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新たな道

王国歴四九七年(大陸歴四六三三年)

『大都市エレイソン資産家一家強盗火災事件』に関する詳細報告書


 同年大陸内でも有数の大都市エレイソンにて、深夜未明資産家として高名だったランベール・オーウェン宅にて火災が発生。主であるランベール(四四)と妻フランシス(三八)、長女フリージア(一三)が焼け跡より焼死体となって発見された。邸宅は全焼、発見された一家の遺体は判別も難しいほどの状態だった。幸いにも炎はオーウェン宅の敷地内に留まったまま延焼はせず、被害は最小限に抑えられた。

 調査によって、初めは邸宅内部で起きた失火によるものと断定。しかし無事逃げ出した数名の使用人から、不審な人影が大慌てで出火直後の邸宅より逃走したという目撃証言が明かされたことから、放火による一家を狙った殺人事件として調査を切り替え、逃走した人物を重要参考人として捜索を開始した。

 ほどなく一人の少年、チャールズ・バトラー(一四)が事件を起こした事実を告白するため姿を現わし、事件は急展開を迎えた。

 被疑者少年はエレイソンの貧民街出身で、事件当時体が弱く満足に働くことの出来ない両親と幼い弟妹八人を支えるため、長男として若年齢ながらも大家族を支える大黒柱として過酷な労働生活を過ごしていた。しかし貧民街在住であるが故に貧困を脱することは容易ではなく、さらに生活は困窮を極め被疑者少年は周囲に頼れる者もいないまま、一人追い詰められていった。

 そこで被疑者少年は中央地区に住む富裕層の家で強盗を働くことを決意。貧しい家族を救うための苦肉の策として、不慣れな大振りの短剣を携え、深夜未明適当に目をつけたオーウェン邸を単身襲撃した。

 事件当時邸宅にいたのは偶然起きていたが異変に気づくことなく書斎にいた主ランベール・オーウェンと、それぞれ自室で床についていた夫人と長女、数名の使用人だけだった。被疑者少年はその好機を見計らい、慎重に邸宅を物色、やがて財産を保管してある地下室を発見し鍵を施錠しようとした。

 しかしその際、異変に気づき書斎より駆けつけたオーウェン氏と鉢合わせる形となり、唐突な事態に混乱した被疑者少年は武器として所有していた短剣を振り回し氏に襲いかかった。咄嗟のことに氏も激しい抵抗で応戦し、両者は激しくもみ合う形となった。そして被疑者少年の手にしていた短剣が氏の胸部を貫き、不運にも致命傷を負った氏は大量出血でそのまま死亡したものと思われる。さらに不運が重なり、被疑者少年が襲いかかったことで氏が手にしていた灯り用の手持ち蝋燭が床に転がり絨毯に引火し、被疑者少年が気づいた時はすでに辺りは火の海だった。

 その後被疑者少年は我が身を守るため全力で逃げ出すことしか出来ず、被疑者少年は無事現場より脱出しその後貧民街方角へ逃走。火災に気づいた夫人は逃げ遅れた長女を救出しようとしたが、共に逃げ遅れ焼死したものと推測される。逃げ出した使用人達も一家を救出しようとしたが、火の周りが早く逃げ出す他なかったと肩を落としていた。

 被疑者少年は即座に事件性の大きさから騎士団の手より拘置され、厳罰に処す流れで今後の処遇を決定づけられようとした。しかし教会側からまだ被疑者が未成年であること、事件は社会の歪みがもたらした根深い貧困によってもたらされた悲劇にも等しい出来事であること、何より被疑者少年に元々殺意はなく、むしろ自身の短絡的犯行により失われた命を重く受けとめ、深く後悔と反省を述べ毎晩拘留中にひどい悪夢にうなされ悲鳴を上げるなど、それら事実を考慮し減刑を求められた。両者は数ヶ月に及ぶ協議の末、被疑者少年を感化院送致――教会側の主張を受け止め、少年の更正を最優先させる結論を出すこととなった。

 そして教会側はこの事件を機に、被疑者少年の帰りを待つ貧困にあえぐ家族を含む全ての貧民街住民の救済を早急に行うことを発表。神学校に在学していたオーウェン家の長男も家族を失い深い悲しみにうちひしがれながらも、周囲に支えられ現実を受け止め、「亡くなった家族は人々の幸せを常に願い、貧困が根絶されることを願っていた。きっと父も母も、心優しく純粋だった妹も自分のすることを温かく受け止めてくれるだろう」と、教会の代表の一人として、遺産の大半を貧民街住民の救済に当てるという声明を出した。その長男の行いに世間はいたく感嘆し、事件発覚後よりオーウェン氏を巡る不名誉な噂を終息させるきっかけともなった。

 その後、被疑者少年は教会側と何より自分の家族を救い出してくれた被害者遺族の長男に深く感謝し、自身の罪を悔い改めながら感化院で更正の道を順調に歩み五年後釈放。その帰りを待ちわびていた家族と再会し再び共に生活、現在一家を支える大黒柱として真面目に暮らしているという。


   *


 こちらがろくにやる気を出さないことをいい加減責めればいいものを、フォスターはあからさまに気を遣ったように接してくる。

「これから……大変な旅になると思いますが、気を引き締めて、協力し合いましょうね」

 それしか言えないのかとばかりに、マーサがちらりと一瞥した。何て冷たい瞳――それでもフォスターは、年長者にも関わらず気づかないふりをしている。

「ふん……!」

 ジョシュアはふてくされた子供のようにそっぽを向いた。これから過酷な、それも殺人鬼を追う旅にしてはあまりにも自覚のない言動だ。

「あんまり子供面しないでもらいたいわね。これからはそういうのは通用しないんだから」

 対するこの少女は、少女でありながらあまりにも研ぎ澄まされた冷徹さを備えている。

 とても、同い年には見えないな――ジョシュアはふとそう思った。彼が生まれてまもなく、彼女が生まれたのだと彼女と彼の母は喜々として話してきた。そしてそんな単純な運命に乗せられた形で、二人の仲が良好になるのは簡単だった。

 そんな思い出は、ただの妄想なのか?

 ジョシュアはマーサが自分を見つめる瞳を見る度、そう思わざるをえなかった。

「分かってるよ……」

 うんざりしたように返答する彼に、またこちらをうんざりさせるように彼女は続ける。

「教会や騎士団の後ろ盾であぐらをかかれちゃ迷惑なのよ。少しは自覚を持って」

 あんたは、人殺しの弟なんだから。

 兄貴の時みたいに許されるなんて思わないことね。

 彼女に、そんなことを言われているような気がした――しかし、実際そうだとしても気にせず、何も考えないようにするしかなかった。

 悔しいが逃げられないのだから、しばらくは彼女の言いたいように言わせるしかない。旅を続けて収まってくれることを信じて。

 この旅から逃げれば、盗賊団――それも、重罪を犯した悪質な子供として、感化院に送られる。そこは子供の更正など甘いことは考えない。教会側は子供の人権を謳い改善を求めているが、騎士団の圧力と、凶悪事件を起こした子供の措置――ジョシュアの兄が大きな転機となり――の多様化が必要という表向きの理由で黙認されているのが現状らしい。そして殺人や強姦などといった凶悪犯罪を起こした子供は被害者や世間の意見を汲むように地獄の牢獄へ放り込まれ、手ひどい報いを受けさせられる。その後の人生に待つのは、罰を受けたことで二度と過ちを犯さないと誓いを立て真人間としてかろうじて生き延びるか、冷酷な大人達に痛めつけられまた同じ過ち――それも、かなり大きなものを繰り返す外道と成り下がるか、本人次第だ。

 そうだ、罪を犯すのに大人も子供も関係ない。

 だから、あの時あいつをそんな場所に放り込めばよかったんだ。そこで暴動に巻き込まれたり不衛生な環境に負けて病気になって死んでくれれば、大勢の人間の命が助かったろうに。

 そして、目の前にいる少女の母も。

 この少女なら、拒絶する自分にどんな手を使ってもそんな牢獄にぶち込もうと奔走してくれるだろう。理由などあえて語る必要もない。

 だったら、外の世界を自由に出歩く道を選ぶのがまともな人間のすることだろう。例えその旅の目的が実の兄を死刑台に送るといったものでも。

 そうだ。これはとても正しいことなのだ。

 あいつは実の兄である前に、ただの人殺し。それも稀代の殺人鬼なのだ。

 今さら両親を殺された身分だ。身内の情など持ち出せば同罪になる。そんなのはごめんだ。

「オレだって――あいつを憎んでるさ」

 じろりと、ジョシュアはマーサを睨んだ。

「あらそう? こっちは血のつながった家族だからって、後で余計なことしないかって不安なんだけど」

 だったらどうして、オレを同行させるんだよ? ジョシュアの至極当然な疑問に気づいたように、マーサは続けた。

「さっきも言ったけど、あなたには義務があるのよ」

「さあさあ! 長話はこれ位にして、早く向かいましょう」

 これ以上側で聞くのは耐えられないとばかりに、フォスターは過剰な明るさで会話に割って入り、一行はなし崩し的に歩き出すこととなった。

 一時的にせよ、自分を閉じ込めていた牢獄が遠くなっていく――ジョシュアは妙な安堵感に支配された。

 そして、これからの旅路に待つものは、果たしてそんな安堵感をまた味あわせる懐の広さを持ち合わせているだろうか?

「これから、どこ行くんだよ?」

 マーサの顔色を伺うように、ジョシュアは聞いた。

「あなたを閉じ込めてる間に、あの豪邸に住む老婆の現場を調べさせてもらったけど、大した手がかりは得られなかったわ」

「被疑者はほとんど証拠を残していませんでした――騎士団は、連続殺人犯だから手口が周到になっているから警戒するよう言われましたが」

 だったらどうして、オレに姿を見られるなんて間抜けな真似したんだよ――ジョシュアは喉にまで出かかった台詞をのみ込んだ。

「ちょうど現場にいた盗賊団の少年たちも、何も見ていなかったみたいだしね」

 ホント、役立たず――マーサはそう言っているような目でジョシュアを見やった。

 現場で唯一いた盗賊団の一人だという事実は、当たり前だが知られている。しかしジョシュアが何も見ていなかったとのたまっても、誰もそれ以上の追及をしなかった。

 不気味な位に。

 何か、思惑でもあるのかと心配せずにはいられない。

 ただ一つ言えることは、あの姿は兄だった。ちょうど自分は、兄が無力な老婆を惨殺した現場に居合わせたのだ。

 それだけだ。不思議なことに恐怖などなかった。怒りさえ抱かなかった――おそらく殺された老婆が大勢の人々を苦しめ金を稼いできた事実がそうさせているのかもしれない。

 殺す方も憎まれ、殺された方も憎まれる。

 この世界は、どうなっているのだろう?

「まあ、あの街の連中は怯えてるみたいだけど、もう被害はないでしょうね」

「一応、襲われる可能性のある人々の警備を騎士団が強化していますが――我々の見解では、すでに被疑者は別の地へ逃げたものと推測してます」

「とっくに逃げてるでしょ。じゃなかったらもっと被害は出てるわよ」

 マーサは吐き捨てるように言った。元々街の住民を心配するつもりは毛頭ないらしい。

「そんな奴らなんかに構ってられないわ。こっちはさっさと証人に会いに行かないと」

「証人?」

「アムール村――あの事件で生き残った村人の一人、デニス・ハートマンよ」

「デニス……」

 その名には充分な覚えがあった。兄ウイリアムス・ブレイクの物心ついた時よりの親友。互いの身に起きたあらゆる出来事を知り深い絆で結ばれた無二の友。

 かつて兄が起こした事件の際、全力をかけるように彼をかばい、彼の処遇が軽くなったことに大喜びし、彼の帰還を心から喜び、強く笑いながら彼を抱きしめてくれた、ジョシュアにとってはもう一人の兄とも呼べる存在。

 二年前の事件で、全てが壊れた。

 デニスは妻と身ごもっていた子供を失いながらも生き残り、その後世間の目に耐えきれず精神を病む寸前にまで至り、全てを捨てるように行方知れずとなった。

「今さら、どうしてデニスの兄貴なんかに……」

 思わず、昔の呼び名で彼を呼んでしまった。

 デニスの兄貴――彼は、実の兄ウィルとは違った意味で、よい兄としてジョシュアを支えてくれた。

 兄の過去を知って落ち込んだ自分を、彼は優しく諭してくれた。母に平手打ちを受けて家を飛び出し泣いていた時の、忘れられない思い出の一つだ。

「関係者は一人残らず洗い出す――行方をくらましてる分、実は殺人鬼を匿ってた、協力者だったなんていう展開もあり得るしね」

「おい! デニスの兄貴がそんなこと――」

「そうかしら? 彼は誰よりもブレイクを親友として慕っていた――この事実だけでも疑いの余地はあるわ」

「でも……兄貴は、あいつに家族を殺されたんだぞ?」

「それ位じゃ、意外と友情は壊れないものよ。我が子が人殺しと知りつつも、それでも最愛の我が子だと声高に叫んで親子の絆を守る面の皮の厚い母親もいるんだしね」

「――!」

 怒りはすぐに収まった。そればかりは、同意せざるをえないとつい思ってしまった。

 無償の愛という名の偽善の報いを、家族の一員として受けた身なのだから。

 果たして、亡き母は今どっちにいるのか。

 やはり神は憐れんで彼女を天国へ迎え入れたか、もしくは結果的に殺人鬼を生み落とした元凶として魔王に咎められ地獄の門に引きずりこまれたか。

 自分が『被害者』だったら、どっちを望むだろう?

「散々苦労しましたが、何とか彼の所在を突き止めることが出来ました」

 フォスターが、本当に苦労したんだと思わせる口調で言った。そして彼が現在住んでいるという街の名を告げた。思ったよりも近く、何もなく寄り道さえしなければ数日で辿りつける絶好にも近い場所だった。

「最近運が向いてきて、ちょっと怖いわね。黒き殺人鬼は後一歩の所で逃がしたけど、あなたを見つけてデニスの居場所も見つけて――この好機は無駄に出来ないわ」

 マーサはジョシュアを見て、少しだけ口元に笑みを浮かべた。そしてすぐ、本来の冷淡な顔立ちに戻った。

「現在、その地で彼は再婚し妻と幼い子供と暮らしてるそうです」

 二年しか時間が経っていないこと考慮すれば、新しい子供は生まれてまもないのだろう。

「いい気なものね。殺人犯の片棒を担いだも同然なのに、過去からまんまと逃げおおせてさっさと愛する妻と子を忘れて、こいつも面の皮が厚いみたいね」

「おい!」

 デニスの兄貴の悪口を言うな。兄貴の苦しみを知りもしないで。

「……一番苦しんでいるのは、殺されて人生を奪われた彼の妻と子供よ」

 マーサは悲しみをのぞかせるような瞳で彼を見やった。

「彼女たちは殺された。そして生き残った夫は自分たちを忘れて新しい幸せをつかんだ――死んだ人間が残された愛する者の幸せを考えるのが道理だとしても、残された人間が死者を顧みない生き方をするなんていう理由にはならない」

 だから私は、彼みたいな人間を許せない。

 マーサはそれ以上言うことはないとばかりに、さっさと背を向け一人歩き出した。

「……本当に、申し訳ありません」

 フォスターは呆然と歩く彼女の背中を見ることしか出来ないジョシュアの肩に、手を置いた。

「母を殺された悲しみが、彼女を変えてしまいました――マーサはウイリアムス・ブレイクを養護したパトリシア・クロフォードの娘として相当な迫害を受け、辛い日々を過ごしてきました。ブレイクに関係する全ての事柄に憎しみを抱くのは当然のなりゆきです……だから、どうか責めないでやって下さい。私も、出来る限りのことをしますので」

 納得など出来ないが、一応彼の言葉を受け入れたふりをしてその場をやり過ごす。

 そして、彼女の後について行く。

 憎しみ合う者同士の旅が始める。追うのは、全ての元凶である殺人鬼。

 必ず、捕まえてやる。

 この悪夢から解放されるなら、どんなことだってしてみせるさ。


   *


 お久しぶりです。大切なあなた。

 また、しつこいようですが謝らせてもらいます――また寂しい思いをさせてしまってごめんなさい。やっぱりわたしは弱い人間です。わたしはあなたに自分の醜い心を見られたくないばかりに、またしばらくの間あなたと向き合う時間を自ら捨てて、何も考えたくない時間を勝手に作って閉じこもっていました。

 これ以上自分の心をまっすぐ見つめてしまえば、わたしという人間の汚さを思い知らされ、わたしはその罪深さに耐えきれなくなりそうでとても怖い。

 きっとわたしは自分で自分という存在を、とても恐ろしい形で壊し永遠の罪人にすら変えてしまうとんでもない力があるのかもしれません。

 それはいけないことです。だからわたしは責められ、罪人として糾弾されるに値するのです。

 そんなわたしを、あの人が救ってくれることになりました。会ったことがないけど、わたしの噂を聞いてわざわざこの村まで足を運んでくれました。

 彼女は初めて顔を見たわたしのことを、まるで今まで知っているかのような優しい笑顔を向けて接してきてくれました。そして自分のことを打ち明けて、あれと同じようにわたしのことを助けたいと言ってきました。

 それを聞いた瞬間、その人のことが大嫌いになりました。本当に心の底から。初めて見た時から教会の制服を着ていたから嫌いだったけど、もっと嫌いになりました。

 本当、大っ嫌い。

 もちろんすぐに拒否して部屋に閉じこもりました。でもその人はしつこくて――その人は本当に真剣な目で嫌でもわたしと向き合おうと、無理矢理にでも話し合おうとしてきました。

 本当にしつこくて。

 まるで、世界中の人間が善人であることを信じて疑っていないような気持ち悪い目で見られて、嫌になってしまいました。

 とっても大嫌い。だけどそれは、とても悪いことですね。そんなことを考えていたら、また大好きなお父さんやお母さんがうるさくて仕方がありません。でもそれは、このわたしを愛してからこそなんですよね。悔しいけどそう思うようにしています。それはあなたがいた頃何も変わらないことなのだと言い聞かせて。

 最近、あの人たちはあなたのことを忘れているのではないかと変なことを考えてしまいます。でもそれはとっても悪いことなので、すぐに考えるのをやめます。

 結局、わたしはとても素直に、それこそ感動と感謝でたまらないといった顔であの人を受け入れて、彼女の提案をのむことにしました。お父さんもお母さんも、周りの村の人たちも喜んでくれました。ああ、やっと立ち直ったんだと言わんばかりに。

 こちらの気持ちも知らないで、バカみたいですね。だからみんなあなたがいなくなっても平気なんでしょうね。

 ああ、やっぱりわたしはとても罪深い。とっても責められて当然な存在になってしまっていますね。

 あなたにだけは正直に打ち明けたいと思います。あなたはわたしの大切な人だから。誰よりも大切な人だから。

 わたしは彼女や家族、村の人間の言うことなんて最初から聞くつもりなんかありませんでした。

 わたしは、逃げるんです。

 あなたを失った現実を受け入れようとしても、その元凶を目の前で見せられる恐怖や、あなたがいなくなってもみんな悲しくて辛いふりをしていても結局何事もなく生きているような人たちがいるこの村にいるのは耐えられません。

 わたしは怖いのです。自分自身が壊れたり、二度と元の自分に戻れなくなることが怖いのです。あなたを失ったことですでに本当の自分などどうでもいいと考えているくせに、臆病で勝手、ひどい卑怯者ですね。

 わたしも、結局みんなと同じ。最低です。

 だからそんな事実からも逃げるんです。この村にいつまでもいたくない。この村でいつまでも暮らしたって、きっと何も変わらない。そう考えるようにしました。わたしは変わる。新しい道を自分で見つけて、前向きに生きてまっすぐな足で歩く力を見つけるんだって。

 何て都合のいい言い訳なんでしょうね? でもあなたならきっと、こんなわたしの嘘八百さえ簡単に信じて、優しい笑顔で送り出してくれるんでしょうね。

 あなたは、とても優しい人だから。

 だからみんな、あなたの名前を利用してわたしに元気になるようしつこく言ってくるんです。

 まるで、あの時の出来事がとっても不幸な事故だったとでも言うように。

 わたしだけは忘れてないからね。あなたはそんなふざけた理由でいなくなったんじゃない。

 わたしだけは、ちゃんと覚えているから。

 それにあいつの顔なんか見たくないの。あいつの顔を見たらきっとわたしは壊れてしまう。本当に怖い。

 だから、わたしはあなたと生まれ育ったこの村を出て行くことにしました。あなたは悲しむかもしれない。あなたがいれば、わたしはきっとこの場所にいつまでもいたから――でもね、どんなに離れても、わたしたちは絶対に一緒だよ。

 だからどうか信じて下さい。わたしもどんなことがあっても信じているから。

 だから寂しくない。

 絶対に寂しくない。

 そうと決まれば話は早いとばかりに、今旅立つ準備をしています。これは大人への第一歩だから、お母さんの手伝いなしでわたし一人、きちんと立派に荷造りしています。えらいでしょ? ちょっと前まで、こんなこと考えてもみなかったのに、何だか自分でも大人になったようで誇らしい気持ちになったりしてます。

 もっとも、一人の時間を取ることが出来て気が楽なんですけどね。でもあの人がしょっちゅう顔を見に来るので元気なふりをするのが大変です。わたし、女優さんになれたりするかな?

 場所はこの村からとっても離れた教会の寄宿学校――そこで、教会の仕事に就くための勉強をするんです。わたしは元々勉強も出来て行儀がよくて優秀な子だとみんな褒めてくれて、そこで元の明るいアンナに戻れるようにって、あの人が熱心に勧めてくれたんです。

 これは、子供たちを救う大切な仕事らしいです。だったらどうして、あなたは救われなかったんでしょうか? 神に仕えてる身分だったら、どうしてあんな理不尽な運命からあなたを守れなかったんでしょうか? ――ごめんなさい。また悪いことを考えてしまいました。本当にごめんなさい。

 正直言って、あまり興味がありません。でも、勉強は嫌いではないのできっとためになったり、将来いろいろ役立つことがあるんだって、ちょっとだけわくわくしています。一人になって大変かもしれませんけど、わたしが自分で決めたことなので、どんなことがあっても逃げずに頑張ろうと思います。

 どうか、どこかで応援していて下さいね。

 わたしが決めたこの新しい道を、どうか無事進み通せるか見守って下さい。

 あなたがいるから、わたしは頑張れる。だからわたしは、わたしを信じて未来を進んでいこうと思います。

 向こうに着いても手紙書くからね。それじゃ、今日はおやすみなさい。

 明日いよいよ、旅立ちです。興奮して眠れないかも。


   *


 これは息抜き、男にはこういう時間が必要なのだ。バレなければ誰も傷つかないし、誰も損しない。利害がきちんと保護されるのだ。

 体のいい言い訳はこれ位にしておこう――デニス・ハートマンは目の前の娘に意識を集中した。

 金で買える男と女の極上の幸福。これぞ男冥利につきる。

 娘の名はメアリーと言うらしい。ありふれた名前、偽名として扱うにはちょうどいい名だ。知り合いに似たような名前がいたが思い出したくない。

 嫌でも思い出してしまう。よくある女の名前だと一蹴する。

 家には、新しい妻と幼い我が子が待っている。もちろん二人は誰よりも大切な存在だ。だからこそ、この楽しみに散財は禁物だと自分を戒めている――別の女に体を開かせるという、妻からすれば悪魔の所業とすら罵られる行為の是非など顧みずに。

 少し位、後悔しないよう生きたっていいじゃないか。人生は一度きり。やり残したことなど、ましては後悔などしたくない。

 生き残って以来、彼は利己的な考えに取り憑かれてしまったのかもしれない。果たして、それを心より責められる存在はいるのか。

 久々だからと慎重に選ばせてもらったが、なかなかの上玉だったようだ。少しばかり年をごまかしているかもしれない――幼めの顔立ちだが、体は思った以上に大人びている。成熟しきっているといっていいかもしれない。それでもよかった。それを上回るほどの快楽を得られたのだ、嘘やごまかしなど、この世界では常識。報酬に見合った対価を得られれば、それだけでいいのだ。

 ふと、娘――女と言いたいところだが、成熟した大人の顔よりも、幾分幼さを隠しきれない少女の顔の方が大きいので、そう彼は呼称することにした――の腹部に妙な傷があるのを発見した。

 縦に走る、切られたように残る、痛々しくもそれでいてきれいな傷跡。

 娘は嫌な顔一つすることなく、デニスに傷のことを話してくれた。ちょっとばかり厄介

な病気になって、子宮を取る羽目になった。大変だったけど天才的な医者と巡り会ったおかげで、こうして今元気に生きられて感謝してるけどね。

 代わりに、子供が出来ない体になっちゃったけど――一瞬、深い悲しみに沈んだ娘につられ、体を重ね合わせていたデニスの顔も悲しみに沈んだ。

 命が生み出せない悲しみの深さか。男である身分では本当の意味で分からないとしても、少なくともそれを失う悲しみはよく分かる。

 だからこそ、今新しく手に入れた命を大切にする――などとのたまっておいて、この行いはどうなのだろうか?

 デニスは自分の背負った悲しみだけを重点的に思い、こうして快楽を共にする娘に同情の念を抱いた。気の利いた言葉が見つからない分、自分なりの精一杯の思いやりを込めて言った。

「大変だったな……でもよ、幸せなんてどんな奴にだって平等に降ってくるもんだ。何も子供出来ないからって女として落胆することねえよ。出来ない分だけの幸せってやつを、神様はちゃんと用意してくれてるさ」

 ありがとう。あんた、いい人でよかったよ――自分たちの関係性など忘れ、娘は穏やかな笑みで告げた。

 深い悲しみがつきまとっていたような娘の瞳に、一瞬希望の光が見えたような気がした。

 何だか、とても幸せな気持ちになれた。まだ行為の途中だ、興奮するのは早すぎる。自分でそう考えても、頭と体が異様な熱を持っているような気がして、どんどん何も考えられなくなった。

 それさえも、よく分からなくなっていた。

 視界がぼやける。天井がよく見えない。部屋の家具さえ何が置いてあるか分からない。体から娘が離れたような気がした。ああ、おそらく終わったから隣で休憩しているのだろう。

 それにしてもいい娘だ。きっと、こんな仕事をしていても根は優しいのだろう。貧困がそうさせるのだ。そのうちこんな生活から抜け出せればいいが。

 ふと、一体何を考えているんだと我に返る。気づいた時、体はもう動かなかった。

「……!?」

 声も出せない。手足はおろか、首さえ動かせない。

 恐怖と戦慄が瞬く間に全身を支配した。デニスは本能的に何かをしようとしたが、出来なかった。

 無様なほど、何も出来なかった。

 ふと、何か気配を感じた。

 よく知っているような気がしたが、すぐに違うと慌てて否定するほど、恐ろしい闇を思わせる気配。

 誰かが来る。しかし逃げられることなど出来ようか。

 最初から、全てはこのためだったのかと、デニスは本能的に悟った。

 それは目の前に、ゆっくりと現れた。

 よく知っている、忌まわしい存在。

 初めは、とても大切な存在だった。どんなことがあっても、周りがどう思おうと大切にすることを誓った愚かな記憶が蘇る。

 地獄を見せられ、裏切られた怒りに我を忘れるよりも凄惨な苦しみを味わい、深すぎる悲しみを断ち切るのに必死だった。そして逃げ出し、新たな幸せを手にするまで悪夢の日々だった。

 ようやく、忘れられたはずなのに。

 また、人生を取り戻せると思ったのに。

 どんどん、黒い影が近づいて来る。

 嫌だ、嫌だ。お前なんかに、お前なんかに俺の幸せを壊されてたまるか。

 やっと逃げられたのに、やり直せると思ってたのに。

 意識が遠のいた。このまま、何も出来ないまま闇の世界に引きずり込まれるのか。

 何かが見えた。

 かつての妻がいた。大勢の村人がいた。

 皆、こちらに憎悪の目を向けて待ち構えている。

 まるで、こちらを地獄へ引きずり込もうとするかのように。

 ああ、あいつは俺をこんなにも恨んでいるのか。俺が忘れて別の女に乗り換えたことを、こんなにも恨んでいるのか。

 地獄への門が開かれる前に、急激に彼の意識は現世へ引き戻されることとなった。

 それは、今闇の世界で待つ懐かしき人々が味わった同じ苦痛を味わうためだった。

 それが、デニス・ハートマンの最期だった。

 過去を捨て、新たなる道を選んだはずの男に待ち構えていた、想像を絶する落とし穴だった。

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