11 ポリウォータ事件
「東西陣営の研究者を、騒がせた?」
ドン・ヨンファが、聞き返す。
東西陣営とは、いまの時代ではあまり日常的に出てこない、かつて緊張感のあった言葉に少し引っかかりながら。
ス・ミンジュンが、続けて聞く。
「その、ひと昔前に、半世紀くらい前にね? 『ポリウォータ事件』ってのが、あったのですが……、知って、ますでしょうか?」
「ポリ、ウォータ――?」
と、ドン・ヨンファが、まずポカンとし、
「は、ぁ……?」
と、美祢八が遅れて、気の抜けた顔で反応する。
そんなふたりに、ス・ミンジュンが、
「ああ、冷戦時代の――、“冷たいながらもホットな時代”の、“SFの夢感”のある、ちょっとした事件だ」
「冷戦、時代ねぇ……」
と、ドンヨンファが『冷戦』とのワードに、古臭くも、近未来感の溢れるイメージが浮かび、思いを馳せる。
それはさておき、
「ポリウォータ事件――、これは、“異常水”事件とも言われる、近代の化学界の中の、ちょっとした事件……、いや、ある意味、珍事ですね」
「異常、水――?」
聞き返すドン・ヨンファに、
「ああ……♪」
と、ス・ミンジュンが、ニコリと答える。
「簡単に説明すると、ね? 旧、ソビエト連邦の、ある研究者が、微小な石英の管を通した水について、実験を行ったんだけどね」
「ソビエト、ねい」
美祢八が、『ソビエト』という、こちらも、やや古錆びを感じさせる言葉に反応する。
軍事パレードや、社会主義建築――
また、無骨で脳筋なところがありながらも、スホイ戦闘機のような曲線美が浮かびつつ。
本題に戻って、
「それで、ですね……、その、ただ、石英のチューブ内をとおした水といいますのが、実験で様々な性質を調べてみた結果は、驚くべきものでした」
「驚くべき、結果?」
「ああ。粘性だったり、はたまた100℃の沸点までの物性が、ね? 大きく変化していたんだ!」
「沸点が、かい?」
と、ドン・ヨンファが友人に聞き返す。
カップラーメンを作るときの、お湯が、思い浮かびながら。
「ああ……! 具体的な数値は――」
ここで、ス・ミンジュンはスマホで調べて、
「粘性が15倍!! 融点が、-30から-15℃!! そして、沸点は、なんとッ――!! 150℃から400℃だと、報告されたんだよッ!!」
と、思わずテンションをあげた。
なお、その横で、
「150℃から400℃は、広すぎんけ?」
と、美祢八がボソッとつっこみつつ。
また、ドン・ヨンファが聞く。
「その、水ってのは? ただ、石英の管を通しただけの、水なんだよね?」
「ああ」
ス・ミンジュンは、頷きながら、
「――で? “そこ”から、考えられたのは、ね? 微小な石英の管という“特殊な場”を介することで、ね? 水が、まるで高分子のように、重合したようになった可能性があるんじゃないか? ――って、仮説なんだ」
「水が重合――、だって?」
ポカンとするドン・ヨンファと、
「ほう、」
と、その横、美祢八が意味深な顔でうなる。
まあ、何が「ほう」なのか? 本当に分かっているのかという話だが。
「それで、ポリ・ウォータってことけ?」
とは、る・美祢八。
「ええ、そのとおりです」
と、ス・ミンジュンは答える。
また、ス・ミンジュンは続けて、
「そんな、ソ連の学者、ボリス・デリャーギンの水の研究報告ですが……、瞬く間に研究者たちの間で、センセーショナルなニュースとして広まることになります」
「センセーショナルな、ニュースねぇ、」
と、ドン・ヨンファが言葉をはさみ、
「それで、SFの夢が、まさに満開する冷戦の60年代であったこともありましてね? この重合した水を用いることで、石油化学系の材料のようなものが実現できたり……、もっと言えば、水そのものを石油化学燃料のようにすることさえかのうになるのでは? ――と、応用技術への期待が盛り上がり、その熱狂に拍車をかけることになります」
「分かる、分かる」
と、美祢八が、適当な相づちをいれる。
まあ、本当に分かってんのか、という話だが。
続けて、
「この、ポリウォータ・フィーバーの中では、注目した科学者たちが類似する研究を行なったり……、はたまた、追試にも成功したって報告もありましてね」
と、ス・ミンジュンが話すと、
「――で? 事件っていうからには、何か、違う結論、結果になったってことやろ?」
と、また美祢八が、間に入ってきた。
「そのとおりです。さすがですね、美祢八さん」
ス・ミンジュンが言う。
何が『さすが』なのか、分からないが。
「まあ、結論を言いますと、このポリウォータに関して、さんざん盛り上がったあとで、ですね……、結局は、ボリスの実験において、『不純物が入ってしまったことが、異常な物性が観測された原因である』ということが、分かったのです」
「やろ、ね」
と、美祢八が言い、
「はぁ、……。何か、呆気ない、結果なぁ……」
と、ドン・ヨンファが続く。
「まあ、時代も時代で……、進歩しつつあるとはいえ、まだ実験中に不純物が混入したり……、測定の精度も、いまほどに高くはないから、ね? 仕方ないといえば、仕方のない話かもしれないけど」
ス・ミンジュンが話して、当時の研究を擁護した。