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第三章:狼と最初の食事

 


 本からは学べないことがある。生き延びることも、その一つだ。食べることもまた然り。そして、その二つは思っていた以上に深く結びついていた。


 森での一日目、俺は「死ななかった」。


 言葉にすると軽いが、それは十分すぎる成果だった。


 レッドムーアの外の森は、世界を揺るがすような危険地帯ではない。竜もいなければ、木々の陰に眠るS級の怪物もいない。古代の呪いが旅人を待ち構えているわけでもない。


 ただの森だ。普通の危険があるだけの――足場の悪い地面、隆起した根、小さく見えて意外と深い川、そして人間と共存することに慣れていない野生動物。


 だが俺は八歳だ。しかも一人。持ち物はジャガイモ三つと固くなりかけたチーズ、そして前世のコンビニ店員としての記憶から得た、頼りないサバイバル知識だけ。


 その知識は、期待していたほど役に立たなかった。


 おにぎりは木には生えない――そう心の中でメモしながら、正体不明の木と、毒かどうか分からない実を見上げる。ジャガイモを調理する術もない。


 結局、生で食べた。土をかじっているような味だった。食べ物になろうとしているが、まだ覚悟が足りない何か、そんな感じだ。


 初日の夜は、大きな根の間に身を潜めて眠った。二方向からの風を防げる位置だ。セラのくれたマントは、寒さを「直接の問題」ではなく「他人事」にしてくれる程度には厚かった。


 熟睡はできなかったが、眠れた。それで十分だ。


 二日目は少し良かった。小さな川を見つけた。上流から流れてくる澄んだ水――基本的な理屈からすれば、飲めるはずだ。赤い実のなる茂みも見つけた。実験的に一つ食べて、一時間待って、死ななかったので、追加で食べた。酸っぱくて種が多いが、カロリーはある。


 三日目、ようやく理解した。


 生き延びるというのは、休みのないフルタイムの仕事だ。


 最初の本格的な問題は四日目に来た。


 狼ではない。それは後の話だ。


 雨だった。


 物語に出てくるような風情のある小雨ではない。突然の豪雨。風はセラの灰色のマントを個人的な敵と認識したかのように吹き荒れる。十分でずぶ濡れ。二十分で指先の感覚が消える。


 俺の「寝床」だった根の隙間は、すでに浅い水たまりに変わっていた。


 考えろ、と自分に言い聞かせる。慌てるな。考えろ。


 レン・アキハラのサバイバル知識は薄いが、ひとつだけ覚えていることがあった。居酒屋の暇な夜にぼんやり見ていたテレビ番組の記憶だ。大きな木の下は多少の雨を防げる。洞窟や岩陰があれば、なお良い。


 洞窟は見つからなかった。


 だが、それに近いものは見つけた。倒木だ。古く、幹の一部が空洞になっている。八歳の子供なら、丸まれば入れるくらいの穴。


 俺はそこに潜り込んだ。


 湿った土と腐った木の匂い。かつて何かが住んでいたが、今はいない気配。暗く、狭く、それでも十分に乾いている。


 四時間、そこにいた。雨音を聞きながら、闇を見つめながら、考えた。


 前の世界なら、これを「どん底」と呼ぶのだろう。


 だが俺には、すでにいくつもどん底があった。トラックに轢かれて死んだことも、望まれずに生まれたことも、八歳で追い出されたことも。


 どうやら、底は一層じゃないらしい。


 雨は夕方に止んだ。


 濡れて冷え切った体で外に出て、雲が切れていく空を見上げる。


 よし、と俺は思った。


 今日は生きた。明日は、もう少しまともな食べ物を探す。


 六日目、俺は初めて火を起こした。


 思った以上に時間がかかった。頼りになるのは、半分寝ながら見ていたサバイバル番組の記憶だけだ。


 石と石。摩擦。火花。


 理屈は簡単。実践は――二時間、十回の失敗、擦りむいた指、そして「もう生のジャガイモでもいいんじゃないか」と思い始めた頃。


 だが、ついに火花が枯れ葉に移り、小さな煙が上がり、やがて小さな炎が生まれた。


 それは、小さいのに大きな勝利だった。


 枝に刺したジャガイモを火で炙りながら、暗い森の中で座る。


 初めて、安定に近い何かを感じた。


 幸せではない。ただ、「やれるかもしれない」という感覚。


 ジャガイモは外が焦げて中が生だった。


 それでも、この人生で一番うまい食事だった。


 狼が現れたのは九日目の夜。


 ほとんど眠りかけていた。火は熾火になり、空気は意地悪なほど冷たい。足は限界を迎えていた。


 音がした。


 偶然ではない、意図のある足音。


 目を開ける。


 光の端に、金色の目が二つ。


 猫より高い位置。猪より静か。


 ――狼。


 大きさは問題じゃない。体は引き締まり、灰色の毛並みに黒の斑。尾はわずかに上がり、警戒と敵意の間。


 目が合う。


 分析する。


 単独行動。群れではない。縄張りか、空腹か。俺はここに数日いる。火は目立つ。


 選択肢。


 威嚇――通じる保証はない。


 逃走――無理だ。


 戦闘――何で?


 狼が一歩前に出る。


 耳が伏せられる。


 決断は済んでいる。


 俺はゆっくり立ち上がり、長い枝を取る。武器ではない。ただの「抵抗する意思」の提示。


 狼が止まる。


 首をわずかに傾ける――再計算。


 左手が熱くなる。


 ゆっくりと、深く。


 そして、あの声なき感覚。


 ――飢え。


 それを、喰え。


 俺にそのつもりはなかった。


 これは言っておくべきだ。言い訳じゃない。ただの事実だ。


 その日、俺は狼を喰うつもりで目覚めたわけじゃない。


 だが、狼は跳んだ。


 体が先に動く。


 横に避ける。自分のものとは思えない反応。


 だが狼は速い。


 腕を掠める。


 痛み。


 予想以上に。


 倒れる。


 狼が上に来る。


 現実だ。


 左手が、前脚に触れる。


 選択ではない。


 反射。


 そして――


 デヴォアが応えた。


 それは、力の爆発ではなかった。


 扉だった。


 八年間、完全には開かなかった扉。


 それが開く。


 その向こうには――飢えた空虚。


 次に起きたことは、順序立てて思い出せない。


 熱が体を巡る。


 何かを飲み込む感覚。


 そして――


 狼が離れる。


 止まる。


 そして、崩れる。


 俺は地面に座り込んだまま、それを見る。


 派手な死ではない。


 ただ、止まった。


 何かが抜け落ちたように。


 手を引く。


 左手の印が、静かに脈打つ。


 体が違う。


 強くなった、とは違う。


 満たされた。


 空だった場所が、埋まった。


 ――狼の生命力。


 そんな言葉が、自然に頭に浮かぶ。


 寒さへの耐性。持久力の増加。嗅覚の向上。


 理解する。


 デヴォアは、命だけでなく「何か」を奪う。


 能力。


 スキルの一部。


 そういう仕組みか。


 動かない狼を見る。


 罪悪感は、薄い。


 八歳で、死にかけたばかりだ。


 それよりも、生きる方が優先される。


 すまない、と心の中で呟く。


 だが、どちらかが生きるなら、俺だ。


 立ち上がる。


 体が震える。


 遅れてくる反動。


 傷が痛む。


 だが、立つ。


 そして、あの飢えが――静まっている。


 消えたわけではない。


 ただ、満たされている。


 一時的に。


 その夜、俺は眠らなかった。


 火の前で、左手を見つめる。


 デヴォア。


 返事はない。


 ただの能力だ。


 だが、俺の一部でもある。


 呪われたスキル、クラスX。


 存在してはならないもの。


 拳を握る。


 あの言葉を思い出す。


「長く飢えないよう祈れ」


 だが俺は、すでに飢えていた。


 そして、それは満たせる。


 自分を怪物だとは思わなかった。


 ただ――そうか、と思っただけだ。


 次はどうするか。


 それだけだ。


 翌朝、初めて「考えて決めた」。


 このままではいけない。


 食料は尽きる。


 知識も足りない。


 目的地が必要だ。


 川を辿る。


 基本的な選択。


 水は低い場所へ。低地には人がいる。


 荷物を背負う。


 狼のいた場所を見る。


 何もない。


 消えている。


 証拠も、目撃者もない。


 いい。


 歩き出す。


 十二日目。


 森の端に出た。


 草原。


 その先に、建物の影。


 村ではない。


 町でもない。


 寄せ集めのような場所。


 腕が痛む。


 食料が足りない。


 そして――


 少しだけ、誰かが必要だった。


 左手の印は布で隠す。


 息を吸う。


 行くか。


 拒まれたら次。


 もっと悪ければ――デヴォアがある。


 少なくとも、使えることは分かった。


 一歩。


 また一歩。


 ※ ※ ※


 その場所の名は――


 グレイヴホールド。


 二日後に知ることになる。


 老いた商人から。


 パンと引き換えに、荷を運んだ。


「ここは?」


「グレイヴホールドだ。追われた奴らの町だ。好きで来る場所じゃない」


 俺を見る。


「……お前は違うみたいだがな」


「森から来た」


「一人で?」


「ああ」


「何日だ」


「十二日」


 沈黙。


「座れ。パンじゃ足りん。昨日のスープがある」


 座る。


 塩辛くて冷たい豆のスープ。


 だが――


 二つの人生で、一番うまかった。


 商人は、それ以上何も聞かなかった。


 ここでは、それが十分すぎる親切らしい。



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