偽善者と醜い魂を食うもの
懐かしく、抱きしめたいほど愛おしい存在。
すがりつきたくても、それを破壊し尽くすことを心から望んでいた自分に気づかされた。
もう、とても短くなっているような気がする。そろそろ、自分自身が本当に消えてしまうかもしれないと、残り少ない自我の時間の中強く覚悟した。
最後の力を振り絞るように、ウィルはあの場から逃げ出した。それまで歓喜と血にまみれるという惨劇を自ら作り出す真似をしておきながら、ひどく身勝手で滑稽、そして何て残酷極まりないのだろうと自分でも感じられる。
そうだ。まさにお前の人生そのものだったと、顔も分からない誰かに静かな怒りと憎しみを向けられている気がした。
いや、その人物の顔は分かっていると、冷静な自分――その人物はこんな自分のことも卑劣な偽善者と蔑んで憚らなかったが――が、理性をなくしたおかげで思い出せないはずの過去を鮮明に思い出す。
これがお前の運命だ。
これが、お前の生まれて来た意味だ。
これで、お前のおかげで奪われた彼の魂は救われる。
なぜこんなことになったのかと絶望することも許されない。この苦しみはいつまで続くのだろうかと嘆くことなど言語道断。
苦しみだと? 笑わせるな。お前の本性などお見通しだと罵倒されるのを拒絶してもどうにもならない。
頭の中で、いつまでも彼らの声が鳴り響いて消えてくれない。苦しみのあまり泣き叫びたい気持ちがやがて、どうにも出来ず一人でに歩き出す。
終わりが近づいていると、まやかしの希望にすがりつき身を任せる。しかし、これで本当に全てが終わるのだろうかとぼんやり疑問を抱くが、全ては黒い霧の中へ溶けていく。
また誰かが、本当の地獄はこれからだとほくそ笑んでいる気がしたが、もう分からなかった。
もうずっと、分からないままなのかもしれないと彼は最後に思った。
*
お久しぶりです。大切なあなた。
あれから、どれだけの月日が流れたのでしょうか。本当は分かっているくせに、どうしても意識して数えるのをやめてしまいます。自分の年を数えれば嫌でも気づかされてしまいますが、だからといって今の自分が何才かだなんて忘れていられるわけがありません。
バカみたいですね。もう大人になってそれなりに時間が経ったというのに、いつまでも子供のようなことを言ったりして。たくさんの子供に囲まれているせいかな? 大人にならないといけないのに、子供と一緒にいるから子供になりたいなんてくだらないことを考えてしまっているのかもしれませんね。
昨日と書いた時と何も変わりません。いや、きっともう何年もそんな日が続いているはずです。こうして夜あなたに手紙を書いて、眠りについて、また何も変化がなくとも平和な一日が繰り返される。きっとわたしは、そんな人生を送ることを望んでいるのでしょう。だって、今そうして生きている自分にとても安堵しているんですから。
出来ることならいつまでも続いてほしい。何も望まないから、このまま何もなくとも穏やかに生きていける時間をいつまでもくださいと願ってやみません。そのためだったら、これ以上の愛も夢も希望もいらない。彼がいるだけで結構です、第一奪われる苦しみはあなたを失ったことで嫌というほど思い知らされましたから、彼を受け入れたことなんてわたしにとってはきっと奇跡に近い行為だったのかもしれません。だからもういらないんです。幸福なんて、一度求めればきりがない上に、きっと知らず知らずのうちに身の丈に合わない幸せがほしいと騒ぎ出してしまいます。人間ってそういうもんですよね? そうなってしまったら、今度は奪われることで手ひどいしっぺ返しを与えられる。
でも幸せになる資格がない人間に限って、今もどこかで幸せなんでしょうね。とにかく、わたしはもういいんです。あなたとの短くも幸福だった日々があっただけでも自分の人生は幸せだったと思えますから。
でも最近、また様子がおかしくなってしまいました。毎日ささやかに暮らして、何の不満も不自由もないはずなのに、わたしは何かおかしくなってしまったのでしょうか。だとしたら何て罰当たりなのでしょうか。愛する彼に支えられて、悩みがあっても子供達の笑顔がいつも目の前にある。周囲から贅沢なほど評価だってさせてもらっている。こうして自分の存在意義を与えられ生きる価値が手に入ったこの人生。どうかしているかもしれません。
だって、黙っていたけどここ何週間も毎晩、あなたが泣いている夢を見ているんですもの。初めは遠くで静かに泣いているだけだった。あなたはあの頃のままの姿で。何日か経ったら今度は血まみれになってすぐ側に立っています。それに泣き叫んでる。それは毎晩どんどんひどくなっていきます。お姉ちゃん助けて、怖いよ。苦しいよ。お姉ちゃん、ぼくとっても悔しくて憎くてしょうがないよ。
助けて助けて助けてと、あなたの叫びが朝目覚めた後もしばらく続いて、頭が痛くなって気分が悪くなってしまいます。けど仕事を休むわけにはいかないので、毎日我慢を重ねる日々です。子供達の笑顔に支えられていると、自分をごまかしてきましたがそろそろ限界かもしれません。子供の一人に、先生大丈夫なんて聞かれてしまいました。それにとうとう、彼だっておかしな目でわたしを見るようになりました。どんなに冷静で無表情な顔をしたって、そんな彼の心情位嫌でも気づかされてしまいます。
それで今日、ついにやってしまいました。
いつも通りの子供達との素晴らしい授業が終わった途端、わたしの体は闇に吸い込まれるように力を失い、視界をなくし意識をなくしました。一瞬何が起きたのか分かりませんでしたが、数時間後意識を取り戻した時、側で付き添ってくれていた彼から教えられやっと自分の身に起きたことを知りました。
周囲からは仕事を頑張り過ぎだ、疲れや悩みを溜め込んでいたのではないか、君は昔から真面目だからなんて、好き勝手に心配をされましたが、彼の目はごまかされませんでした。彼は、ここしばらくのわたしの様子を誰よりもきちんと、はっきりと見守っている唯一の存在なのです。だから彼だけには全てを打ち明けました。彼はどんなことがあっても信用出来る人です。決してあなたの存在を偽善で侮辱したり独善で冒涜したりすることがありません。だからわたしは、誰よりも彼だけには全てを話してもいいと自分を納得させました。
幸いにも、数日休んだだけで無事元通りの生活を過ごせる状態にまで回復出来ました。元々大したことではなかったので、周囲に余計な心配をさせなくても安心しました。けど彼だけはきちんとわたしを心配してくれて、普段通りの冷静な素振りを見せてもその内側にわたしを心配したくてたまらない本心が透けて見えてしまって、何だか申し訳なくて、でもそれ以上に嬉しかったです。
今日はもう、あなたに話すことはこれ位にしようと思います。ちょっと、また落ち着いて考えなくてはいけない大事な問題が出てきてしまって、でも今日は疲れたのでひとまずゆっくり休もうかと思っています。明日になったらきっと、またあなたに元気な姿を伝えられるから、それまであなたもゆっくり休んでくださいね。
でもあなたはきっと、優しい世界で穏やかな日々を過ごしているのだから余計な心配はいりませんよね。
それじゃあおやすみなさい。次はお互い笑って夢の中で会おうね。
*
「本当に、彼はその名を口にしたんですか?」
「ああ……」
ジョシュアの瞳にはまだ、あの紳士ぶった男の最期の姿が目に焼きついて離れない。最も新しい惨劇の記憶が、また少年の憐れな魂の記憶に刻まれた。
「どうして、彼の名前がこんな時に……」
バトラーはやけに動揺して仕方ない様子になっている。それをマーサがやけに冷たい目でじっくり眺める。
「知ってる奴なのか?」
たまらず、当然の行動としてジョシュアはバトラーに聞いた。
「……昔、とても世話になった。その、俺が事件を起こした時とても親身にしてくれて、恩人だったんだ」
やたらと歯切れの悪いしゃべりに、フォスターがやんわりと代わりを引き継ぐ。
「ジェラルドさんだけでなく、私も知っている人物です――ジェイク・マクレインという名の、かつて教会に所属する司祭で、貧困層の救済に尽力する人物がいました。彼は、本人が貧しい家庭の出であったというのもあって、特に教会内部の中でも熱心に貧民街の改革を強く訴え、また貧しさ故に悪の道を踏み外す人々の更正にも懸命に救いの手を差し伸べる方でした……」
「いや、きっと違う人間だ。マクレインなんて名字は他にもいる」
ひきつった顔で会話を遮るバトラーに、マーサは苛ついた眼差しを向けたのをジョシュアは見逃さなかった。
「そうかしら? 可能性がありそうな話だけど――元々他人を操る術に長けてた人間だったし、アムール村の生き残りを利用して裏で何かやってても不思議じゃないわ」
「しかし、マクレイン氏は既に亡くなっていますし……」
「遺体、損傷がひどくて判別不可能だったらしいじゃない? しかも、よくよく調べたら背丈や身体的特徴にわずかな差異が見られた――教会がもみ消した報告書、こっそり読ませてもらったわ」
また置いてきぼりを食らっている。ジョシュアは不機嫌な自分を何とか隠しつつ会話に割って入った。
「なあ、そのマクレインって奴のこと、もっと詳しく教えてくれないか?」
「貧民街出身で、学術の素養を買われ教会幹部に拾われたのを機に、やがて司祭となり教会の中でも屈指の影響力と信頼度を勝ち取った異例の人物。貧困層と少年犯罪者の救済と更正を生涯の使命とする善良な真人間の顔を持つ一方、自身の目的を達成するためにしばし独善的で行きすぎた行為を取る一面が目立った」
マーサはおそらく読んだという報告書を暗唱した。ついさっきフォスターが語ってくれた内容とあまり変わらないが、こちらはあくまで客観的な冷たさがあった。そして彼女は続ける。
「大勢の『弱者』を救い、貧困にあえぐ民衆の運命を変えた教会の英雄。しかし一部寄付金の横領や身寄りのない貧民街で生を受けた幼子の人身売買など密かな悪行を重ね、教会の権限を濫用し富裕層出身の教会関係者や一般の資産家などに寄付を強要し、拒絶する者には暴力まがいの脅迫、あるいは後ろめたい過去や秘密を暴きゆすりの種として、貧民街と若年層の罪人を救済し援助する資金を大量に集めていた。しかしその寄付金はあくまで好意と合意の下集められたと頑なに主張する当時のマクレイン氏に、異を唱える者は皆無だった。氏がそれまで築き上げてきた功績と信頼は皮肉にも、氏の悪行を結果的に周囲の人々に告発させない無言の圧力となって氏の暴挙を静観させ野放しにさせてしまうこととなり、さらに一部異を唱える造反者達の間接的な粛正にも繋がっていた。
しかし氏の事故死まもなく、匿名の内部告発を思わせる氏の一連の悪事を詳細に書き連ねた封書が各地で大量に発見される事件が頻発し、協会関係者のみならず騎士団民衆に広く知られる事態となった。当初教会側は悲劇の死を遂げた名声ある故人を誹謗中傷する下劣な行為だと批判し事実無根だと強く世間に訴えたが、次々と決定的な証拠が白日の下にさらされ、教会側も素直に事実を受け入れ公式に謝罪した。そして根強い擁護派だった教会関係者に、氏によって更正した人々も沈黙あるいは自身も騙され裏切られたと氏の悪事との関係性を否定する発言を次々と――」
「違う! それは全部でたらめだ」
ぞっとするほど順調に暗唱を続けるマーサを、気の利かないと呼べそうなバトラーの叫びが中断させた。
「気持ちは分かるわ。あなたは特に、マクレインによくしてもらったみたいね。おかげで奴の名声がさらに強固なものとなってしまった。これもまた、教会の失態ね」
そう吐き捨て、フォスターに視線を向けた。彼は暗い面持ちでこのままずっと黙り込んだままでいそうだったが、きちんと口を開いたことでそういう人物ではないと自ら証明してみせた。そしてジョシュアに会話の矛先を与えてくれた。
「氏の――マクレインの事故死については、ジョシュアさんもよくご存じだと思います。もう九年になりますが、ビフレスト山で起きた馬車火災事件のことを覚えていますか?」
「あ……」
六才の頃で、あまり実感のない記憶として頭の片隅に留まっているに過ぎないが、一応覚えていた。
ビフレスト山馬車火災事件――当時、村の人間が悲しみに沈みジョシュアもその輪の中によく分からないまま入らされた。ただ漠然と、あの事件で死んだ男の子のお姉さんが悲劇的な死を遂げたことに気づいた。
村総動員で葬儀が執り行われた。心優しく、気立てのよい真面目なアンナがこんな形で命を落とすなんてと、彼女の弟のことを直接語らずとも、みな遠回しで因縁じみた不幸を嘆き怯えてもいた。そのせいかやたらと母メアリーベルはジョシュアの手を強く握りしめたまま、いつまでも泣き続けていた。小さな手を痛くなるまで握りしめてきた母の体温は、なぜか気持ち悪かった。
彼女はこれから幸せになるはずだったのに、愛する人とまさかこんな結末を迎えるなんてひどすぎると、周りの迷惑も顧みずか細く叫び続けていた――それは愛するわが子の罪を蒸し返された焦りと恐怖から来るものだったのか、今となってはどのような想像をしても無意味だが。
そして、新婚だった兄ウィルとポーリーンもやたらとアンナの両親以上に嘆き悲しんでいた姿も思い出せる。それからちょうど一周忌に甥のステファンが生まれ、むやみやたらとも呼べるような村人の喜びようが忘れられない。
まるでアンナが死んでくれたおかげで、ステファンが生まれて来たのではないかとジョシュアは心の奥底でふと考えたことがあった。
「思い出したよ、それ……」
死んだのは、アンナというかつて村に住んでいたが当時別の土地で教職についていた女性と恋仲であったとされる同僚の男性、そしてマクレインという司祭だった。悲劇的な事故で終わるはずだったが、村中の悲しみが一段落した後その事件の疑惑が囁かれるようになった。きっかけはマクレインの告発する例の封書が村にも届いたことと、おそらく教会が懸命にもみ消そうとした事件当時の状況が風の噂として同時期村にも届いたせいらしかった。
「マクレイン様は殺されたんだ。あれはマクレイン様を陥れるために誰かが仕組んだ事故なんだ」
バトラーは自分に言い聞かせるような口調で強く言い放った。
「異様な馬車の燃え具合と、損傷が激しく判別が不可能だった三人の遺体の状況。他にもたくさんあるみたいだけど、結局事故のまま。教会は身内の不祥事をこれ以上騒ぎ立てられたくない、だからマクレインは素直に死んだことにしておく――これって、実はしごく都合のいい展開だったかもしれないわね」
村でも、皆でアンナの両親を気遣いそのうち誰もその話題を口にしなくなった。だからジョシュアの記憶からも薄れていった。ただ、村に住んでいた誰かがかわいそうな事故で死んだというぼやけた事実が兄の事件と併せて都合よく、なかったことにされた。ある時、ふと家族の前でその話題を口にしかけたジョシュアに母はやんわりと、「その話をするのはやめましょう」と冷静だがやけに威圧的とも取れた口調で諭されたことがある。きっとそれ以来、彼の意識からただでさえあまり知らなかった『アンナ』は消えてしまったのかもしれない。まるで母の思惑通りに。
「どういう意味だ?」
怪訝なバトラーの表情は、信頼する大切な存在を貶められた嫌悪感がしつこくにじみ出ていた。
「ジョシュアの証言通り、本当にマクレインという名の存在が少なくとも彼の拉致に関して糸を引いていたとすれば――今度は、一体何を企んでいるのかしらね? 自分の死を偽造して、何らかの形で、しかも今さらブレイクを利用した大量殺人に荷担するなんて……目的が見えないわ。一体どんな得があるというのかしら」
「そうだ。だからそんなこといつまで考えても意味がないだろう、どうせ関係ない話なんだ」
バトラーのなおもしつこい姿勢に、マーサは無愛想に無言で一瞥するにとどめた。
「そのマクレインのこと、一度調べた方がいいかもしれないわね――騎士団連中が握っていない情報、みすみす無駄にも出来ないしね」
さきほど唐突に現れた鎧男のことを嫌でも蒸し返させるマーサの口ぶりに、ジョシュアは今後充分に起こりうるであろう騎士団との関わりを想像する。これから先、自分達がどこへ行き何をしようとしても、あの冷たい顔をした鎧男が必ず現れ、こちらがどれほど抗おうとも関わらざるをえないであろうという、まるで幼子が抱く漠然とした何かに怯え恐怖する心理状態に近い感覚を抱かせられる。これ以上悪い予感などして的中させることに、何の意味も得もない――ジョシュアは決して自分の記憶の中から消えないであろう酷薄の瞳を持つ男の顔を記憶の奥底に押し込めた。母の惨殺死体の隣に。
「騎士団のことを忘れたのか? あいつらにブレイクを先に捕まえられることなんてあれば――」
「人の話は大人しく最後まで聞いておくことね。あなた、ただでさえ必要とされてない立ち位置にいるんだし、こっちに下手なこと言って自分がどうなるか位頭を使っておいたら?」
相変わらず他人を敵に自ら回して、自身への恨みを売り飛ばし続けようという姿勢を感じさせるマーサの口調を、いつも通りフォスターが諫める。さきほど鎧男に向けた憎しみを見てしまえば、もうこの態度に苛立つのは諦めるべきなのかもしれない。似たような考えを持っているのか、バトラーは怒りを押し殺す表情を浮かべる。そこまでしてこちらにしがみつきたい執念も絡んでいるのだろう。
不慮の事故とはいえ、何の罪もない一家を焼死させた男が、今度は自分の家族を別の、もっと強大な悪意を持った殺人鬼に皆殺しにされて、復讐に燃えこうしてその好機にすがりつこうとしている。
因果応報が大きな輪で回り続けている。ジョシュアは兄がその輪から誰よりも早く逃げ出し、別の幸せな世界にまんまと別の人間として新しい幸せを手に入れる光景をなぜか想像した。
*
大好きなあなたへ。
今日もあなたがどこかで笑っていると、信じたいのに信じられなくなっています。
普段と変わりない、きっと他人から見ればごく平凡な日々が続いています。それこそが誰もが普遍的に願う『幸福』という名のかけがえのないものだと、嫌になるほど言い聞かせて自分を納得させています。これが自分の望んでいた現実、未来でもあるのだからと。あなたがいないことを除いても、わたしは恵まれているのだと。
それがとても罪深いことだと、今も続く悪夢で思い知らされています。あなたがいない今を肯定することの無神経さ、薄情さ、その現実を食い物にし自分にとって都合のいい解釈を作り出し、結果的にあなたが殺されてよかったという結論に達するよう自ら仕向けた、鬼畜の所業と糾弾されるべきこの行為。わたしは、きっとあなたが全ての悪しきものを背負って犠牲となったことを喜ぶような非人道的な人間なのでしょう。愛する者を亡くしても残された人間はその愛する者の分まで幸せに生きなければいけないだなんて、きれいごとにもほどがあります。愛する者の死を利用して被害者面をして、悲しむふりをしてその涙すら意地汚い舌でなめすくって不幸な自分に酔いしれ、すぐ目の前に迫っている幸福の匂いを狡猾にかぎ分け、尊い失われた命を乱雑に大地の肥やしにして踏みつける。悲しみを乗り越え新しい一歩を踏み出すその笑顔は、他人には理解出来ない壮絶な不幸を乗り越えてみせた、生きる資格と権利を持つにふさわしい選ばれし者だと己への自己陶酔と満足に満ち足りた性根から生み出された、卑劣で矮小な悪魔の素顔。
わたしは決してそんな人間になるまいと、あれほど誓い涙に暮れ、自らの命を絶とうとまで覚悟をしていたくせに。自ら醜い仮面をつけて意地汚い本性を隠していただなんて、つくづく自分が許せなく、そして愚かしく恐ろしくもあります。こんな自分の本性を知らず知らず自分の意思で受け入れ我がものとしていただなんて。
わたしはどうすればいいのか、こんな自分をどうすべきなのか分からなくなりました。毎日こんなわたし以上に涙に暮れるあなたを見ておきながら虫の良い弱音を吐いているのは自覚していますが、それでもわたしは自分の罪深さに気づいておきながら、それ以上の結論が出せなくなっています。
実はここ最近、周りの人間がうるさくなっています。そろそろ故郷に帰って成長した姿をご両親に見せたらいいんじゃないか、ずっと帰っていないのだからいい加減休みを取ったらとか、わたしにあの村に帰るよう悪魔の囁きのようにしつこいのです。どいつもこいつもこっちの気持ちを無視して、親に子供の成長した姿を見せ安心させるという当然の行為を押しつけてきます。正直もう親とも思っていないのに、でもそんなことをはっきり言ったら言ったで面倒くさくてしょうがないですね。
でももしかしたらと、思うんです。これも今わたし自身が背負う罪に値する一つの罰の形なのではないかと。この程度の苦痛が罰に相当するだなんて都合のいい話ですが、そう思わずにはいられません。もちろん、本当の罰は必ず近い未来待ち構えているでしょう。わたしはきっと、あなたほどではないにしてもきっと大きな苦しみを背負い、この命が終わるまで苛まれると思います。
例えば、愛する彼を失うとか――だったら、それはそれで最もふさわしい罰かもしれません。でもこれ以上考えるのはやめます。こうして身構えていては罰にはなりません。罰を受ける人間はそれなりに苦しみ責め苛まれなければいけないので、むしろのうのうと生き続けるべきかもしれませんね。その分罰の度合いも大きくなるので。
だったらわたしは、あなたを忘れなければいけないのでしょうか。あなたを忘れて、あなたが死んでくれたおかげで愛する者と出会いあなたが生きていたはずの未来にいる自分よりも幸せになる――それだけは死んでも出来ないでしょう。それでもこうして自分の罪から逃げるという点では、それ相応の報いは受けるかもしれません。
なので代わりに、あなたを裏切ろうかと思います。あなたが殺された現実を受け入れるふりをして踏み台にし、美談に仕立て上げ食い物にした忌まわしい連中の巣窟に、自ら足を運んでみようかと思います。周囲の人間も適当にごまかせて静かに出来るのでちょうどいいですし、あいつらの様子を見て自分の罪深さを改めて思い知り苦しむのにふさわしい行為でしょう。
本当にごめんなさい。わたしはあなたを奪われた苦しみと怒り、憎しみを乗り越える術を知らず、逃げてしまった弱い人間です。きっとこの先の人生、何度もそれを繰り返しきっとあなたを何度も裏切り傷つけ、殺してしまうのだと思います。
でもあいつらはもっとひどい。
何度も何度もあなたを殺している。一人の力でなく大勢の力で。
あなたは何度も何度も殺された。わたしもそれに荷担した一味でしょう。わたしとあいつらは笑ってあなたを殺し続けたのです。きっとそれは変わらない。今も続いていること、そしてこれからもずっと続くこと。
今奴らは幸せであることと引き換えに毎日あなたという存在を貶め、辱めています。その様子を見に行こうと思います。きっとすごく苦しくて不愉快で、やりきれないと感じるだけだと思います。これこそさらなる悪夢です。それでも罰の一環だと全て受け入れましょう。
でもせめて、あなたに会いに行くことだけを許して下さい。あそこは最も近づきたくない忌まわしい場所ですが、あなたを失った苦しみを思い出させ、あなたのいない現実をつきつけられ、改めて絶望し己を戒めるにふさわしい場所でもあります。
わたしは最後に、そこへ向かいます。そしてあなたにしたことの報いのありったけを受けようと思います。
出かけるのは数日中、なるべく早く決めて向かいたいと思います。それじゃあまた、どうか美しい世界で美しい夢を見ていますように。
*
殺人鬼ブレイクは自分の痕跡は残しても、手がかりは残さなかった。無残な被害者の亡骸を残すだけでそれこそ霧のように姿を消し、殺人の証明だけを残し決して自分の足取りが掴まれるような真似はしなかった。それが今、信じられないほど足跡を残している――ジョシュアはマーサとフォスターにそう説明を受けた。
「騎士団連中は今のところ気づいてないわ――まあ、有能を自負するあいつらのことだから時間の問題かもしれないけど」
そう言ってマーサは、ジョシュアがついさっきまで眠っていたベッドに、小さな重みを持つ何かを放り投げた。
なぜかそれを手にするのをためらわれたが、おかしな感情だと無視してジョシュアは手の平に乗せた。
ちょうど彼の手の平に収まる大きさの、くすんだ銀色の紋章だった。紋章、とジョシュアは思ったがすぐに全くの別物だと考え直した。
漠然とまがまがしさだけは感じさせる、不可解な絵柄。手に取っているだけで生気を吸い取られるような錯覚を嫌でも感じさせる。くすんだ銀、などと生ぬるい色味ではなかった。
どす黒い線が不気味な画を描いている。邪悪な影らしきものが巨大な両手を広げ、小さな何かを包み込んでいるような様子が、繊細かつ異常なまでの不気味さを放って描かれている。止まっているはずのその画が、まるでこのまま両手が小さな何かを押し潰し、邪悪極まりない何かを世界中にまき散らし高笑いでもするかのような――そんな光景が一瞬目に浮かんで我に返る。
「気分が悪くなったでしょ?」
「……ああ」
衝撃を引きずりつつも、ジョシュアは実物を見たがるバトラーに押しつけるよう渡してやる。すぐに彼も歪んだ表情を浮かべ本能的に逃れようと、マーサ同様ベッドに放り投げた。
「気味が悪い……一体何なんだこれは!?」
「聞いたことあるかしら? 『邪より生まれしもの』」
フォスターが深刻な表情でうつむいた。バトラーが怪訝な表情を浮かべた。ジョシュアも、よく分からないながらもゆっくりと記憶を辿る。
すぐに、この得体の知れない紋章によく似た画を見たことがあると思いだした。ついでに、その画が描かれた本の内容も。
「黄金の騎士と王女の物語に出てくる、魔王のことか? どうしてそんな名前がここで出てくる」
この国に住む子供達ならば、誰もが一度は聞かされるおとぎ話だ。地方や伝聞によって異なるが、『邪なるもの』と呼ばれる悪しき存在がある時世界を滅ぼそうとするのを、選ばれし騎士が過酷な旅路の果てに打ち倒し平和をもたらす冒険譚だ。物語の細かい内容もまた様々な形を取って語り継がれているが、どうやらバトラーが聞かされた物語には王女が登場するらしい。ジョシュアは悪の手先である巨大な竜や魔女が出てきたのを覚えている。伝聞だけでなく本も出回っていたが、様々な物書きが各々聞かされた物語を勝手に書いて世に出していたため、大筋が同じでも全くの別物だと思わされた。
ジョシュアが幼い頃読み聞かされた本は、かなり古びたものだったがとても壮大かつ重厚で、挿絵も美しかった。しかし今目の前にある紋章は同じ画だと言われても、納得出来ないほど不穏でぞっとする空気を醸し出していた。
「おとぎ話、ね。そうね、たしかにあれは作り話だわ」
「何が言いたいんだよ?」
全く無関係な話をされ本題を反らされた苛立ちを、ジョシュアは顔に出す。その彼の顔を、フォスターが暗い瞳で見やる。
「……実話、なんですよ、それ」
「は……?」
ジョシュアとバトラーが同時に怪訝な表情を浮かべるが、すぐに深刻だと理解出来るマーサとフォスターの表情を見て、顔色を変えた。
「犬猿の仲とされる教会と騎士団が、唯一固い絆を誓い合ったように隠し続けてきた秘密、って表現すればいいのかしらね。こんな風に子供に聞かせるおとぎ話として誰かが世間に広めて秘密を暴く手助けをしようとしても、不思議な位今まで誰も気づかなければ疑問にも思わなかった――まあ、そこも騎士団と教会が結束して潰してきたって結論づければ納得出来るけど」
「実在したのか? 黄金の騎士という存在が」
バトラーがとにかく質問しようとした結果口から出たそれを冷たくマーサは受け止め、真実を語り続ける。
「そんな都合のいいものじゃないわ。実在してるのは、一番嫌な存在」
「『邪より生まれしもの』、か?」
ジョシュアはマーサを顔をのぞき込むように聞いた。
「――そう。人間の持つ『闇』を糧に生み出された強大なる世界の破壊者。太古の昔一度世界の破滅を引き起こそうとしたそれは、教会と騎士団の始まりと言われる者たちの手で封印されはしたが、完全なる殲滅は叶わなかった。邪より生まれし者と呼ばれたそれは世界中に無数の欠片となって散らばり、今も微妙な力を抱き存在を続けている……」
淡々と説明を始めるマーサの台詞のような口調に、やんわりフォスターが割って入り説明を引き継いだ。
「『闇獣の祠』を覚えていますか? 村にあった、少年時代のブレイクが起こした例の事件の舞台にもなっている、あの場所を……」
通常の獣とは異なる、人知を越えた存在。姿形こそ、かろうじて『獣』と表現すべき面影を人間の視点でわずかに見出せるおかげでそう名称づけられているが、実際のその姿はそんな生やさしい存在とは似ても似つかない。現実にその姿をその目で見てしまった者は誰もが、決して拭えない恐怖と覆せない記憶の痕跡と一生付き合わされる羽目になる。
それでも、人の命を奪わなければいけなかったことの方が何よりも辛く悲しいと、母メアリーベルはいつも兄を憐れんでいた。親として子の罪を共に背負う覚悟を持つ裏で、息子を被害者に仕立てるように。
「例え欠片程度の存在だろうとも、人間にとってすさまじい脅威であるという事実は変わらない。子供一人死んだだけでも奇跡みたいなものだったのよ。ついでに隠蔽するのもたやすかった――子供が子供を殺したという社会的に衝撃を与える事件性が世間の目をそらしてくれた。ついでに残虐な行為を行ったはずのブレイクさえも、親友の命を奪うという業を背負うことと引き換えに、何の罪もない村人や大勢の人々を救う英雄として見られるようになった」
むしろ、あの子は正しいことをしたのよ。
あの子がやらなかったら、きっと今頃あなただって生まれてこれなかった。みんなこうやって笑って暮らすことなんて出来なかった。
この村に住んでいるみんなが今もこうして幸せなのは、あの子のおかげなの。
あの子が生まれてきたから。どんな命にだって生まれてきた意味がある。生まれてきてはいけない命などありはしない。
私はあの子を愛しているの。
愛してるの。
愛してるの。
アイシテルアイシテルアイシテル。
「やめろ、そんな風に言うなよ!」
困惑し、心配するフォスターに指摘されるまで、ジョシュアは自分がひどく青ざめ震えていることに気づかなかった。
「……フィル、だったわね。闇獣に『食われた』被害者の子」
マーサは遠くを見るような瞳でつぶやいた。
「『邪より生まれしもの』は無数の欠片となったことで、強力な力を保持する反面実体はなくひどくもろい。おかげで厳重に封印してさえおけば危害を加えられる心配がない。ただし、一度表へ出てくればまず実体を得るため生きた生物――特に人間の肉体を好んで狙い、寄生すれば周りの人間に襲いかかる。人間の肉体を引き裂き、その醜く黒い『魂』を餌とし、力を得るために」
「そんなおぞましい存在、なぜ滅ぼすことが出来ないんだ!?」
思い出したように発言したバトラーの声で流れが切れるように悪くなったが、フォスターが何事もなく新たな流れを引き継いだ。
「長い歴史の中で、何度も挑戦は重ねられてきました。しかし、どれほど手を尽くしても消滅させる手立ては……」
フォスターは首を横に振って、闇獣に抗うことが出来なかった人々の気持ちを代弁するような、暗く悲痛な表情を浮かべた。
「人間の悪しき心を糧とする存在よ? この世に人という存在がい座り続ける限り消えやしない。そしてそんなおぞましい存在がこの世に実在している真実は、不都合なものとしてついでに封印される。いずれ起こりうる事件だったんでしょうね――それでも人間達は、真実を封印し続ける道を選んだけど」
そして、兄貴は人殺しになって許され、おかげでもっと大量の人間を殺した。この現実も、それらの代償のひとつなのだろうか?
「ブレイクの望みはなんだ? その化け物で何をするつもりなんだ?」
バトラーの叫びを無視して、マーサはフォスターに視線を向ける。
「――ねえ、あの村の現場で封印されている闇獣、今どうなっているか知ってる?」
「事件後、教会騎士団と派遣された術士と、村の術士立ち会いの下厳重に再封印されましたが」
「村を襲った時は? 一応点検しておいたんでしょう?」
フォスターの顔色が明らかに変わった。すぐにマーサが顔を上げて、ため息をついた。あまり危機感をない仕草だったが、その瞳の光には大きな衝撃が彼女の内側に芽生えたのを感じさせた。
「ブレイクの目的が、分かったかもしれない」
そして頭を抱え、なぜこんなことに気づけなかったのかと自分を責め始めたが、すぐにいつも冷徹な異常に大人びた少女へと戻った。
その瞳に、確かな決意と憎悪を蘇らせる形で。