贖罪の旅路
それにしても、一年はあっという間でもあり、とても長いものでした。あなたを失った現実と戦うふりをしながら、わたしは一生懸命あなたを失った悲しみから逃げていました。
そうしなければ、わたしは生きていけなかったでしょう。今こうしてあなたに手紙めいたものを書いている自分が、何だか自分でないような気がします。ついこの間まで、何もしたくないと考えてばかりいたのに。
きっと、あなたに逢いたい気持ちだけが強いから、こうして今のわたしはわたしを突き動かしているのでしょうね。
決して叶わない願いだと分かっているのに。
例え、周りの人たちがいつか必ず逢えると言われても、分かりませんよね?
だって、今こんなに悲しいのに、どうして実感の持てない幻想を信じていられるのでしょうか?
それでも、それはそれで一応信じてみようと思っています。
だって、こうしてあなたにわたしの思いを伝えているなんて、ばかな真似をしているんですもの。
そして、それがあなたに届いているのだと信じてみせる――何だか、ばかみたいですね。
それでも書かなければ、あなたのことを忘れてしまいそうで怖い。とても怖いです。
あなたを失ったばかりの頃、わたしたち家族はとても苦しみました。とても後悔して、悲しんで、たくさん悔やみました。
わたしもどれだけ後悔したか知れません。あの時あなたを引き止めていれば、あの時何か気づいて、あるいはほんの気まぐれを起こしてあなたを捜して、あの場所へ行くことを食い止めていれば……どれほど考えたところで起きたことは変えられません。そんなこと分かっていますが、お父さんや周りの大人たちがうるさくて、そんなこと少しも考えていませんっていう顔をしなければやっていけません。
あなたがいなくなって以来、お母さんはわたしをぶつようになりました。わたしも怒りや憎しみをぶつけなければやっていけなかったので、ついお母さんに「わたしなんかいない方がいい」、「わたしが代わりに死ねばよかった」なんてひどいことを言ってしまいました。それでお母さんにぶたれて、自分が間違っていること、なんて残酷なことをしてしまったのだろうと思い知らされました。それでもわたしは耐えられなくて、何度もひどいことを口にして、行き場のない憎しみや苦しみを吐き出しました。そうせずにはいられないから、例えそうしたとしても、あなたを失った現実をなかったことに出来るはずなんてなかったのに。
でもお母さんは、わたしがお母さんと同じことを言ってもぶつようになりました。あんなに憎しみを込めてあなたを奪った存在に死んでしまえばいいと言っていたくせに、わたしが少しでもそういうことを口にすれば、わたしを怒ってぶつの繰り返しです。そして泣きながら二度とそんなことを言うなと説教してきて、お母さんだって同じことを言ったくせにとか、反論したらまたぶちます。他にも、あなたを奪った存在に、あいつなんか生まれてこなければよかったと言ってもぶつんです。もっと、一番強い力で。
お父さんは、落ち込んで一人部屋にこもる私に何度もお母さんは間違っていないと言い聞かせてきました。苦しんでいるのはお母さんも同じなんだとか、お母さんの味方をします。そんな風にわたしが怒ると、お父さんはもっと怒ってわたしのためを思っているんだとばかりに説教をします。お母さんと違ってぶってこないので、そんなに怖くありません。
わたしとお母さんとお父さん、どんなことがあってもあなたの分まで生きなければいけないようです。わたしが少しでも後ろ向きなことや残酷なことを言えば、お母さんはまたわたしをぶって、お父さんはお母さんを責めてはいけないと言い聞かせ、わたしが間違っていることを嫌というほど伝えます。わたしの気持ち、この苦しみが痛いほどわかっているんだという顔をして。あなたがいなくなったばかりの頃、あれだけお母さんのことをいじめてたくせに。大人ってやっぱり勝手ですね。
こんな風に、周りのみんながうるさくて大変です。でもこうして、あなたに話しかけている感覚でこの日記をつけるようになったおかげで、少しずつ気持ちが楽になっているような気がします。いつもごめんなさい。こんな悲しいことを書いたりして、あなたも傷つけてしまうようなことをしてしまって。わがままな女の子の愚痴なんだなって、笑ってすませてください。あなたがいつも笑っていたあの頃のように。
おやすみなさい。明日はもう少し楽しいことを伝えますね。もうすぐ植木鉢のお花がきれいな花をつけそうなんです。真っ白と黄色、咲いたらどれだけきれいなのかな? 少しでも楽しいことがあると気が楽です。お父さんやお母さんに、村の人たちがわたしが立ち直ったと安心して何も言ってこないから。
しばらくの間は安心出来そうです。後はこの日記の存在がばれないように、こっそりわたしだけの秘密の場所に隠し通せるかどうかです。
だって、もしばれたらお母さんにぶたれて、お父さんに説教されて、捨てられそうな気がするから。村の人たちも、まだ悲しみを忘れていないのかとか、何だかうんざりしたような顔をされるのも辛いです。
これは、わたしとあなただけの秘密です。
決して、誰にも邪魔させない、わたしだけの大切な秘密だから。
だから、あなたも内緒にしててね。
もしこれを、どこかで見ていたらの話だけど。
*
「困りますマーサ! 勝手に話を進められちゃ……」
二人の重要な会話に水をさすように、突然扉を丁寧だが力強く叩く音が響いた。
看守が冷静に扉を開いてやると、ずかずかとしながらも他人に気を遣うような足取りで、一人の男が部屋に入ってきた。
年は三〇に手が届いていそうな、大人の落ち着きを持ったような男。明らかに教会関係者だと分かる身なりに、穏和な顔立ち――今まで、誰かを憎んだり憎まれたりしたことのなさそうな表情を持っている。
「フォスターさん、今大事な話をしてたんだけど……」
会話を邪魔され、不機嫌そうにマーサは男を睨んだ。
「ですが、それとこれとは話が――」
唐突に現れた自分を怪訝に見やる視線に気づいたか、すぐに男はヴァンの方を振り向いた。
見れば見るほど、人のよさそうな人物だ。
不愉快になるほどに。
「ああ……まずは自己紹介をしなければ」
改まったように、男はいきなり部屋に入り込んできた無礼を詫び、ヴァンへ一方的に丁寧なやりとりを始めた。
「申し遅れました。私の名前はリチャード・フォスター――現在、教会より命ぜられマーサさんとの旅に同行させてもらっています」
「旅?」
「ええ。マーサさんと『黒き殺人鬼』を追う」
「私が説明するから下がってて!」
男はマーサに叱責され、やや居心地が悪そうにしながらも慌てて素直に二人から離れ、彼女の背後に立った。
少女相手に、何とも情けない姿だ。
マーサは自身の後方へ下がった彼を見ることなく続けた。
「この人は私の監視役。さすがに子供だけで殺人鬼の追跡なんてさせられないからね」
彼は信用出来る人よ。一応ね――そうマーサは男を評した。
どうやら、あまり仲良くしてはいないようだ。仲良くする気もない口調だ。
「それにこれからはあなたもいるし……こういう人間がもう一人増えるかも」
「だから、どういうことなんだよ? オレがお前と旅するって」
「さっき説明した通りよ――あなたは、これから私と、このリチャード・フォスターっていう教会の人間と一緒に、あなたのお兄さんを捜す旅をするのよ」
「『お兄さん』って呼ぶのやめてくれ」
苛立たしげに、ヴァンは吐き捨てた。
いちいち責められ、覆しようのない現実を突きつけられているようで虫酸が走る。
二年間、何のために素性を隠し過去から逃げてきたのか。
「そうね……あんな人殺し、血のつながったお兄さんだなんて思いたくないわよね」
「マーサ。いくら何でもそれは――」
さすがにいたたまれないのか、背後のフォスターが割って入った。それを彼女は、振り向きざま睨みつける。
「だったら何? 仲良くしろっていうの?」
こっちは母親を殺されたのよ? こいつの兄貴のせいで散々ひどい目に遭ってきたのよ?
そうマーサはまくし立て、人のよさそうなフォスターを追い詰めていく。
「ですが……それとこれとは話が――」
ふんと、無視してマーサはヴァンに向き直る。
「さっきから黙って聞いてりゃ、なかなかキツイことどんどん言ってくるんだな」
不条理な憎しみをぶつけられ、ヴァンは怒りをこらえながら言った。
「ごめんなさいね。あなたに当たったって何の解決にならない位分かってるけど、そうせずにいられないの」
実に冷静沈着な口調で、マーサは返答した。
こいつ、絶対反省してねえな。
「冗談じゃねえよ、なんでお前みたいな八つ当たりと旅しなきゃなんねえんだよ!!」
思わず声を荒げると、一斉に周囲の看守達がヴァンを取り囲む。すぐ睨みつけて、彼女に直接危害を加える意志がないことを教えてやる。
「私だって嫌でしょうがないわよ――でもね、こうした方がお互いのため、義務だと思うんだけど?」
「義務?」
「そう――私の母は結果的に彼を野放しにさせてしまった。そのせいで私も父も辛い目に遭ってきたわ。でもそれを恨む資格はない、結果的に母は人を救うふりをして大量殺人の片棒をかついで死んだ。どう理由や言い訳を並べたところで、私と父は母の行為を結果的に認めた。むしろ誇りにさえ思っていたわ――何も、不幸な事故に遭ったなんて都合のいいことは考えない。起きたことは変えられない。引き起こしたのは、間違いなく私たち『家族』なんだから」
マーサは氷の瞳でヴァンをじっと見つめ、言った。まだ年端もいかない少女のはずなのに、その目はひどく、よくも悪くも深いものだった。
あの惨劇と悲劇が、彼女をここまで変えてしまったのだろうか? あの事件の余波は、そこまでひどいものだったのか?
被害者は村人だけではすまされなかったようだ。
「じゃあ……家族なら家族の犯した過ちは家族全体の責任ってことかい?」
「そういうこと――そこに子供も大人も関係ないわ。あなたは生まれてからずっと、兄を愛した両親を愛して、同じように兄を愛し愛されてきた。本来ならあなたの両親に精一杯罪滅ぼしをしてもらいたいけど」
「むちゃくちゃな話だな」
「そう? 人を殺しておきながら子供だからという理由でろくに罪に問われないで、その後の人生結婚して子供まで作ってぬくぬくと幸せに暮らす方が、よっぽどむちゃくちゃな話だと思うけど」
「――!!」
「マーサ!」
しつこく毒を吐くマーサを、また諫めるフォスターの声――そんなものどうでもよかった。
こいつ、どこまで人を好き勝手に責めれば気がすむんだ?
「私のこと、憎いでしょ?」
マーサは悪びれるどころか、挑発的とも取れる口調で語りかけてきた。
「……ああ、さっきから不愉快にさせられっぱなしだからな」
吐き捨てるヴァンに、マーサをなぜか笑みを浮かべた。とても自虐的とも取れる笑みで。
「よかった。これから一緒に旅するから、好きになってほしくないのよ」
「は?」
「だって……嫌でも好きになるでしょ? 一緒に旅なんかしてたら。だから――今のうちにしっかり嫌いになってもらいたいの」
もちろん、私もあなたを嫌いになるわ。ううん、元から嫌いだもの。
あなたのお兄さんのせいで、全部めちゃくちゃになったんだもの。
「贖罪の旅になれ合いなんて必要ない――そんなものに振り回されてたら、私たちは何も出来なくなっちゃう」
「贖罪?」
「そうよ、私たち『家族』が野放しにして引き起こした『罪』。あなたがどう思おうが、それは決して変わらないわ。私は諦めないから――ウイリアムス・ブレイクを死刑台に送るまで、どんなことをしてもあなたと旅をして、一緒にあいつを捜し出してもらうわ」
それが、私たちがするべきことなの。
最後に冷たく告げたマーサの瞳を、かろうじてヴァンは睨みつけることしか出来なかった。
その瞳の奥に見えるものだけは、どうしても見えなかった。
「人の兄貴に、よくもそんなことを――」
「あら、そんなこと言われた途端情でも蘇ったの? 散々過去から逃げ出しておいて勝手なのね」
「今さらオレの前に姿見せて、今こうして好き勝手なこと言ってるお前が言える口か?」
「何と言われようとも、引き下がるつもりないから――あなたには一緒に罪滅ぼしをしてもらうわ。もうあなたと私しかいないからね、彼に落とし前をつけられる存在は」
私たちは、生き残ってしまったのだから。
その台詞をつぶやいたマーサの瞳に、一瞬深い哀しみを見た気がした。
*
「ヴァン……?」
部屋を出され、しつこく数人の看守達に連れ出され――その先頭がマーサなのは言うまでもないか――殺風景な廊下を歩くヴァンの前に、不意にその影は姿を見せた。
こちらよりの幾分数の少ない看守に連れられ、前方より現れたリック。残りの仲間はいない。
こちらの名前を呼んだだけで、彼はこわばった表情で見つめるだけだった。
しばしの沈黙――それを無神経に破ったのはマーサだった。
「彼はちょうど感化院に入れられる予定よ――残りの仲間と一緒にね」
「何だと?」
咄嗟に強い瞳で自分を見てきたヴァンに、マーサはそっけなく見つめ返しただけで続ける。
「心配しなくていいわ。きちんと調べさせてもらったけど、彼らは今まで大した罪は犯してきてないし、全部正直に話してくれたから、今後の処遇は穏やかなものになると思う」
彼らは、人なんか殺してないから――まるで彼女がそんな暴言を吐いているような気がして、思わず彼女を睨みつけた。
無視してマーサはリックを見やる。
「一応、更正の余地があるってことで納得してもらえるみたいね。仲間に感謝するのね、彼のおかげであなたたちは穏やかな感化院に入れるんだから」
マーサはリックを実に責めているような口調で言い放つ。
リックは負い目を抱いているように目をそらした。
「どういう意味だよ?」
「話してなかったわね。あなたが私たちとこの旅に同行する条件として、彼らの処遇を寛大にするって」
「何だよ……それ」
話し合いは平行線だった――だから、一度場所を変えて話し合おうというマーサの言葉通り、あの場を離れたというのに。
「騙したのか――!?」
「人聞きの悪いこと言わないで。あなたには元々選択肢なんてないんだから……それに、また感化院に入ったらどんな目に遭うか自分でも分かってるでしょう?」
嫌な記憶をえぐられる。
お前はウイリアムス・ブレイクの弟。
殺人鬼の弟。
兄が殺人を犯しておきながら、無神経な両親が生み落とした新しい子供。自分の子供が人を殺しておきながら、のうのうと新しい命を生み出した。
教会の人間達は初めのうちこそ表面上同情し、味方の振りをしてくれた。しかし気づいていた――彼らは兄の処遇を決定した自分達のやり方に激しい後悔を抱いていたことを。
事件の力が大き過ぎた。彼らもまた大きな傷を負った。
その傷はやがて悲しみや苦しみから大いなる憎悪へと昇華され、一人の『罪なき』少年へと向けられた。
そして訪れた、悪夢の日々。
「保護してくれた施設を抜け出して、盗賊団の仲間入り。そして何十件もの窃盗と強盗を繰り返し……まさか次も、穏やかな施設に入れてもらえるなんて考えてないでしょうね?」
あんたに待つのは、あの頃の悪夢よ。
そうマーサは冷酷な瞳でヴァンを射貫いた。
「マーサ、口を謹んでください――」
「卑怯者」
吐き捨てる彼に、彼女は冷笑するだけだった。止めに入ったフォスターの声は虚しく無視される。
「子供だからと甘えて、盗賊団で好き勝手やってた人間に言われたくないわね」
「マーサ!」
「むしろ感謝してほしいわね、こっちは母親のコネを使ってそっちの仲間を悪の道から救ってやるんだから」
気づけば、リックが居心地の悪そうな様子で視線をそらしている。
こっちがどんなに懇願の眼差しを向けても、彼は一切顔を上げようとしなかった。
「彼らには全部説明しておいてあるから安心して――悪の道を絶つには、まず人間関係から切るのが一番だものね」
「彼らには、今後別々の施設で社会復帰のための寮生活を送ってもらいます。残酷な話かもしれませんが、そういう決まりですので……」
なかなか二人の話に割って入れない様子のフォスターが、申し訳なさそうに話を引き継いだ。
その言動が感に障って、彼の罪なき顔を睨みつけてしまった。
「分かったでしょ? あなたに拒否する権利なんてないの――これは正当な取引よ。あなたは仲間を守って、家族の罪を償う術を得られる。その上教会の保護下で大手を振って太陽の下を歩けるのよ? こんないい待遇ないと思うけど」
「もし……拒否したら?」
今さらなんてバカげた質問をするんだとばかりに、マーサは彼を見る。
「二度目の過ちを、教会は決して許さないでしょうね」
ブレイク家の子には、厳罰を。
それは新たに作られた、真っ当にして大いに支持される法律のようだ。
そんな会話に耐えられなくなったように、リックがきびすを返して去ろうとした。
「リック――!」
追いかけようとしたら、看守達に掴まれ――厳しい表情をしたマーサに立ちふさがれた。
しかし彼の願いを聞き届けたように、リックは一旦立ち止まった。
「別に……お前が悪いわけじゃないから、頑張れよ」
大変かもしれないけどさ、おれたちも頑張るから。
「じゃあな……今までありがとな」
決してヴァンの顔を見ることがないまま、リックはそうして去って行った。
散々、自分に親友面して、こちらの気持ちも考えず振り回してきたくせに――せめて彼なりの優しさがあったと受け止めてやるべきか。
しかし理解出来る。
二度と、自分と彼は交わることがないと。
やがて彼は更正し、自分という存在は人生の汚点となり消したい過去そのものとなり、その記憶の片隅に追いやられると。
そして何よりも自分は、黒き殺人鬼の弟。
それだけで、全てが壊れるのは必然だった。
今さら仲間達と過ごした二年間の思い出が蘇る。やはり、それはかけがえのない日々だったのか、失いたくないほど大切な時間だったのか。
いずれにせよ、もう全ては遅いのだろう。
そしてそうなることが、定めだった。
「行くわよ」
これで全てが決まったとばかりに、マーサは看守を連れて歩き出した。
ヴァンは、素直に従うしかなかった。
それをすぐ側で、フォスターがいたたまれない表情で見ているのを感じる。
ヴァンは何も、見たくもないし見る気もなかった。
何も考える気になれなかった。
*
これは、償いなのか?
それともただ、悲しみと憎しみに動かされているだけなのか。
いや、都合のいい解釈で自分をごまかすのはやめよう。ただこの足が動くのみ、ただ果たすべきことに取り憑かれているだけなのだと言い聞かせる。
黒き殺人鬼、ウイリアムス・ブレイク。
奴が、全てを奪ったのだ。
かつて犯した罪に苦悩しつつも、懸命に生きようとしていた自分から、全てを奪い去りどこかへと消え去った。
燃えさかり、断末魔の叫びを上げる愛する者達を見ることしか出来なかった無力な自分に、奴は笑みを浮かべ逃げていった。
黒く染まったその姿、決して忘れることは出来はしない。
もし別の形で出会っていたなら、同じ十字架を背負った者同士などと、親近感すら抱いたかもしれない――それはあくまでも仮定の話だと、愚かな考えを捨てさせる。
許さない。許すものか。
必ず、捕まえてみせる。
奪われた恨み憎しみ、そして悲しみを奴に精一杯償わせてやる。
今なお続く奴の凶行――どんなことをしても止めなければならない。
もうたくさんだ。耐えられない。自分と同じ悲劇を味わう誰かが新たに生まれることなど。
断じて、させるものか。
だから、憎しみに負けてはいけない。奴への憎悪に取り憑かれ我を忘れてはいけない。
皆必ず見守ってくれている。だから、自分の心を壊すな。どんなことをしても、負けてはいけない。
だからどうか力を貸してくれ――奴に裁きを与える力を。
どうか。愛する者達よ。
*
久しぶりです、そしてごめんなさい。
あれほど毎日、あなたに伝えたいことや話したいことを嫌というほど書き続けてきたくせに、突然何日も何も書かなくなってしまってごめんなさい。勝手なわたしを許してください。
それでも耐えられませんでした。だからしばらく、わたしはあなたと向き合うことをやめてしまいました。本当に勝手だよね、ごめんね。
あなたに、毎日起きた楽しいことや嬉しいこと、どんなに小さなことでも伝え続けていくことで、わたしはあなたを忘れないように――何より、悲しみや憎しみから救われようともがいできました。
わたしはあなたに助けられています。あなたがわたしたちの元からとても遠い場所へ行ってしまったにも関わらず、わたしはあなたをとても近くに感じることが出来る。
そして、わたしの記憶にあなたの優しい笑顔が今も鮮明に残っているのです。あなたが短い間にわたしに残してくれた大切なものです。
本当に、感謝してもし足りません。
時々、あなたはまだいるのではないかと思ってしまいます。しかしそんなことを口にすれば、まだ立ち直っていない、過去を乗り越えていない、現実を見ていないことを咎められ、またお母さんにぶたれてお父さんに怒られるので考えないようにしています。周りの大人たちの目をごまかすのも大変です。
でもそれも、こうしてあなたとの時間を失わないためだと思えば、どうってことありません。だからこそ、わたしはあなたからしばらく離れなければいけなかったのです。
もしその全てをさらけ出そうとすれば、あなたはきっとわたしを嫌いになってしまうのではないか――それが怖くてたまりません。
あなたがどれほど優しくても、わたしの全てを知ってしまったら、どれほど失望させてしまうか怖くてたまらない。
きっとわたしは、自分と向き合うことが出来ない臆病者なんでしょうね。だから今もこうしてあなたを求めてしまう。
本当に、ごめんなさい。
それでもわたしは、せめてあなただけは忘れたくない。
ねえ、小さい頃読んでもらった童話を覚えていますか? たくさん読んでもらった中で、特にあなたがお気に入りだったお話がありましたよね?
題名は忘れてしまいましたが、たしか一人の騎士が国を救うため、とても長く過酷な旅をして冒険をするお話でしたよね?
勇者の剣にお姫様、悪い悪の竜や聖なる魔法、たくさんの美しいものや怖いものが登場して、騎士の旅はそれはそれは波乱に満ちた冒険でしたね。
あなたは毎日のように、そのお話をねだってはその世界に憧れを抱いていましたね。わたしも隣で、一緒にあなたや騎士と冒険をしているような気持ちで楽しんでいました。
あの物語は、たくさんの恐ろしい出来事があっても、わたしたちは大好きでしたね。だって、最後に必ず騎士は悪の魔王を倒してお姫様を救い、国を救った勇者になるんですもの。
全ての旅を終え、人々に平和をもたらした騎士の表情はとても晴れ晴れとしたものでしたね。愛する者を救ったことで、心から彼自身の魂さえも救われたように。
ちょうど、今日帰ってきたあいつもそんな顔をしてました。
そう。あいつです。
あいつです。
まるで、あいつの顔はあの物語に出てくる騎士のような図々しい顔をしていました。
まるで、世界を救ってきたみたいな涼しい顔をして。
いや、違うんでしょうね。
きっとあいつは、自分の罪が許されたと思い込んでいるからそういう顔をしていられるんでしょうね。
まるで、罪滅ぼしの旅を終え神様に許された罪人のように。
まるで、本当に許されたような顔をして。
今までのことを全て、洗い流されたかのように――その魂さえも、浄められたように。
あいつの罪なんか、消えるはずないのに。