第六章 奈落
サキュバスが訪れた地は、人が地獄と呼ぶ場所の更に奥。奈落だ。
ロキの二人目の友人を尋ねて来たのだが、真っ暗闇の中をただひたすら歩いている。
「………どこに行けばいいのかしら。帰る方向すらわかんなくなっちゃったじゃない」
一人で来たことを後悔した。伝達するだけの任務だと思っていたから引き受けただけなのに。エデンの美しさとは対称的な奈落で、溜め息を落としまくっていると、
「こんな場所に来客とは………珍しいな」
低い男の声が辺りに響いた。
「………誰?」
不気味さを持ったその声に、サキュバスはたじろぎ警戒する。
「その青い胸当て、アスガルドの者か」
「………ええ。私はサキュバス。アスガルド・ユグドラシルの聖王ロキ様の使いの者よ!」
「ロキの………?」
途端に暗闇がうっすらと明るくなる。人影が覗き、目がギラリと緑色に光った。
「ロキの従者が、奈落へ何の用だ?」
白くウェーブのかかった髪。小さな角が二本生えた男だった。
男がロキの友人であると、サキュバスも悟りはしたが、この空間同様、危険な雰囲気を漂わせる男に、近寄る気も起きない。
「答えろ。何の用だ?」
「あ、あの………」
半ば脅されてるような言い方が、サキュバスに威圧感を与え彼女の心の余裕を奪う。
「わ、私はロキ様の使いの者で、サキュバスです。ロキ様から伝言を言づかって参りました!」
「………帰れ」
「へ?」
「あやつの口車に乗ると、ろくでもないことばかりだ。入口まで飛ばしてやるから、二度と来るな」
「お、お待ちを!そういうわけには!せめてお話だけでも聞いて下さい!」
伝言だけでも伝えねば、使命を全うしたとは言えない。伝えるべきことは、一応伝える義務がある。
「お願いします!でなければ、私がロキ様にお叱りを受けてしまいます!」
「俺の知ったことではない」
「そ、そう言わず!お願いします!!」
ひざまずき、強く懇願する。その甲斐あってか、男も雰囲気を和らげ、
「……………。」
無言ではあったが、許可した。
「あ、ありがたき幸せ!」
どうも緊張してしまい、声が震える。
サキュバスは深呼吸を二回ほどこなし、
「実は先日、人間界にてレリウーリアが復活致しました」
そう言うと、男の尖った耳がピクッと動いた。
「そうです。魔帝ヴァルゼ・アーク以下、上級悪魔達が人間の肉体を媒介に現れたのです」
「ヴァルゼ・アーク………」
「はい。そこで、ロキ様が人間界を支配するに辺り、レリウーリアを片付けて欲しいと」
「………人間界をロキが支配?また悪い虫が疼いたか」
「悪い虫………とは?」
「あやつは昔から人の物を欲しがる癖がある。その度にどれだけ迷惑を被って来たことか」
恐い顔で考え込む。いろいろと思い出しているのだろうが、そんな悠長さはない。さっさと答えを聞きたいところだ。でないと、緊張に負けそうな気がするし、こんな場所はそもそもがごめんだ。
「では、手は貸せないと?」
貸せないのなら、貸せないと言ってほしい。だが………
「いや。………いいだろう。ヴァルゼ・アークは一度は対決したいと思っていた」
「は、はぁ………?」
「魔帝………神々の中で、最も恐れられる男。千年前、自分の仲間の魂を救う為に自らも眠りに就いたと聞く。………他の神とは質が違う」
一人ぶつぶつと呟き始め、サキュバスを忘れたかのよう。しかし、伝言は伝えることが出来た。
「それに、ロキの奴に言いたいこともあるからな。アスガルドまで足を運んでやる」
男はサキュバスを無視して、先を行く。
「あ、あのぅ………!」
「………なんだ?早く奈落を出た方がいい。俺がいなくなれば、全てが闇。生涯出られなくなる」
先に言え。と、サキュバスは心の中で呟く。
「まだ、お名前をお聞きしておりません」
呟きはともかく、この薄気味悪い気配と緊張感。カインより一層上位の“何か”。好奇心から聞かずにいられなかった。
「俺か?」
「はい。ロキ様からは行き先しか聞いておりませんので、失礼とは思いましたが」
「俺は………」
エデンとは違うこの地。来る者を拒みながらも、去る者を逃がさない。そんな闇の中の主である男。サキュバスは息を呑んで待つ。
「タンタロス」
「タ………タンタロス!?」
聞き覚えはあった。
「そうだ」
「まさか………!」
「我が名はタンタロス。時空の神クロノスの息子だ」
一度は立ったが、またひざまずく。それだけの人物だからだ。
「サキュバスだったな?」
「はっ!知らなかったとは言え、ご無礼をお赦し下さい!」
気の抜けた会話をしていたことを悔いた。殺されても文句は言えない。
「構わん。飢えと渇きから救ってくれたロキの部下であるなら、粗相も可愛いものだ。それに、俺は神々から嫌われた存在。ロキの奴………どうせ喧嘩を売るなら神界にすればいいものを」
歩き出したタンタロスの背中を見る。身体が震えを止めないまま、ただじっと。
聖王ロキの三人の友人達。
エデンの使者カイン。
奈落の主タンタロス。
二人共、神界に名を轟かせる嫌われ者。言い換えれば強者。
残る一人を訪ねることに、サキュバスは恐怖心に縛られていた。