‐〖寂しがり屋の兎〗‐
その日、メイド喫茶に訪れた檜佐木には連れがいた。
「実は、オムライスよりもナポリタンの方が美味しいんすよ」
「そうなのですか。では頼んでみましょう」
対面に座るのは、普段ならこの店で働いているはずの羽原兎だ。檜佐木と共に制服姿で、下校してすぐの来店だった。
月に一度は顔を出すよう頼まれていたのだが、先月と先々月は生徒会発足等で忙しく時間を作れなかった。その事を兎に責められ埋め合わせとして夕飯を奢る事になり、お馴染みのメイド喫茶に連れて来られている。
仕事でもないのに利益を出そうするくらいには、この店を想っているらしい。腹を満たしたいという話だったのに、しれっとチェキ撮影まで注文していた。
「原ちゃんも寂しがってたんで、これは原ちゃんの分っす」
「彼女は私の顔を覚えていないようでしたが?」
「そういうキャラ付けっすよー」
厨房へと入っていく同僚を言い訳に使ってまで搾り取ろうとする。とはいえこの場所で料理だけの注文は無作法かと、檜佐木も貢ぐのを受け入れた。
そうして配膳を待っていると、兎が不意に上目遣いを向けてくる。
「檜佐木先輩は、これからもずっとお店に来てくれるっすか?」
今までのようなからかい調子ではなく、確かな不安を孕んだ瞳。手元もなんだか落ち着きなくメニュー表を閉じたり開いたりしている。
「ずっとは難しいかもしれませんね。前回のように時間が作れない場合もありますし、卒業すればこちらに来る機会はほとんどなくなると思いますので」
檜佐木の地元はこの辺りではなく、高校も寮から通っている。まだ進路が確定している訳ではないが、将来的に足を運べる日はかなり限られるだろう。
だから、彼女にとってその返答は望み通りではなかったはずだ。それでも誠実を見抜いて、その表情は充分に和らいだ。
「そうっすよね。でも檜佐木先輩なら、卒業まではホントに来てくれそうっすね」
「善処しましょう」
「それ、普通は来ない時に使うんすよ」
失笑する兎だったが、彼に対する信頼は揺らがない。檜佐木も早速頭の中で、業務の効率化を模索して今後のスケジュールを見直していた。
それから店内を眺めつつメイドの裏事情を聞いていると、注文した品が届く。二人分のナポリタンとメロンソーダにウーロン茶、同僚だからと美味しくなる魔法は省略されて、粉チーズの容器を置いてメイドは去っていった。
ナポリタンにチーズを振りかけながら、兎は改めて切り出す。
「食べながらでもいいんすけど、ちょっと、お悩み相談的なことしていいっすか?」
「私でよければいくらでもどうぞ」
もしかすると今日は、それが本題だったのかもしれない。最初の問いかけも、資格を試そうとしていたようにも思える。
檜佐木が二つ返事で頷けば、お酌するようにナポリタンへとチーズをかけられた。メイド的な文言はなかったがお礼のつもりらしい。
それから腰を落ち着けた兎は、言い淀みながらも胸の内を打ち明ける。
「えーじゃあその、なんていうかまず……みんなってそんなに、記憶力良くないじゃないっすか」
「まあ個人差はありますね。特に羽原さんは優れている方だとは思いますが」
「そうなんすよ。ウチ、記憶力良いんすよ」
その長所は、接客を見ているだけでも突出していると分かるほどだった。
客の顔を覚えているのは当然で、会話の内容も過去の注文も全て引き出して、些細な変化にさえ一目で気付く。
それは天から与えられた才能で、しかし人からは離れ行く翼だったのかもしれない。
「みんなは昨日の朝ごはんだって忘れちゃうし、絶対って交わした約束もすっぽかすんすよね。でもそれが普通で、許せないって思っても許せたり、嫌って言ってても楽しめたりするんすよ」
記憶は大半が曖昧だ。些細な事柄はすぐに抜け落ちていくし、類似すれば混ざり合う事もある。あるいは思い込みで虚像すら作り上げた。
証明の証拠にすら不十分。けれどそれ故、上手く回る事も多い。
あらゆる情報が溢れ、人との関わりが必須なこの社会においては、むしろ適度に忘れる方が過ごしやすかった。
「それが、ウチには出来ないんす」
だから、彼女は苦しむ。
フォークをナポリタンに絡ませたまま、ジッと見つめている。
均等に赤く彩られたパスタ。まばらに散る粉チーズに隙間へと割って入るピーマンと玉葱。ウインナーソーセージは端の方で順番を待っていて、銀の柄が反射する顔は僅かな湾曲の中で歪んでいる。
けれど彼女が見つめるのは、収まりきらず視界へとも溢れ出す過去。
「喧嘩したら一生、相手のことは嫌いですし、嘘を吐かれたら一生、信じられないんす。だからなんか失敗することが多くて、気付いたら友達はいなくなって、お母さんの愛してるって言葉さえ疑っちゃうんす」
店内ではいつも通り、媚びた声と客の喜びが行き交っていた。この世界に酔って、店の外を忘れている。
「どうにか忘れようとしたっす。とりあえず叩けば直るんじゃないかと思ってやってみたんすけど、ウチの体も記憶力良いんすよね。二回目にはもう、痛みと恐怖が忘れられなくて石を持つ手が動かなくなったっす」
自虐的な笑みを零して言葉が途切れる。でも全てを吐き出した訳じゃない。まだ踏み出すのを躊躇っているだけ。
だから檜佐木は、手を引くように背中を押すように問いかけた。
「他人と、上手に関わる術が欲しいのですか?」
すると久しぶりに、瞳で見返された。でも望みは明かさないまま、すぐに視線を逸らしてまた語りが始まる。
「……その、最近部活に入ったんすよ。と言うより作ったというか。そこで一緒の先輩は、昔と変わってなかったんす。えと、今まで話したことはなかったんすけどね」
それは矛盾しているようでありながら、彼女にとってはそう珍しくない事だった。
「ウチが小学2年生の頃に、お母さんがデパートまで連れて行ってくれて。その時、駐車場の端っこで溝に顔突っ込んでツチノコを探してる男のがいたんすよ。その子の所にはすぐに親が迎えに来て、そして帰りながらも楽しそうに都市伝説を解き明かすんだとか、そんな話をしてたんす」
本当になんでもない出来事。ありふれた日常の中で、視界の端に捉えた光景だったのだろう。それでも彼女は昨日の事かのように、その口元を微笑ませていた。
「それでこの前、その子に面影のある先輩が都市伝説を好きって聞いたもんだから、つい嬉しくなって声かけちゃったんす。当然、向こうは覚えてるわけはなかったっすよ。それに、昔と全く同じってわけでもなかったっす」
そこで、声のトーンが一段落ちた。
人は過ちを繰り返す。その大きな理由は忘れてしまうから。
でも覚えていたって避けられない。不安定な道の先は、どうしても眩しく光るのだ。
だから踏み出して欲する。今度こそは違うと信じて。
けれど彼女が再会した人物は、やはり特別な存在ではなかった。
「今はまだ楽しいっすよ。お互い知らないことばかりだから、食い違ってないんす。でもまたなにかを相手が忘れてしまえば、ウチはもうその場所にはいられなくなるんすよ」
言葉を、時間を、感情を。
完璧に保てるものではないと理屈では分かっていても、自分はそうじゃない。忘れない。忘れられない。
一度失望してしまえばもう、取り消せなかった。
兎は顔を上げた。気付けばその右手はフォークから離れていて、ギュッと左手を握っていた。
そして、消え去れない過去が涙となって零れ落ちる。
「じゃあどうやったら、ウチは人といられるんすか……っ」
ようやくにして訴える。
震えた声を止めてから目元を拭った。思考する度に彼女はそうやって、頬を濡らしているのかもしれなかった。
檜佐木はその姿を正面から見つめ、自分の考えを丁寧に伝える。
「羽原さんの才能を、そのまま受け入れてくれる相手なら、どうやっても上手くやっていけるはずですよ」
それは、具体的な解決策ではない。だから少し突き放されたように聞こえたのか、兎は助言を否定した。
「喧嘩したらウチ、一生嫌いになっちゃうんすよっ?」
「そしたらきっと、別の感情で上書きしてくれるでしょう」
「でも、怒ったって事実は忘れられないっす……!」
「なら納得しなさい。原因を理解して、思い出す度に理由があったのだと過去を説き伏せなさい。向こうに非があれば距離を取ってしまえばいいです。もしも本当にあなたを大切に思っているなら、何がなんでも追いかけてきますから、そしたら、話を聞いてあげましょう」
少しだけ厳しい口調に、反論は止まって鼻水を啜る音だけが返される。
「………」
兎は俯いていた。言われた通りにして、悩みを解消出来るとは思えなかった。
もっと画期的な光を望んでいた。今すぐにこの心を解きほぐして欲しかった。そんな我儘が、胸の内で居座り続けている。
檜佐木はそれをも見透かして、自分に出来る最大限の救いを差し伸べる。
「上手くいかなかったらまた、相談して下さい。一緒に考えましょう。少なくとも私は、羽原さんの手助けになりたいと思っていますよ」
「……ちょっと、勘違いしそうっすよ」
制服の袖で目元を拭い、改めて視線を上向ける。涙ぐんだ瞳が相変わらずの鉄仮面眼鏡を見つめ、恨みと呆れを込み上げさせた。
それから兎は誤魔化すようにナポリタンを頬張る。
大きく膨らむ頬。口内を空にするまで微妙な間が生まれる。
しばらくして舌が自由になった兎は、吹っ切れたようにフォークを持った手で檜佐木を指差した。
「約束っす! なにかあったらまた相談に乗ってくださいっす! ウチ記憶力良いんで、一生もんっすからねこれ!」
涙の跡は残ったままだったが、仕方なく言われた事を鵜呑みにする。全てを背負ってはくれなかった代わりにと、重い誓いを突き付けた。
「分かりました。忘れないよう気を付けます」
彼は、容易く肯定を返す。
勢いづいた兎はそれから追加注文をして、割高なデザートを机へと並べた。退店時には金額が倍増していたが、檜佐木は文句もなく支払う。
今日は奢る約束。
それは彼女に向けての、最初の証明だった。




