第九章 星のない夜
その両足は、アスガルドの大地を踏んでいた。
「へぇ〜。案外、絵になりそうな景色じゃない」
葵は大草原の真ん中にある高台から、アスガルド第一層を見渡している。
遠くには町と思われるものがあり、それより少し先には、天突き抜けるほどの塔が見えた。
「あれが上層へ渡る唯一の道なわけね」
すごく緩やかな生暖かい風が吹き、緊張を和らげてくれる。
単身、アスガルドの地に足を踏み入れたからには、それなりに覚悟は決めてある。
武功を上げ、レリウーリアの誰より上でいたい。その熱意が葵を突き動かす。
「よっ!」
高台から飛び降り、もう一度風を全身に受け緊張を解す。
「聖王ロキ。待ってなさい!」
そして葵が歩き出そうとした時、
「こんなところで悪魔に出会うとはな」
白いウェーブの髪をした男に声をかけられた。
「………早速お出ましなわけ?面倒くさいわね」
「人間の肉体をベースに復活したと聞いてはいたが………若い女か」
根暗そうな敵の登場に、葵は不愉快だった。お嬢様も嫌いだが、根暗はもっと嫌い。それに、どちらかと言えば男の方が悪魔っぽい。
「………あんた、アスガルドの者じゃないわね?」
「いかにも。俺は奈落の主タンタロス」
名前を聞いただけで武者震いがした。大物が釣れた。
「貴様は?」
タンタロスに返され、名を馳せる。
「私は魔王サタン。魔帝ヴァルゼ・アーク様の寵愛を受ける者よ!」
一度言ってみたかった。こんな場面でもスカッとする。
「サタン………ちょうどいい。ロキへの手土産にするか」
「フン。上等上等。なら私はあんたの首を採り、奈落をヴァルゼ・アーク様に捧げ物にするわ」
右手を下に伸ばすと、葵の手に紫の刃の細長い剣が現れる。
魔王サタンのロストソウル・マスカレイドだ。
「武器を取れば?丸腰の奴相手じゃつまんないし」
「くく………武器?そんなものは必要ない」
「何?格闘派?」
「俺は………」
タンタロスがニヤつくと、大きな雷が真上から飛来して来た。
危険を察知し、直前に避けれたからよかったものの、その威力は凄まじい。
「不意打ちなんて卑怯じゃない。こっちは剣を取る時間与えたって言うのに」
冷や汗が流れた。
ちよっとヤバい気がする。
「今のをかわせないようなら、俺の相手は務まらんからな」
「………そ。なら合格ってことね」
戦いの訓練はして来た。決して楽なものじゃなかった。
生死を懸けた訓練。殺されるんじゃないかと思うくらい殺気に満ちた訓練。
大丈夫。自分なら出来ると言い聞かせ、
「勝負!!」
奈落の主タンタロスに戦いを挑んだ。
昼間のバーベキューもあったせいで、夕飯は軽い物で済ませた。
食事関してまで厳しい由利からは苦言が出たが、たまにはコンビニ弁当も悪くないだろうと、ヴァルゼ・アークの一言に押し切られてしまった。
その夕飯も終えると、いつも通りふかふかの絨毯が敷き詰めれた大広間で、ヴァルゼ・アーク、由利と美咲と那奈、それと葵を除くレリウーリアの面々はくつろいでいた。
「ねえ、千明ちゃん」
ドラマの台本片手に紅茶を飲んでいると、はるかが声をかけて来た。
「何?どうかした?」
「うん………葵ちゃん、まだ帰って来ないの。どこ行ったか知らない?」
「さあ?遊んでんじゃない?」
「そんなわけないよ。昼間はみんなでいたし、夕方は副司令が見てるもん。それに、葵ちゃんは夜遊びなんてしないよぉ」
「そんなこと言われてもねぇ………心当たりないもの。子供じゃないんだから、心配し過ぎよ」
「そうなんだけど………」
胸騒ぎと言うのだろうか。もやもやと気分が晴れない。天真爛漫なはるかからすれば、こんな気分の時は何かあると思いたくなるのだ。
「ほっとけばいいんですわ!」
そこへ話を聞いた純が現れる。
「自分勝手を絵に描いたような唐変木!このまま帰って来ない方が清々すると言うもの!」
昼間のことをまだ根に持ってるのか、怒りは収まっていない。
「言い過ぎだよぉ」
「そうね。はるかの言う通り言い過ぎよ、純」
立場的には年下の千明にまで窘められる。それでも純は、
「言い過ぎなもんですか!闇医者の娘なんて、所詮はそれだけの家柄!クズですわ!ク・ズ!」
与党を追求する野党の如く、言ってやった感を全面に押し出した。葵相手なら喧嘩に発展するのだろうが、はるかではそうはならない。………のはずだった。
「いい加減にしてっ!!」
顔を真っ赤にして、蓄えられたエネルギーを一気に解放するように、未だに怒ったところを見たことのないはるかが怒鳴った。
傍にいた千明も唖然としたが、大広間にいた者全員も、会話を止めてしまうくらい驚いたようだ。
つけっぱなしのテレビだけが、テンションの高い芸人のツッコミを誇示していた。
「は、はるかちゃん?な、何をそんなにムキになってますの?」
「なるよ!葵ちゃんは仲間だよ!?そりゃ、昼間の葵ちゃんは、純ちゃんに対して酷いことを言ったと思う。だからって、純ちゃんまでそんなこと言わなくてもいいじゃん!」
「べ、別にわたくしは………」
「闇医者の娘だから何?クズだなんて言葉、私、大っ嫌いっ!」
他人を中傷するななど偉そうなことを言うつもりはない。ただ、仲間を悪く言うのは堪えられない。
はるかの優しさは、誰ひとり反論することなく理解される。
涙を流し、顔をくしゃくしゃにして泣くはるかも、みんな初めて見る。
「謝りなよ」
ローサが純を促す。プライドの高い純も、はるかのことは大切な友人だと思っている。さすがに胸が痛んだのか、
「も、申し訳ありませんわ。どうか許して下さいまし………」
素直に謝った。
はるかは小さく頷き、純を安堵させたが、
「でもさ、確かにはるかの言う通り、葵が夜出掛けるなんて珍しい………っていうかおかしくない?」
絵里が誰問わずに聞くと、全員が頷いた。
「いつも、あそこで本を読んでいるのです」
景子が指差す先は、葵の特等席。個人で買ったアンティークの肘掛け椅子。最高の贅沢品だと、景子は葵から自慢されていたことがある。
「何かあったのかしら?」
愛子も急に不安になった。
しかし、どこかでロキの手下に遭遇して、突発的な戦いになったとしても、この間の千明と絵里の時のように気配で直ぐにわかる。
戦う気配がしてない以上は、アスガルドから敵が来たとは考え難い。
「なんか嫌な予感がするね」
そう言ったのは翔子。
「ヴァルゼ・アーク様に言った方が………」
結衣の中にも翔子と同じ感覚がある。何があったかは知らないが、“何か”はあったのだ。
「誰か葵の部屋見て来て!」
千明が言うと、景子がとことこ走って行った。
「愛子お姉様」
「ええ。わかってる」
結衣の言いたいことはわかっている。これは非常事態なのだ。
「みんな、ヴァルゼ・アーク様のところに行きましょう!」
愛子が仕切ると、全員が主の元へ向かう。
「結衣。景子を連れて後から来て」
「はい」
愛子に言われ、景子の後を追って葵の部屋へ行く。
「葵………」
葵を案じ、愛子は窓の外を見る。窓の向こうは、星ひとつ無い不気味な夜だった。