第二章:捨てる村
誰にだって、苦労した子供時代の話はある。俺の場合は、ただそれが少しばかり文字通りだっただけだ。
俺の名前はカイエン。
レンじゃない――少なくとも、この世界では。レンという名前は、もうトラックのタイヤの下で死んだ。どこの街だったかも、今となってはどうでもいい。
カイエンは、顔を背けながら与えられた名前だ。まるで、読みたくもない書類にサインするみたいに。
カイエン。この村の言葉に意味はない。ただ、余計な不吉さを帯びない程度に無難で、そして忘れるときに惜しくならない程度に意味のない響き――それだけで選ばれた。
忘れられるために作られたような名前。
別に構わなかった。
名前なんてただの記号だ。大事なのは、それを使う側であって、誰が選んだかじゃない。
レッドムーア村は、地図の端にある――比喩じゃなく、本当に。ずっと後になって、この世界の地図をまともに読めるようになってから知ったことだが、レッドムーアは王国の正式な地図には載っていない。小さすぎて、重要でもない。百四十三人の住民。そのほとんどが、肥沃にはなりきれず、かといって見捨てるには惜しい土地で農作業をして一生を終える。
レッドムーアの人間は、悪人じゃない。
それが最初に理解したことであり、そして一番長く俺を困らせた事実でもある。
彼らは残酷だから俺を虐げているわけじゃない。朝起きて「この子供の人生を少しでも酷くしてやろう」なんて考える奴はいない。
ただ――怖いのだ。
ありふれていて、人間らしくて、正直に言えば理解できてしまう種類の恐怖。
だからこそ、それは罵ることすらできない形で痛い。
残酷さは憎める。
だが、理解できる恐怖は――
ずっと厄介だ。
一年目、俺は家族として数えられていなかった。
宣言があったわけじゃない。公式な決定でもない。ただ、小さな扱いの積み重ねが、はっきりとした形を作っていっただけだ。
俺は部屋ではなく物置の隅で寝る。食事は全員が終わったあと、家の犬と同じ皿から取る。名前で呼ばれることはない――その犬は「キイロ」と呼ばれていたが、その方が俺よりよほど温かい響きだった。
兄と姉がいる。兄はドルト、姉はセラ。
どちらも生まれた時からスキルコアを持っていた。兄は【耕作熟練】。大したものに聞こえないかもしれないが、農村ではそれだけで将来が約束される。姉は【薬草感知】。近くの街の薬師が二度もこの村に来て、弟子入りの話をしたほどだ。
二人は、俺に優しかった。
それが、逆に辛かった。
セラは、夜になると時々、物置の入口にパンを置いていった。何も言わずに。ただ置いて、すぐに立ち去る。ドルトは一度だけ、畑で一緒に遊ぼうとしたことがある。でも、俺が楽しみすぎたのか、左手の印がかすかに光った瞬間、彼は顔色を変えて距離を取った。
嫌悪じゃない。
恐怖だ。
責める気にはなれなかった。もし自分が逆の立場だったら、きっと同じように怖がっただろう。
だが、理解しても、夜の寒さは和らがない。
左手の印は消えなかった。
普通の痣やあざが薄れるようなことはなく、むしろ時間とともに濃く、鋭くなっていく。内側から成長しているみたいに、隠すことも、無かったことにすることもできない。
四歳のとき、包帯で隠そうとした。
夜中に自然と外れた。破れたわけでも、誰かに剥がされたわけでもない。ただ、下から拒絶されるように。
五歳のとき、流れの魔術師が村に来た。父は一袋の麦を払って、その印を見せた。
魔術師は年老いていて、奇妙なものを見慣れた目をしていた。
一分近くじっと見たあと、立ち上がり、麦袋を返しながら言った。
「麦は取っておけ。これは、この世界のどんな魔法でも変えられん。ただ祈るしかない。この子が、長く飢えないことをな」
そして去った。
父は、返された麦袋を持ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
それについて、俺に何か言うことはなかった。
俺も、何も聞かなかった。
六歳になる頃には、村の子供たちの口からその言葉を聞くようになった。
直接じゃない。まだそこまで露骨な残酷さはない。ただの囁き。すれ違うときに聞こえる、ぎりぎり聞こえる声。
捕食者。
呪いの子。
黒印のやつ。
一番多かったのは――ゴミ。
前の世界でも、その言葉はあった。口に出されることは少なくても、視線や態度の中に確かにあった。
特別じゃない。
全く違う二つの世界が、同じ結論にたどり着くこともあるらしい。
そこから何を学べばいいのかは分からない。たぶん、何もない。ただ、起きることは起きるだけで、人はその中で沈まないように立っているしかない。
振り返って一番記憶に残っているのは、苦しさそのものじゃない。
むしろ、どうでもいいような小さな瞬間だ。
乾いた土に降る雨の匂い。何かが始まりそうで、結局何も始まらない匂い。夜明け前の空の色。黄金でも桃色でもない、薄い灰色――世界が一度息を吸い込むような色。
時々物置に入ってくる野良猫。なぜか俺を怖がらなかった。俺の手の印なんて、猫には関係ないのかもしれない。猫にとって大事なのは、魚をくれるかどうかだけだ。
魚はなかったが、少なくとも一人ではなかった。
奇妙な話だ、とある夜思った。俺を最も恐れないのが、俺の印を理解する能力すら持たない生き物だなんて。
恐怖というのは、言葉があって初めて成立するのかもしれない。
決定は、七度目の冬の終わりに訪れた。
突然ではなかった。ずっと前から見えていた。誰も口にしないだけで、確実に近づいてくる嵐のように。
その日、村長が家に来た。父はすでにテーブルについていた。
つまり、すべては事前に決まっていた。
俺は物置の半開きの扉の隙間から、それを聞いていた。
「状況が変わった」村長の声は淡々としている。「来月、王国の使者が定期調査でこの村を通る。もし“あの印”を持つ子供が見つかれば――登録されていようといまいと、ただでは済まん」
「分かっている」
父は即答した。
迷いの気配すらない。
もうとっくに分かっていたのだろう。この場はただの確認だ。
「選択肢はいくつかある」村長は続ける。「一つは、ヴェルの修道院へ送ることだ。特別案件として扱われる」
「どう扱われる?」
沈黙。
「もう一つは――自主的な追放だ。この村を出て、戻らない。記録も、報告もなし。ただ……消える」
椅子の音。父が立ち上がる。
「期限は?」
「今月末までが無難だ」
「分かった」
それで終わりだった。
どこへ行くかも、どうやって生きるかも、何も問われなかった。
俺は物置の隅で座っていた。
外では、レッドムーアの空が暗くなっていく。
――ああ、来たか。
驚きはなかった。涙もない。ただ、長く待っていたものがようやく来たときの、妙な静けさだけがあった。
前夜、セラが来た。
今回はパンじゃない。小さな革の袋を持っていた。古びた茶色で、縫い目が一部ほつれている。
中には、固いパン一つ、じゃがいも三つ、小さなチーズの欠片、そして――しばらく目を離せなかったもの。
灰色の布。
小さなマント。彼女のものだ。あの色は覚えている。町の薬師からもらったやつだろう。
何も言わずに置く。
俺は彼女を見る。
彼女は床を見る。
何か言えよ、と言いたかった。不公平だとか、嫌だとか、せめて違うと思っているとか。
でも、言わなかった。
彼女も。
去り際、足音が一瞬止まった。
ほんの一瞬。
そして遠ざかる。
灰色のマントを見る。
――ありがとう。
それが優しさなのか、ただの解放なのかは分からなかった。
たぶん、どちらでもいい。
翌朝、俺は日が完全に昇る前に出た。
見送りはない。誰も起きていない。物置の扉は開いたままだった――好きなときに行け、という無言の合図。
セラの袋を背負い、マントを羽織る。左手の印は布の下に隠れる。
レッドムーアはまだ眠っていた。
煙突から細い煙が上がり始め、鶏が鳴く。地面は夜露で冷たく湿っている。
村の端に立ち、遠くの森を見る。
名前のない森。村人たちはただ「あっち」と呼ぶ。危険ではあるが、誰も奥まで入らない程度には。
好都合だ。
追っては来ない。
一度だけ振り返る。
感傷のためじゃない。ただ、記憶を歪めないために。
レッドムーアはそのままだった。小さく、寒く、そして自分たちが何を手放したのかも知らない。
別にいい。
いずれ知るかもしれないし、知らないままかもしれない。
どちらでも構わない。
俺は振り返らず、森へ入った。
三時間後、腹が鳴った。
普通の空腹だ。八歳の体にはきつい。大きな木の根元に座り、袋から固いパンを取り出す。
噛みながら、音を聞いた。
左の茂み。
風じゃない。不規則すぎる。
止まる。
分析する。人里離れた森。八歳。武器なし。戦えない。可能性――狼、猪、それかもっと厄介な人間。
逃げるか、隠れるか――
茂みが割れる。
狼じゃない。
猪だ。
大きい。牙も立派だ。機嫌も悪そうだ。
目が合う。
――ああ。
初日でこれか。
猪が地面を掻く。
左手の印が脈打つ。
温かい。
――来た。
内側の何かが目を覚ます。
そして、あの空腹が――ただの食欲じゃない、あの底のない飢えが、初めて本気で目覚める。
※ ※ ※
その日、俺は猪を殺さなかった。
できたかどうかも分からない。ただ、印が光った瞬間、猪は急に踵を返して去った。何かを思い出したみたいに。
俺は同じ場所に座り続けた。
怖がったのか、と考える。
猪ですら。
だが空腹は消えない。ただ待っている。前とは違う形で。もっと意識的に。
左手を見る。
黒い印。
デヴォア。
呪われたスキル、クラスX。
存在してはならないもの。
固いパンを食べ終える。
立ち上がる。
袋を背負い直す。
そして森の奥へ歩き出す。
行き先は知らない。
だが、止まるという選択肢はなかった。
いつか、狼が来る。人間が来る。あるいはもっと悪い何かが。
そのとき、飢えは満たされる。
今は――一歩。
また一歩。
その繰り返し。
まるで家具が自分で歩き出したみたいだな、と乾いた笑いを浮かべる。
少なくとも今回は、誰かが困るかもしれない。
たとえ、それが猪一頭だけだとしても。




