
また君の口が開いた。
その声は僕の耳に届かなかった。
けど分かった。
君は僕に"さよなら"と言ったんだと。
朝、自然と目が覚めた。部屋は薄暗くて、まだ日が出ていないのが分かる。
懐かしい夢を見たような気がする。内容は覚えてない。だけどとにかく快い夢ではなかった。
だからまた寝る気にもなれなくて、とりあえず布団から出た。
冬の空気は冷たくて、我慢できずにストーブをつける。
特にやることもない早く起きすぎた休日。携帯を開いて時間を見れば、4時半だった。
はぁ、と溜め息をついて携帯をベッドに投げる。ぼすっと音を立てて、携帯が布団にうもれた。
夢の中で感じた、懐かしさ。あれは一体なんだったんだろうと考えたら、内容を少しだけ思い出した。
白い世界に、1人の女の子。
思い出したのはそれだけで、その女の子が誰なのかも思い出せない。
ボッと音を立てて点いた灯油ストーブ。その独特のにおいが鼻をかすめた。
ストーブの正面にしゃがみこんで、ただぼーっとしている。
ただ、ただ。ぼーっとしていた。
どのくらいたっただろうか。
携帯が鳴り、ハッと意識が戻る。
身体はずいぶんと温まっており、ストーブの熱が直接当たっていた部分は熱くなっていた。
やれやれ、とでもいうように溜め息をついて、布団にうもれた携帯を手に取った。
"新着メール一件"
確認すれば知らないアドレス。こんな時間に送られてくるなんて、怪しいメール以外のなにものでもない。
だけど興味本位でそのメールを開いてみた。
"ヒロさんへ"
で始まるその文章に目を疑った。
ヒロ、とは自分の愛称だからだ。それも、何年も前の。確か小学生のときのだった気がする。今その愛称で呼ぶのは家族だけだ。
それから続きが気になりメールを下へスクロールさせる。
"いきなりメールしてごめんなさい。しかもこんな時間に。でも寝坊をよくするヒロさんなら、きっと気付かないでしょうね。失礼でしょうか。でも事実ですしかまわないですよね。
こんな時間にメールをしたのには理由があります。
実は私は今あなたの住んでいる新木市にいます。仕事の都合、というのもありますが、ヒロさんにどうしても会いたかったからです。
私は7時には仕事に向かいます。どうかそれまでに会いに来てください。
私は信じています。ヒロさんは約束を守ってくださると。
7時まで新木駅にいます。
もう一度言います。
私はヒロさんを信じています。
ヒナより"
最後まで読んで、急いで外に出る準備をした。
かなり騒がしく準備をしてしまったが、家族が起きた様子はない。
準備が終われば、すぐに家を出た。走って駅に向かう。
今の時間は、5時10分。
確実に間に合う。けれど、走らなければいけない気がした。
早く、出来る限り早く行かないと、またどこかへ行ってしまう気がしたから。
駅についた頃には息は荒く、肩で呼吸をしている状態。
そんな格好の悪い状態で、辺りを見回す。
正面にも左右にも姿は見えない。
そして、後ろを見ようと振り返った。
「おはよ!」
「うわあっ!!?」
そこにいたのは、メールの送り主、ヒナだった。
「…ヒロさん、変わってないねぇ」
くすくすと笑うヒナ。
「それは、僕が童顔でチビだと?」
「そうですねー」
僕の言葉を否定せず、あっさりと肯定したヒナは、すっかり子供の頃と変わっていた。
面影はあるし、なんとなくヒナだということは分かるが、完全に大人になっていた。
「だって私よりも年上なのに、私よりもちっちゃいじゃないですか。」
まさにヒナの言うとおりで反論も出来ない。
「……まさかヒナが約束を覚えてたとは思って無かったよ」
そのままの話題は精神的に痛かったので、話を変える。
「心外ですねぇ。小学生のときに約束したんですよ。
私の22歳の誕生日を再会の日にしようって。」
「…僕は今朝思い出したけどね」
相変わらず笑顔のヒナ。何を言ってもこの表情は崩れない。
「そうだと思ってましたー。
じゃあ約束、ちゃっちゃとやっちゃいましょうよ。」
「ん…」
あまり乗り気ではない。
「早く言って下さいよー」
だってその約束は、
「僕と…結婚を前提に、付き合ってくれませんか。」
再会したときは僕の方からヒナに告白するというものだったから。
あぁ、もう、恥ずかしい。
「よろしくおねがいしますね、ヒロさん」
くすくすとまたヒナは笑う。
「……も、こんな約束なんで思い出したんだろ…」
「それは、運命ってやつですよ。ヒロさん!」
後悔ばかりしていると、それ以上の笑みをヒナは見せる。
確かあのときも、この笑顔に惹かれたんだっけ。
小学生の頃、僕はずっとヒナのことが好きだった。ヒナも僕のことが好きだった。
でも気持ちを伝える前にヒナは親の仕事の都合で転校することになった。
そのとき約束した。
ヒナの22歳の誕生日に再会しよう。そのときは僕がヒナに告白するから、そのときでもまだ僕のことが好きだったら、それから付き合っていこう。
って。
記憶の中でヒナはだんだんと薄れていって、僕の中では消えてしまっていた。
だけど心の奥底にまだヒナはいて、それが今日、僕に夢を見せた。
そんな現実的じゃないこと本当に信じるわけじゃないけど、その夢が僕とヒナをまたあわせてくれた。
でも、
「多分僕は、ヒナのこと、もうそんなに好きじゃない。」
これが今の僕の気持ちだ。
真剣にヒナの目を見つめて言うと、ヒナの瞳が一瞬動いた。
「……私はヒロさんのこと、まだ好き。大好き。」
ヒナは1度だけ目を伏せ、じっと僕を見つめた。
「けど…」
「大丈夫!絶対ヒロさんは私のことまた好きになるから!」
衝撃的なヒナの言葉に、僕は言葉を失って、ただ呆然とした。
それから僕とヒナは付き合いだした。
僕の気持ちは届かない。