新しい世界へ
両手の中にまだ、メアリーベルをめった刺しにした感触が残っている。自分がまだ生きていることを実感出来る。あれから、何年経ったのだろうか。最後に日記を書いたのはいつなのか。わざわざ日記を読み返す気にはなれない。年月が経てば少しは罪悪感を改めて抱くのだろうかと思っていたが、気持ちは変わらない。
自分の手で殺してよかった。
一番憎かった女。メアリーベル・ブレイク。忘れようと思ったが、今さら鮮明に思い出す。
あの女は呪われた運命を背負った命を育み産み落とし、代わりに誰かの愛する存在の命を奪うことに荷担した。そして最後まで、自分を弱い善人だが、ただ純粋に我が子を愛する母である自分という仮面を脱がなかった。
思えばなぜ、わたしは直接フィルを殺したブレイクではなく、その母親に最も大きな怒りと憎しみを抱いたのか。単純な話だ。あの女さえ生まれて来なければ、わたしの弟はあんな残虐な運命に見舞われずに済んだ。わたしと彼が同じ時代に生まれてきたせいであの女を含め大勢の人間の命が奪われたように。
どんな命にだって生まれてくる意味があるとか、生まれてきてはいけない命なんてありはしないときれいごとばかり言うからこんなことになったんだと、わたしはよく一人で笑う。頭の中で数え切れないほど、たくさんの人間を、弟が殺されて以来殺してきた。
そして本当に、みんなを殺した。
最愛の家族を殺されてこっちが世間の好奇な目にさらされて泣き暮らすだけで何もしない、仮に何か復讐めいたことをしでかしても、まさかここまで大それたことをするなんて、誰も想像出来なかったことが誇らしくて愉快でたまらない。
まさか、家族が殺されて本当に世界を滅ぼそうとするなんて。みんながただのおとぎ話だとしか思っていなかった邪悪な存在が実在して、それを復活させるなんて。
そんな恐ろしいこと、わたしと彼のような人間が実行出来るなんて、誰も想像するはずがない。おかしくてならないし、今まで、そしてこれからわたしと彼、最愛の弟がやってきたことを思い返すと、一つ一つが他人事のように信じられない。本当に、わたしたちはやりきったのだろうかと。
今日でこの日記を書くことが最後になるだろう。久しぶりに書くと気分が落ち着く。やはり昔からの習慣がなせる業だ。
そういえば、昔の日記はどうしたのか。ああ、あの術士の汚い家にこっそり置いてきた。彼には燃やして捨てたと嘘をついた。もし本当のことが知られたら彼にひどく責められるかもしれない。
だけど、わたしには確信があった。どうせあの術士には何も出来ない。もし、過去のわたしの叫びと、今のわたしが残したちょっとした伝言に気づいても、あいつに何が出来るのか。
仮にもっと別の、行動力と正義感に溢れた誰かが気づいて何かしようとしても、もう遅い。
止められるわけがない。
今さら、わたしと彼の今までの計画にすら誰も気づく気配がなかった。あのマクレインさえも、わたしたちをただのお人好しの小心者の不幸な被害者遺族としか最後まで見ていなかったのだ。
気づいたところで、何もかも、手遅れだ。だから、かつてのわたしと彼、いや、わたしたち以上に絶望してもらいたい。
二度と人間に期待出来ないように。
二度と人間を愛せないように。
二度と、人間の善意を信じられないように。
二度と、二度と、二度と。
もうすぐ全てが終わる。わたしと彼の計画が。
あまりにも順調過ぎて、まるで大いなる神の意志に操られていたのかもしれないと本気で信じるほどに。悪魔かもしれないが、誰だろうが大いなる存在であることに変わりはない。
これから引き起こすことを理解しているはずなのに、やけに冷静だ。もっとたくさんの人間が死ぬかもしれないのに。あれほどブレイクに大量殺人鬼になってもらったのに、奴以上に人の命を奪うことになろうとは。
わたしたちのような人間は地獄に落ちると批判する人間がわんさかいるだろうが、地獄はこの世界だ。
もっと恐ろしい悪夢があるのなら、望むところだ。わたしと彼が味わってきた日々を思えば、地獄など天国だ。
それに、連れて行くのなら、今まで生け贄にしてきた連中も改めて道連れにしてやる。
最後位、穏やかな気持ちでこの日記を書こうとしたのに、わたしはやはり怒りの炎を燃やさずにはいられないらしい。思えば人に好意的なふりをしながら、いつも誰かを憎み、侮蔑し、信用することはなかった。弟の死によって、わたしの本性はあぶり出され、二度と、彼以外の人間に本当の意味で心を開くことは叶わなかった。
平凡な人生を送りたい。幸せに生きたかったとはわざわざ思わない。
ただ、弟さえいてくれたら。フィルが、いつまでも笑って、成長して、大人になって、そのままずっと、生きていてほしかった。
弟がいない人生を、この世界を肯定したくなかった。弟がいなくなったおかげで、周りの人間が幸せになるなんて受け入れたくなかった。弟が殺された世界が、正しい世界の姿だなんて、誰が認めてやるものか。
もし、あの日記も含めて、この日記もこれから先の、この世界に生き残ったとしたら。わたしは内心、それを期待しているのかもしれない。
きっと後世で、わたしと彼はどれほど悪名を轟かせることが出来るだろう。いや、きっと教会か騎士団辺りがもみ消すだろう。
自分達がもみ消した存在に滅ぼされた世界で生き残っていられたらの話だが。
もうすぐ時間だ。
ブレイクは本当によく頑張ってくれた。弟が常に寄り添っているから逃げられないのは当然だったが、おかげでもうすぐ、わたしたちの夢は叶う。
自分を善人と信じて疑わない人間達の、薄汚い本性をまとった無数の魂。被害者意識の塊で他人を傷つけることにも抵抗がない。他人の不幸と死を出汁に同情をたかり新しい幸せで当然のように肥え太り、平凡だがささやかな幸せを願うか弱い市民の皮を被り自己顕示欲にまみれた本音から目をそらす。
純粋な悪人も当然糧となったが、やはりなど力不足だった。知能の低い、欲望のままに他人を傷つける人間の魂に大した価値はなかった。それでもそれなりに価値のあるものとして餌食にしてやったが。
みにくい無数の人間達がひとつになって爆発し、世界の創造主が生まれ世界の創造を始めた大いなる頂から世界を変える。
わたしは笑いながら、この世の終わりを彼と共に見守る。すぐそばに、愛するフィルの気配を感じながら。
もしかしたら、いつか生き残った誰かがこの日記を読んでいるかもしれないから、ささやかな言葉を残しておこう。
恨むのなら、アナソフィアとフィリップをこの世に産み落としたロベルトとソフィーのクレメンタイン夫妻を恨むといいわ。とは言っても、とっくにブレイクが始末したけど。
(アナソフィアの日記は、ここで終わっている)
*
アムール村の術士を見捨てる形で再び旅に出たジョシュア達は、神話やおとぎ話でも有名だったヴァルハラ山へ向かおうとした。
世界の始まりと言われる神聖な山。標高はそれほど高くないが、有史以前に神が住んでいたと誰もが信用してしまうほどの神秘性と美しさをまとった、不思議な山。
既に、各地で崩壊の兆しは起こっていた。
どす黒い霧のようなものが発生し、各地で人々が原因不明の病に倒れ、文明のあらゆる機能が麻痺し、騎士団と教会の大きな支えでかろうじて暴動が起きるのを阻止され、救援活動も焼け石に水状態となっていた。
ブレイクの呪いだと誰かが叫んでいた。
そして、まるで幼い頃から聞かされていたおとぎ話のようだと恐怖に震える者も。
黒い霧が現れ、世界各地で謎の病が流行り、黒い影のような悪の手先が人々を襲い、世界の平和は乱され、人々は絶望しました。
おとぎ話と違うのは、英雄がいないことだけ。
自分達に一体何が出来るというのか――そんな疑問を、いつの間にか誰も口にしなくなった。あまりにも非現実的な事態に体だけは動き理性もそれなりにあるのに、頭の特定の一部分が完全に麻痺してしまったような気分だった。
「教会も騎士団も知らないはずはない。そりゃ、ここまで大それたことになるなんて上の連中は考えなかっただろうが」
この期に及んで偉い人間を批判するのかと言わんばかりに、マーサはバトラーを冷たい目で見やった。
「あんたも、大変だな」
バトラーはマーサの視線を避けるように、フォスターに気遣うようなことを言った。フォスターは完全に憔悴しきっているように見えるが、あまりにも普段通りに行動しているので、ずっと行動を共にしてきた三人は、彼があまり事態を重く受け止めていないのではないかと錯覚しそうになるが、すぐに違うと気づかされた。
「……ええ」
その目が、その目だけがろくに生気を持っていない。体の他の部分は健康なのに、まるで目だけが化石のように凍りついている。
マーサが、立ち止まった。
「もう一度確認するけど。これから、各々自分がどうしたいのか、改めてはっきりさせておきましょう」
そしてまず初めに、きっちりとした強い意志を抱くようにマーサは言った。
「私はあの三人に会いたい。会って、改めてどうして私の母を殺したのか。その時の状況や気持ち、今まで、そして今どういう思いで過ごし、世界を滅ぼそうとしているのか。全て直接聞き出したい。仮に何も聞けなくても、せめて、あの三人に会いたい。正直母を殺した恨みや今までの人生で自分がどんな思いで生きてきたのかだって、多少はぶつけてやりたいけど、そんなもことはどうでもいい。私の望みは最初から決まってた。ブレイクを大量殺人鬼として死刑台に送ること――それさえ果たせれば、残りの二人はどうでもいい」
フォスターは息を一つ吐いて、ひどく冷静な口調で続けた。
「私は、同じ教会に身を捧げた同士として、あの二人に話を聞きたいと思います。そして、正直絶望的でしょうが……あの二人に、罪を償うよう説得します。しかし、その場合、ブレイクが二人の手で操られ、闇獣に憑依されていたことも証明されることにもなります。そうなれば、ブレイクが無罪放免となる可能性が高くなります。しかし、私の最優先事項は、本当に、アナとレオが今回の一連の事件を引き起こしたのかを確かめることです。それさえ果たせれば、後は、その時考えさせてもらいます」
バトラーがその次に続いた。そういえば、彼も気丈に振る舞っているように見えて、数日間密かに泣き暮らしていたことを、ジョシュアは知っていた。
「おれも二人とほとんど同じ気持ちだ。しかし、おれには何もする資格はない。こうしてあの三人に会おうとすることだって、許されないことかもしれない――だけど、せめてこの目ではっきりと見守りたい。自分が犯した罪がどのような結果を招いたのか、もう一度自分で確認する義務がある。その後のことは、その時決めるさ。また罰を受ける覚悟もある」
ジョシュアは何も言わないまま、しばらく時間が過ぎたが、彼も素直に告げた。
「兄貴に会いたい。会えてからその後のことはその時考える」
実際、本当にそう思っていたから。
「みんな、今出せる精一杯の結論を出したようね。そう、それで、構わないのよ」
四人はそれ以上のことは言わず、混乱する町並みを抜け、ようやくヴァルハラ山の麓へ辿り着いた。
そしてやはり、この神聖なる山にブレイク達がいるのだという確信を抱かされることとなった。
*
騎士団もどうやら重要な情報を掴んでいたらしい。
しかし、彼らがこれ以上何も出来ないと、四人は嫌でも確信した。
ヴァルハラ山は神聖なる地で、数年に一度行われる儀式以外、基本的に教会の人間すら勝手に立ち入ることを禁じられていた。当然騎士団の誰一人も。
整備された山道へ続く門はあっけなく壊滅していて、人気もない――そして、少し捜索すれば警備の者達の哀れな亡骸が転がっていた。
そして、頂上へ続く道には無残に命を奪われた兵士達が無数に、それこそ永遠に続きそうな屍の道が、まるで神へ続く道ではなく地獄へ続く道のように続いていた。
美しい山の風景に、背筋がぞっとする静けさ。崖が続く道にさしかかった時、ジョシュアは立ち止まり、山から広がるはずの美しい景色を眺めた。
あちこちに、火の煙が上がっている。
空は不気味なほどに晴れ渡っているのに、別世界のように地上は黒く淀んだ空気に包まれ、このまま青空と大地が切り裂かれてしまうそうな気さえしてくる。
頂上へ続く方向を見やると、空がゆがみ、黒ずんでいた。そして道も途中で、濃い霧に包まれて消えていた。
もうすぐ青い空も闇に覆われる嫌な予感しかしなかった。そして、そこに、望んでいた存在が待っていることにも。
「これ以上進んだら、方向感覚がわからなくなります」
フォスターが足を止め、三人に問いかけたが、マーサとジョシュアは構わず進もうとした。
「待て。危険だ――」
バトラーの伸びた手も振り払わん勢いでマーサは進み続けた。
「ここまで来たのよ。霧なんかで止まってなんかいられるものですか――」
「マーサ!!」
前方から女性の声が響き渡り、マーサは凍り付いた表情で足を止めた。
深く、濃い黒にも近い灰色の霧の彼方より、人影が現れ、やがて一人の女性の姿を持って四人の前に立っていた。
よく知っている顔だった。
フォスターも、ジョシュアも表情が固まった。バトラーだけが、山道に唐突に現れた見知らぬ女性に怪訝な顔をした。
「ああ……マーサ、会えてよかった。私の愛しい子。私のかわいい娘」
自分の母親を思い出し、ジョシュアは吐きそうになった。
しかし隣に立つマーサは、彼以上に青ざめていた。
立ち尽くすだけの娘を、パトリシア・クロフォードによく似た女性は足を止めることなく娘に近づき、当たり前のように強く、優しく抱きしめようとした。
霧を突き破らん勢いで別の影が走ってきたかと思ったら、大きな刃がきらりと光を放った。
それは力強くパトリシア・クロフォードの背中を切り裂き、苦痛と驚愕の表情を浮かべたパトリシアは娘の顔を見たまま、真っ黒な霧に変貌しその姿を消滅させた。
「それは亡霊だ。だまされるな」
至極冷静沈着な表情でも、わずかな戸惑いと疲れを感じさせる様子でエディ・バニシェフスキーは四人に言い放った。
「エディ……」
自分の登場に驚いた様子のフォスターを、エディは冷たく見やり続けた。
「わざわざ何をしに来た? 貴様らに出来ることなど何もない。命が惜しかったら、こんな山さっさと下りるべきだな」
彼の口調には以前会った時同様、嫌でも感じた威圧感と冷たさがあったが、やはり、わずかな戸惑いと恐怖めいた別の人間らしい感情が見え隠れしていた。
今すぐ揺さぶれば壊れてしまいそうだと、ジョシュアは感じた。
「……兄貴はこの先にいるのか?」
それでも彼は何かを知っているはずだと、突き放されるのを承知でジョシュアは質問した。
黒い殺人鬼の弟を、エディは冷たく見やり言った。
「感動の再会でもするつもりか? 世界崩壊を間近で見守るのが落ちだ」
「ブレイクだけですか? レオとアナは?」
エディは無言でフォスターを睨み、四人を残して下山しようとした。思わぬ行動であるかのように慌ててバトラーはエディの両肩を掴み詰め寄った。
「世界崩壊って何だ? あの三人はやっぱり世界を滅ぼすつもりなのか!? あんた、何もしないでこのまま山を下りるつもりなのか!?」
バトラーを虫けらのような目で睨み、エディは冷たく彼の腕を振り払った。
「教会の尻ぬぐいをするつもりはない。騎士団も、もう終わりだ。両方滅ぶのなら本望だ。例え、自分も死ぬことになろうともな」
「あんた……騎士だろ? このまま黙って見過ごすつもりか?」
バトラーは心底失望したと言わんばかりに批判するも、エディは異に返さない様子だった。
「ここにいる騎士団は私以外全滅した。残りの騎士団が駆けつける時間もない。そして、頂上には悪しき魂をかき集めた殺人鬼が邪なるものを復活させようとしている――この状況で職務を全う出来る人間がいるなら、是非紹介してもらいたいものだな。不本意ながら私には荷が重すぎる。何より、確信したよ――私の人生はあまりにも無意味だった。教会を憎み、自分を庇護する騎士団にも不信感を抱き、自分以外の他人に敵意を向け続けた挙げ句に、自分なんかよりよほど人と世界を憎んだ存在がいることを教えられて――せいせいする。私が出来なかったことを実行してくれた存在が現れて。邪魔をするには、これ以上自分を嘘をつくことに疲れたよ」
まさか、彼のような人間がそんなことを言うなんてと、四人の驚きは一致していた。
「ど、どうしたんだい? あんた、そんな奴じゃないだろう。一体何が――」
なおも馴れ馴れしく迫るバトラーをエディは突き飛ばした。そして無様に転がる彼に押しかかり、短剣をその首に突きつけ、顔を近づけすごんだ。
「馴れ馴れしくするな殺人鬼が。貴様も私も、もっと早く死ぬべきだったな」
彼の行動を止めるまでもなく、エディはさっさと立ち上がり、ふて腐れたように去って行った。
「……わたしは行くわ。今さらおめおめ引き返すつもりはない」
エディへの当てつけのように言い放ち、マーサはしっかりとした足取りで霧のその先へ向かって歩き出した。バトラーも立ち上がり、彼女に続いた。フォスターとジョシュアも顔を見合わせ、歩き出した。
そして、深く重たい霧の世界へ足を踏み入れた途端、それぞれの姿を見失った。
*
ジョシュアは必死にマーサ達の名を叫んだが、不気味な沈黙が濃密な霧同様果てしなく広がっていた。
何とか冷静になろうとする。まずはこのまま、方向感覚を見失わないうちに出来るだけ前に進もうとした。
「まあ、私の愛しい我が子!」
恐怖と驚きで体が止まった。どす黒くなり始めた霧の世界が一瞬にして晴れ渡り、太陽が降り注ぐ優しい世界が辺りを支配した。
「ジョシュア……ジョシュア! 私のかわいい天使。私の愛おしい子!」
ジョシュアは何も出来ず、強く抱きしめられた。
メアリーベル・ブレイク。
あの頃と何一つ変わらない、実の母。
自分を生まれる前から愛してくれた。
この世に生まれてきた瞬間から、愛さなければいけなかった存在。
いつまでも、愛し愛される絆を保たなければいけない存在。
自分に、正しいと信じて疑わない愛情を押しつけた。大好きで、大嫌いだった、母。
抱きしめられながら、ジョシュアは静かに思い出した。
あの日、母だけでなく村人が大勢殺された、兄が殺人鬼となった運命の日。
近くに住むポーリーンの悲鳴を聞いた。父が様子を見に母とジョシュアを残し外へ出た。
さらに阿鼻叫喚の嵐が村を包んだ。ジョシュアは母の言いつけを守って物置に隠れた。
耳をふさいだはずだった。だから母の声はほとんど聞こえなかった。
何も考えず、必死に自分の存在を押し殺し、訳の分からない存在から逃れようとした。
あの日、あの時置き去りにした記憶が、霧の彼方から襲いかかるようにジョシュアは、全てを思い出した。
「どうして? どうして、どうしてあなたがこんな真似を――」
母は痛みと恐怖で泣きじゃくっていた。腹部から流れ続ける血を懸命に自分の手で押さえていたが、容赦なく体は赤くまみれていく。
そんな母を汚物を見るような目で見つめる、一人の女性。
「待ってたの。あなたが殺人鬼の代わりに作り直した子供が、わたしの弟と同い年になるまで、ずっと待ってたの。そして、今日で全部壊してやろうって、楽しみにしてたの」
母は必死に深手を負った体を動かし、女性の足首を掴んですがりついた。
「だめ!! やめてっ!! あの子には何の罪もない。まだ幼い子供よ」
女性は容赦なく母を蹴り飛ばし、言い放った。
「幼くて罪がなかったのは弟も一緒よ!! 相変わらずね……あなた、つくづくおめでたいわ。殺人鬼を産み落とした自覚がない。だから、これからたっぷり味わってもらうわ」
あまりにもぞっとする口ぶりで、女性は母の髪を掴んで、恐怖のあまり悲鳴すら上げられない様子の母の顔を間近に見やり、続けた。
「感謝してね。愛する息子の手で殺されるなんて情けない死に方じゃなくて」
全て、見守っていた。物置の、わずかに開いた扉の隙間から。
「こんなもののせいで。こんなものがあるから、あいつが生まれてきて」
女性は母の腹部から下を容赦なく短剣でめった刺しにし続けた。すぐに母は声も上げられず人形のように静かになった。
横たわる母のうつろな目が、ジョシュアを見つめていた。
血まみれの女性は、静かに立ち上がりジョシュアの元へ近づいた。殺される、と恐怖で固まったが、女性は慈愛に満ちた笑みを浮かべ混乱した。
そのまま女性は、まるで自分こそがジョシュアの母であるかのような笑みを浮かべたまま、告げた。
ありがとう。無事に生まれて十三才にまで大きくなって。
これから、あなたの人生は暗闇に包まれる。
わたしの弟が手に入らなかった幸せと、残りの長い人生を、あなたは代わりに悪夢のような日々を過ごしていく。
恨むのなら、わたしの愛する弟を殺した兄と、その兄を産んだ母を恨んでね。そして無神経にあなたという存在を作り直した、メアリーベルという女を。
フィルの死を踏み台にして幸せになろうとしたあなたたち家族を、わたしは永遠に許さない。
女性はいつの間にか消えていた。
知らないようで、知っていた女性。
幼い頃、会ったことがあった。
初めは優しそうな女の人だと漠然と思っていた。しかしすぐ、怖いと感じた。それを素直に母に話したらひどく叱られ、二度と彼女の悪口を言わないようにしていたら、そのうちきれいさっぱり忘れてしまった。
あの時、自分を世界で一番憎い存在であるかのように静かに見つめていた、あのまなざし。
ジョシュアは思い出して、また忘れた。
それからすぐ、兄が現れ、かろうじて原型をとどめていた母の亡骸を破壊した。
ああ、そうか。母は二回、殺されたんだとぼんやりとジョシュアは思い出した。
全て思い出した。
「私の愛しい子。愛おしい私の息子」
母の肉体が自分の体ににじんで混ざり合っていく不快感などどうでもよかった。
「大嫌いだ」
母の体が、ぴくりと反応した。
失望したような、驚いた様子で母は息子から離れた。
その腹部に――ちょうど、あの時アナソフィアに刺されたのと同じ箇所が、真っ赤に染まっていた。
「いつも勝手な愛情押しつけやがって。あんたのこと、いつもいつもうっとおしくてしょうがなかった。よくも産んでくれたな、あんたが、あんたのせいだよ。みんな、みんなあんたのせいだ」
涙がとめどなく溢れてたまらない。
ジョシュアは何度も何度も、握りしめたままの短剣を母に突き立てた。
人だけは、殺さないようにしてきた。
兄が殺人鬼として姿を消した後、周囲の好奇な目に耐えられず逃げだし、偽名を使って、盗賊団に潜り込み、他人の物を平気で盗んで、時には刃向かう誰かを平気で傷つけてきた。
それでも、命だけは奪わないようにしてきた。
今目の前のいる母が幻であることなどわかっていた。それでも、殺さないではいられなかった。
世界で一番愛していたはずなのに、それ以上に憎くてたまらない存在を、もう一度この世から消し去らなくていけなかった。
「どうして……どうして?」
母は悲痛な声で息子に問いかけた。あまりにも悲しげに涙も流してみせているので、ジョシュアは一瞬罪悪感に揺さぶられた。
その罪悪感が無意味なものであることに、すぐに気づいたが。
*
メアリーベルはマーサの母のように姿を消すことがなく、代わりにゆっくりと立ち上がった。ジョシュアは嫌な予感を覚えた。
「あんたも、同じなのね。せっかく作り直したのに。次は人殺しにならない、まっさらな子供を産んだのに」
何度も母は、ジョシュアを叱る時怖い顔をした。その表情にジョシュアは意識の奥底で冷たく怖い感覚を抱いていたが、母が自分に間違いなく愛情を抱いているが故のことだと、ずっとごまかしてきた。
それが愚かな考えだったと気づかされた。
子供への愛情は世界中の誰よりも深く、息子が犯した罪に誰よりも苦しみ、その罪を共に背負いながらも人を信じ、愛することを信念に、前を向き、人として生きることを全うした、強き母。
生きてこその償いを信じて疑わず、新しい命をも授かり、己の過ちを償うため同じく生き続けていた息子を支え、新たな息子も立派に育て上げた。強く優しい、母の中の母メアリーベル。
ようやく、全てが嘘だったと、知ることが出来た。アナソフィアはとっくの昔に気づいていたのだ。
ジョシュアも、気づいていたはずだった。
「あんたなら助けてくれると思ったのに。道連れにしてやる。私のかわいい子。もうすぐ世界は終わるわ。だからお母さんと一緒に行こう。お母さんと一緒にいてくれないと、お母さんおかしくなっちゃう」
悪魔のような怒りで歪んでいた母の顔が、別の歪んだ悪魔の顔に変貌した。
猫なで声で迫ってくる母にジョシュアは嫌悪感を抱きながらも、もう一度短剣をむけた。
「母親になんてことするの。悪い子。あんたなんか、一緒に苦しめばいい。母を助けてくれない子供なんかいらないわ!!」
メアリーベルが化け物のように叫んだかと思えば、その肉体は四散し、かと思ったらマーサの母のように真っ黒な霧に姿を変えた。
霧どころか、触れれば粘り着いて取れなくなりそうな大きな液状の物体が広がっていた。
メアリーベルの薄汚い本性が実体化したのだと、ジョシュアは確信させられた。
「私の愛おしい子。お母さん苦しいの。助けて。一緒になろう」
闇に飲み込まれると、ジョシュアは何とかその場を走り去った。相変わらず周囲には深い霧の世界が広がっている。方向感覚など気にしている場合ではなかった。
よりによって躓き一度が転んだが、すぐに立ち上がり、背後に寸前に迫っていたメアリーベルの悪意から逃れた。
別の悪意が、別の方向から迫っていた。
「せっかくウィルと結ばれてフィルのこと忘れていられたのに。あたし悪くない。フィルが死んだのが悪いのに、ウィルが反省してたんだからいいじゃない。どうして昔のこといつまでも覚えてないといけないの」
「私は悪くない。人の親なら、子供をほしがって当然だろう」
「しょうがないじゃない! 息子のこといつまでも恨んでたらこっちが村八分よ。娘がぐぢぐぢ引きずってうんざりしてたのに、何もここまでしなくても――」
「こんなことになるなら、デニスなんかと結婚しなきゃよかった。ブレイクなんか死んでくれればよかったのに、なんでこんな目に遭うの」
「フィルはかわいそうだけど、正直犠牲になってくれてよかった。それにウィルの方が体も立派で村のいい働き手になる」
「フィルは死んだ。死んだ奴のことなんかどうでもいい。それにウィルの子供かわいいじゃないか。フィルよりウィルの方がこの村には必要だったんだ」
「自分の子供がウィルに殺されなくてよかった」
「子供ってかわいいのよ。死んでもまたほしくなるし。ロベルトとソフィーもアンナに気を使わないで新しい子供作ればよかったのに」
「パパ大好き。だけどパパを苦しめるフィルって人嫌い」
「命よりも愛する子供たちを守ったのよ。わたしは悪くない。私は母親として子供を守ったのよ。他人の子供にまで構ってられないのよ。私を悪者だと責める人間より同情してくれる人間の方が多いのよ。それが真実なのに」
「村の人間はウィルを受け入れている。昔のことをいつまでも引っかき回すな。被害者面してうっとおしい」
「ウィルは被害者! 悪いのはフィリップだ」
体が宙に浮いた感覚を抱いたまま、ジョシュアは無数の魂に包まれて、為す術もなく漂った。
あらゆる人間達の声が響き渡る。大きなうねりとなって、ジョシュアの肉体に容赦なく通り抜けて嫌でも意地汚い本性を垂れ流してくる。知っている村の人間達の声も聞こえてくる。
どいつもこいつも、善意と哀れみの仮面の下には、汚くて醜い、どうしようもない本音が溢れて止まらない。
誰一人、フィルを心から愛し思う人間がいない。ウィルへの愛情があっても、誰一人。被害者なのに。フィルには、何の罪もなかったはずなのに。
どうして、ここまで被害者をないがしろにしてきたのか。
どうして、こんなにも加害者をかばっているのか。
人間は結局身勝手だ。本当に大切なのは自分だけと結論づけるのは簡単だが。あまりにもやりきれない。
自分も、こいつらと同じだった。どこかで、フィルの存在をわずらわしく思っていた。いっそ最初からいなければよかったのにと思ったこともあった。彼への些細な哀れみさえも、自分は最低限の善意がある人間なのだと安心する、自己満足の一種でしかなかった。
まだ肉体が残っているジョシュアの存在を、無数の魂達は手を伸ばしすがりついてきた。救いを求めるその手に、ジョシュアは嫌悪感を抱きながら振り払おうとした。
再び姿を現した母に叱られた。
言うことを聞かない悪い子は嫌いよ。
お前みたいな役立たずの子供、道連れにしてやる。
「もう、あんたの引き立て役になるのはごめんだクソババア!!」
ジョシュアの雄叫びが原因のように、突如世界に大きな一筋の光が差し込んだ。
大きな、人の肉体など軽く吹き飛ばしてしまうほどの強大な嵐が吹き荒れた。
かつてブレイクに無残に命を奪われた善人の仮面を被った、あるいはそれさえも被らずただの悪人でしかなかった醜い人間達の魂が悲鳴を上げて次々と吸い込まれるように消え去った。
吸い込まれた魂はひとつとなって、大きな悪意の塊としてジョシュアの前に姿を現した。
*
初めは、人を救うためだった。
人の心に芽生える悪の心を食べ続け、人が争い、憎しみ合い傷つけ合うことがないよう、人々の平和を守ろうとした。
そのうち、もっと闇を食べたいと思うようになった。ちっぽけな心の欠片など物足りない。いっそのこと、人の魂そのものがほしくてたまらなくなった。
なぜなら、人の心は皆醜い。当然、その魂はもっとどす黒かったから。
初めは自分に感謝していた人間達はいつの間にか自分を怖れるようになり、とうとう悪しき存在だと糾弾し始めた。そんな人間達の魂は本当においしかった。
そして、純粋に世界を救いたいと人を愛する心と、都合のいい悪しき存在を倒して名声を得たいという利己的な心を併せ持った英雄によって、この身を引き裂かれ無数の欠片にされた。
かろうじて残った魂の最も自我の残る部分は、長年住み慣れた山の頂上で眠ることが出来た。
世界中に散らばった自分の分身のひとつが、純粋な魂を食べたのを感じた。そのうち、純粋だった魂は純粋なまま闇にのまれ、自分の分身と同化し、実体を手に入れた。その肉体の持ち主はあっという間にされるがままとなり、喜んで、かつての自分のように人の魂を求め続けた。
それは、自分の本体を解放するためだった。分身を連れてきた二人の男女が願っていた。この世界の滅びを。しかし、二人の本当の望みはそんなものではないとすぐにわかった。
だったら、叶えてやろう。自分に有り余る程の力を与え、こうして解放してくれたのだ。
もう、この世界に何もするつもりはない。
それに自分の存在がこの世界から完全に消え去ることが、人間達にとっての最大の罰だ。
本来人を救う神であることすら忘れた連中に温情など無用だ。
少年の手を引いた。幼い魂が背負わされてきた苦痛と憎悪を感じる。
連れて行こう。この二人と一緒に。
少年が振り向くと、数人の、まだ肉体のある人間達の存在が見えた。
あの人達は連れて行かないで。ここに残してあげてと言われたので、彼らの魂に手を出さなかった。もう充分魂は食べ尽くした。
少年は言い忘れそうだったらしいことを慌てて言った。
彼も残してあげて。彼は充分苦しんだ。ぼくは彼を許す。
二人の男女も、頷いた。
少年と、自分を解放するきっかけを作ってくれた男女を連れて、この世界から旅立っていく。世界が滅ぶよりも、この世界から別れを告げたかった三人は、喜んでついて行った。
「待ってくれ!! 俺も連れて行ってくれ!!」
誰かのうるさい声がしたが、すぐに聞こえなくなった。
邪なるものと呼ばれた存在の復活で、世界に蔓延していた呪われた空気は浄化され、世界は平穏を取り戻した。
これから先をどうやって生きていくのか、今度こそ人間達は自分達の意思と力で何とかしなくてはいけない。
もう、この世界に神はいないのだから。