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あなたの音色を聴く方法

作者: いのり

 頼み事を断れない性格のせいで損ばかりしていると思う。クラスメイトの宿題を回収するなんて小さなことから、生徒会長に立候補するなんて大きなことまで。そして今だってそう。


「白石さん、ピアノ弾けるって聞いたんだけど」


 放課後。職員室に呼び出されたので行ってみれば、音楽の先生にそう言われた。嫌な予感がして弾けないと言おうとしたけど、先生は私の返事を待たずに机の上に積まれた書類の山の一番上から紙の束を手に取り、私に差し出す。


 それは楽譜だった。


「半年後の卒業式、三年生みんなで合唱するから、白石さんには伴奏をお願いしたいの。ほら、生徒会長だし、卒業生の代表としてね」


 ほらやっぱり、面倒ごとだ。


 ピアノを習っていたのは小学校を卒業するまでだから、もう三年もピアノに触れていない。感覚を取り戻すところから始めないといけないし、受験勉強もあるのにピアノの練習に時間を割かないといけないなんてごめんだ。


 そう先生に言ってやれたらどれだけ良かったことだろう。心の中でいくら文句を言っても、先生に「白石さんなら安心して任せられるわ」と言われてしまえば、私にできるのはただ黙って楽譜を受け取ることだけだった。



 自分の部屋に帰ると、私はため息を吐いてベッドの上にリュックを下ろした。中から今日の分の宿題と筆箱を取り出し、机の上に置く。椅子に座るとスマートフォンで動画アプリを開いた。勉強をしている間、BGMとしていつも流している人のアカウントに飛ぶとちょうど配信中だったのでサムネイルをタップするとすぐにピアノの音が流れ始めた。それを聞きながらシャープペンシルを握り問題を解き始める。


 オトという名前のこの投稿者は、毎日ピアノを弾く動画をあげている。たまに生配信もしていて、その時は視聴者のリクエストに応えたりしている。顔は出していないけれど、私は彼女の正体を知っていた。音彩ちゃんという、私の友達だ。


 音彩ちゃんと仲良くなったのは六歳の時だった。ある日、保育園の歌の時間のあと、先生が片付け忘れたピアノを音彩ちゃんが弾いて見せたのだ。聞いたことのないクラシックの曲だったけれど、それを弾けるのがとてもすごいということは幼い私にもわかったし、クラスのみんなもそう。それぞれ思い思いにあそんでいた私たちはみんなその手を止めて、ピアノを弾く音彩ちゃんを見つめていた。でも、一番その音に魅入られていたのはきっと、私だったと思う。


 ピアノを弾き終えた音彩ちゃんに、私は真っ先に駆け寄った。


「ねえ、すごいね!」


 私の勢いに音彩ちゃんは驚いたあと、嬉しそうに笑った。


「ありがとう。毎日練習してるんだ」


 聞けば音彩ちゃんのママは家でピアノ教室を開いていて、音彩ちゃんはそこで二歳の時からピアノの練習を始めたらしい。私はまるで大人みたいに両手の指を動かしてピアノを奏でる音彩ちゃんに憧れて、私もピアノを習いたいと両親にお願いした。そしてそれから六年間、毎週火曜日、音彩ちゃんのママのピアノ教室に通った。


 音彩ちゃんは、ピアノ教室に通う生徒の中で一番ピアノがうまかった。ずっと私の憧れだった。少しでも近づきたくて、音彩ちゃんがピアノを弾いている姿をずっと見ていたし、教室がない日だってお願いしてピアノの部屋で一緒に弾いていた。


 だから、偶然このアカウントを見つけたときすぐにわかった。この人は音彩ちゃんだって。


 いくつも動画を見るたびに、それは確信に変わる。カメラの角度が少しずれて見える床のカーペット。配信で突然乱入してきた飼い猫のミュウ。休憩中に飲むのは必ずココアで、それが入ったマグカップは赤い水玉模様。そのすべてが、私が知っている音彩ちゃんのものだったから。


 ピアノが終わり、スマートフォンから音彩ちゃんの声がする。


『次、リクエストがある方はいますか?』


 ふと思い立って、今日先生に告げられたばかりの、卒業式で弾く曲をリクエストしてみた。すると音彩ちゃんがその曲名を読み上げ、すぐに弾き始める。


 その音を聞いていると、ああ、やっぱり音彩ちゃんのピアノが好きだなあと思う。私より彼女の方がよっぽど卒業式の伴奏にふさわしい。


 けれどもそうできない理由があった。音彩ちゃんは一年生の夏頃から学校に来ていないのだ。小学校の時は仲が良かったけれど、中学校に進学したのと同時に私はピアノ教室を辞め、クラスも離れてしまったので、音彩ちゃんとは廊下ですれ違ったら挨拶をするくらいで、不登校になってからもしばらくは気がつかなった。不登校の原因だって知らない。でも音彩ちゃんのピアノはずっと好きなままだったから、私はこのアカウントを見つけたとき嬉しくなって、毎日音彩ちゃんが弾くピアノの音を聞いているのだった。毎週隣で一緒に弾いていたはずのピアノの音が画面の向こうから聞こえるのは、少し寂しいけれど。



 そしてあっという間に半年後。卒業式の前日。

 私はとても緊張していて、音彩ちゃんの配信を見ていた。


【明日の卒業式で弾くので、弾いてもらえませんか】


 そうコメントを打つと、音彩ちゃんが弾いてくれる。明日、こんなふうに弾きたい。


 そう思いながら画面を見つめていると、引き終わった音彩ちゃんが『卒業おめでとうございます』と言ってくれたので、私は驚いてスマホを手から落としてしまった。音彩ちゃんがコメントに対して返事をするのは珍しいからだ。


『そういえば私も明日卒業式らしいです。行く予定はないですけど』


【なんで行かないんですか?】というコメントが流れるのを見て、私は慌てた。ばか、そこはデリケートなところなのに。私以外の視聴者もそう思ったらしく、それを咎めるコメントがいくつか流れる。けれども音彩ちゃんは特に気にした様子もなく、『そうですね……』と普通に答えたので、私はそっと胸を撫で下ろした。


『いじめられたとかそんなんじゃないんです。先生も、クラスの子も、みんな優しかった。でもただうまく馴染めなくて、人と接するのが怖くて、頑張ってみたけど疲れちゃって。こんな私が卒業式に行ってもみんな気を遣ってくれるだろうなと思うと、申し訳なくて……ああでも、幼馴染の子にはもう一度会いたいですね』


 思わず身を乗り出した。そんなことをしても音彩ちゃんとの距離は近づかないのに。画面に顔がついてしまいそうなほど覗き込んで、視界いっぱいに広がる画面の中で、音彩ちゃんはぽーんと人差し指で鍵盤を押した。軽やかな、その音に、懐かしい記憶が蘇る。


 期待しても良いのだろうか。この、彼女が語る幼馴染が、会いたいと言う相手が、私だって。


 震える指先で、コメントを何度か打ち込み、しかし躊躇って消す。何度かそれを繰り返した後、私は一度深呼吸して、エンターボタンを押した。


【幼馴染って、どんな子ですか?】


 緩やかに流れるコメント欄に、私が打ったコメントが現れる。どうか気づいてくれ、という気持ちと、どうか気づかないでくれ、という気持ちは同じくらいだった。どちらも本心だった。画面を見ていられなくて、私は乗り出していた体を引き、椅子に深く座り込む。


 そして、音彩ちゃんは、『どんな子、か』と呟くように言った。私のコメントを見た証拠だった。


『私と一緒にピアノを弾いてくれた子です』


 雑談はそれで終わり、音彩ちゃんは次の曲に行きますね、と言ってピアノに向き直った。その両手、両指が鮮やかに動き、ピアノの音が流れ出す。


 私は耳にイヤホンをつけ家を飛び出した。


 動画配信アプリを開くと、音彩ちゃんはまだ配信中だった。イヤホンから流れてくるピアノの音に背を押されるように、走るスピードはどんどん速くなる。


 昔はよく遊びに行った、今はただ前を通るだけの、音彩ちゃんの家の前に着く。立ち止まって息を整えていると、なんだかとんでもないことをしているような気がした。こんな時間にいきなり家に来て迷惑じゃないだろうか。


【じゃあ今日はこれで終わります。みなさん配信を見てくれてありがとうございました。あ、……さっきリクエストくれた方、まだ見てたなら。明日、卒業式、頑張ってくださいね】


 配信が終わった。スマートフォンに映し出された画面が真っ暗になる。それを確認して、スマートフォンをポケットに入れると、私は一度深呼吸をしてからインターフォンを押した。


 ピンポーン、と音が鳴ってしばらくした後、「あら、奏ちゃん」と驚く声が聞こえる。音彩ちゃんのお母さんの声だ。


「こんばんは、夜中にすみません。音彩ちゃんいますか」

「いるわ。ちょっと待って」


 玄関のドアが開いたのはすぐだった。そこには音彩ちゃんが立っていて、家の中から発されるあかりに包まれてどこか神々しく見えた。


「ど、どうしたの、奏ちゃん。久しぶりだね」


 突然の来訪者に目を丸くした音彩ちゃんに、私は詰め寄った。


「一緒に弾こう、音彩ちゃん」

「えっ」


 その両手を握る。先程まで画面越しに見ていた、楽しげにピアノを弾く手が、目の前にあった。手を伸ばせば触れられる距離にいた。いや、ずっとそこにいたのだ!


 音彩ちゃんは画面の向こうの存在じゃなくて、私が手を伸ばせばそこにいる距離のはずだった。クラスが離れてしまっても、少し廊下を歩いていけば会える距離にいた。家に閉じこもって、ドアが閉ざされていても、インターホンを押せば会えたはずだった。それを怠ったのは私だ。


「過去形にしないで。明日の卒業式、私と一緒にピアノを弾いてよ」


 ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見せる。この配信は終了しましたと表示された真っ黒な画面。その下のアイコンは、音彩ちゃんが一番知っているはずだった。音彩ちゃんは私からスマートフォンの画面に視線を移したあと、驚いたように目を見開く。


「えっ、えっ、なんで」

「すぐにわかったよ。私、音彩ちゃんのピアノの一番のファンだもん」


 そしてコメントを打ったのが私であることを告げると、音彩ちゃんはさらに驚いたあと、嬉しそうに笑った。


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