サイコロ
サイコロ 阿保火度
同窓会に呼ばれた。小中高の同級生で集まるらしい。田舎生まれであるから、小中高は近くに一つ。とは言っても、それまでの道のりは、都会に住む今では、無限に感じるほど遠い。夕陽に赤く光ったポストから、招待状を抜き取った。その招待状は、四方に銀と金が流れており、一昨日から取れていない朝刊、その中に異様な厳かさを感じさせる。ところで、これは同級生の誰にも言ってはないことなのだが、私には高校時代以前の記憶がほとんどない。その、思い出がないから思い出せないとか、時間が経って忘れてしまったとかいうわけではなくて、ぽっかりと抜け落ちているのだ、半分以上の小中高の記憶が。しかも、その中には、修学旅行や体育祭などの行事もあり、それらに関しては抜け落ちた記憶でしかなく、人伝でしかわからない。そうであるから、たわいもない、覚えていることだけについて考えると、私はとても思慮深い、好青年だったと錯覚する。しかし、そんなはずがない。そうであるなら今頃、記者として汚いゴシップと、それに対する、群衆による個人への批判を、両手でかき集めることに、愉悦するような人間にはなるまい。いつからこんな偽正義を、振りかざすようになったのか、まったく覚えていないし、見当もつかない。自然な記憶消滅をしているのは、大学へ入学してからの面白くもなく、堕落した、それでいて心地よい、そんな日々だけである。その日々だけが大学生という、人生で最も自由な、肩書きの檻であったのだ。それを過ぎると、記者として、ひたすらの暗中模索である。あまり思い出を、語り合うことができないので、不参加も考えた。ただ、その同窓会には、政治家や医師、さらには探偵など、記者である自分としては、是非とも宜しく願いたいと思える人たちが、集まるようでった。
集合場所は、三重県志摩市から数日船に揺られた先の離島に指定されていた。日本の領土かどうかもわからない、まさに地図には載っていないような島であった。卒業アルバムから、元クラスメイトの顔と名前を確認、そして職業は覚えておいた。上質なゴシップと出会うよう祈って、船に乗る。この船には、自分と船乗り以外は、いないようだ。船は存外綺麗であり、自分一人のためだけに用意されているとは、考えずらい。漁師が二人乗っている。おそらく漁船と併用という条件で私を乗せてもらったのだろう。3日程経ち、船に酔わされ、甲板で項垂れているところに、闇に照らされた懐中電灯のように、森の中に一人そびえ立つ洋館が見えた。その洋館は、森の中にポツンとあるには違和感がすぎるほどに荘厳であった。洋館までの道のりは、周りの大木が、葉を横へと伸ばし、上部へ覆い被さっており、薄暗い。木のトンネルの出口が白く光って見える。洋館は木のトンネルを抜けたすぐにあった。トンネルを出たすぐは少し眩しかったが、慣れた頃に、船からは見えなかった、細かな装飾の施された、煉瓦造りの洋館が目に入った。中に入ると、そこには小中高十二年を、共に過ごした旧友が、八人いた。穢れた悪者たちが群がっている こんな悪たちが のうのうと世を生きているのか 田舎の僻地高校出身であるから、友達同士の輪は強いのだろう。「久しぶり、元気にしてた?」今は医師をしているという加藤優子だ。加藤とは、親が親密で、時々夕飯を共にする仲であったようだ。彼女とは何度か、家族ぐるみで食事をしたことがある。器用、天才、何とでも褒められるほど、賢かったものだ。いつも遊んでいる姿しか見ないのに、気がつくと、医学部へと進んでいるのだ。久しい友との軽い挨拶を交わした後、昼間からすでにワインとチーズを嗜んでいる弁護士の朝井茂と、探偵の権田一成のもとへ行った。「助けてくれヨォ。弁護士様がチクチク言葉で俺をいじめんだヨォ」すでに出来上がった権田が、縋り付いてきた。「チクチク言葉ではない、俺はお前を思って言ってるんだ。さっさと探偵などやめろ。犯罪者に恨まれると途端に生きづらくなる」弁護士の言葉には重みがある。下戸なのか、それほど思いが高じているのかわからないが、朝井の顔は、リンゴの如き赤であった。まず、グラスにトクトクと注がれたワインを、チーズと共に腹へ流し込む。思い出話を流暢に話せる気がしない不安を、酔いで有耶無耶にしてしまおうと思ったのだ。そしてやはり、酔いは強い。朝井と権田との思い出話も、所々覚えていないところがあったが、酔いの勢いで切り抜けることができた。酔いに加え、権田の、会話にならないことが功を奏した。しかし驚いた。高校生時代の私は、非行少年と呼ぶに値するほどの人間であったようだ。原因は、青年特有の不安定さではなく、純粋な悪意でもなく、狂った正義感であったらしい。ただただ悪が許せなかったのか。悪を許したのちの世界が、自分を受け入れてはくれないような気がしたのか。後者であるなら、今と大した違いはないように思える。悪者はあいつらだ
昨日はワインを飲みすぎた。話の後のことなど何も覚えていない。気づいたらベッドの上であった。客室にはベッドのすぐ横にテレビがあり、ニュースが流れている。政治家の汚職が発覚したらしい。ゴシップはやはり興味がそそられる。それについて批判することは、自分が正義の味方であり、不滅であると感じさせてくれる。カーテンを開け、窓を覗くと、洋館の中庭が一望でき、竹やら木の林に囲まれたビーナスの噴水が、周辺の木々に活気を与えている。屋敷外にある、無秩序に存在する森と比べると、より制限的だが、より生命の力強さが表れていた。ここはどこなのか。大広間は行けば、誰かはいるだろうと思い、部屋を出た。「おはようございます。奇遇ですね」隣の部屋から出てきた葉山真と、ちょうど鉢合わせた。心理学専攻の大学教授であったと思う。心理学とはイメージ通りで、なにか心の内が見透かされたかのような気がして、正直苦手である。「ぼくは、一昨日からここに泊まらせていただいてるんですよ。ぜひ案内させてください」葉山は言う。やはり苦手だ。私の、不案内な洋館への一種の恐怖が、返した挨拶のみで、読み取られたのだ。実際はそうでないかもしれない。しかし、それもありうると思わせる何かが、彼にはあった。彼と廊下を歩く。よく見ると壁にはまばらにに美しい花が彫られており、中庭の活気付いた木々と合わさり、自由で制限的な自然性が感じられる。「人は変わるものなのですね。旧友と話していると、その人がどのような人生を送ってきたのか。卒業から今までの生活がわかるものです」いかにも、心理学者らしいなと思い、からかってやろうと、自分はどんな人生を歩んできたか、当ててくれと頼んだ。急にこいつの困り果てる姿が見たくなったのだ。己の弱者ゆえの行動だと、口にした後に悔やむ。しかし、「こんなに簡単な、言葉の掛け合いでは分かりませんよ。もう少し、あなたの本当の心に、触れてからならまだしもね」一寸も、ぴくりとも、表情筋は動かない。彼は張り付いた笑顔で、僕の心の内を覗き込むように言った。面白くもない 余裕も悪行の前提の上では 何も生まないのだ ごみが
赤いカーペットの廊下が終わり、2階の隅にあるらしい階段を降りる。すると、昨日の昼に見た洋館のメインルームというべき広間に出た。昨日は見えなかったらしい、ダーツやビリヤードなど、これみよがしに、西洋の文化を真似している。この洋館は一体何なのか、不意に気になった。この館は、明治時代に日本人によって建てられたものらしいから、この規模からして、西欧化の一環として国に建てられたのだろうか。いや、それならばこんなところには建てまい。おそらくだが、皇族か財閥の頭の私邸であろう。他にも可能性はあるというのに、これが決定事項かのように、疑問は晴れた。葉山に礼を言うと、先に広間に着いた七人が集まっている階段前へと、葉山とともに歩を進めた。何やら洋館のツアーが始まるらしい。後一人足りないのは、神崎孝則という大手電機メーカーの役員だ。誰かが「重役出勤の癖が出たんだろ」と、ぼそっというと、クスクスと、聞くに耐えない愛想笑いが包んだ。この次は孤独を思わせる沈黙が巻き起こった。最悪の朝だ。この雰囲気を変えたのは、この洋館に関する諸々の手続きをしてくれた国会議員の野間健であった。「ほら、洋館を紹介するんだからさ、途中で神崎を拾おうよ」よく言ってくれた、皆がそう思ったことだろう。さすが議員さんだ、こういう時に率先して動いてくれる。全議員がこのような人なら、日本は優しさで溢れるのだろうな。安直ながらそう感じた。大股で四歩程の、横幅の広い階段を登り、正面にある、他のそれよりも一際目立つ扉を開ける。ここは食卓のようだ。赤いテーブルクロスの上に、さらに赤い薔薇が、花瓶の中で煌びやかに咲いている。入り口から見て、右手にあるドアの奥には、光を白く反射する、大理石のキッチンがあり、少し冷たい湿気を感じる。「ちなみにご飯は、現在三つ星コックの安田さんに作ってもらいます」安田舞は、おおらかだが、やるべきことはきっちりとやる人だったと思う。その几帳面な性格が、良い料理を作り出しているのだろうか。ふと安田を見ると、顔を赤くし、きまりが悪そうに苦笑している。食卓の扉から広間へ戻り、右手にある扉を開けると、「驚かないでくださいね。ここには、明治時代に生まれ、本来ならジーエイチキューに規制されるはずであった書物が多分に眠っているんです」彼は興奮した様子であり、皆の目が古臭い書棚へと向かう。「私はこの部屋がいちばんのお気に入りです。仕事さえなければ、常にこの書物庫へこもっていたいものです」そこまで言われると気になる。今後の記事のネタにもできるし、何とか一冊だけでも、いや、できればバックいっぱいに禁書を持ち帰りたいものだ。なにせこれは、規制がなくなるまでの、つまり、占領下の日本でしか売れない、制限時間付きのゴシップなのだから。「うーん、広いなぁ」ぼそりと野間がつぶやいた。案内ごっこに飽きたようだった。「それでは今から自由に探検しませんか?」そう言ったのは、キリストの神父をしている藍澤登だ。彼は元軍人の神父という異色の経歴を持つ。元軍人すら、自らの行いを、反省しているという事実を作り上げ、アメリカからのキリスト教布教を、手助けしているのだろう。日本古来の神道が失われてしまえば、その国は今まで二千五百年続いた日本ではなく、新生した、アメリカの傀儡国家へと成り下がる。まぁ、今彼を責め立てたとて何かが変わるわけでもあるまい。「〜 〜それでは行きましょう」何か野間が言っていたようだが、自由行動における注意点だろう。聞きそびれたが、それくらいの常識はある。私は権田、朝井と共に行動することとなった。昨日はスーツだった権田は、薄緑の袴を着ている。朝井茂は、昨日と同じくスーツを着ている。権田は、昔から何を考えているかが、わからないことがあった。例えば彼は、皆で捕まえた、白くふわふわとしている美しいうさぎを、食べないかと提案したことがある。その時は流石に戦慄が走った。結局そのうさぎは、山で檻の中、飼うことになったのだが、決心も束の間、錆ですっかり赤くなってしまった檻とともに、山の猛獣に食い散らかされたのだった。あながち彼の言っていたことは間違いではなかったのだろうが。彼の言うとおりに食べていれば、ウサギは、何の正義も果たさず、ただ[生きる]という、自己正義化の塊によって支配されたケモノに、食われずに済んだのかもしれない。しかしその場合、我々も、そのケモノに、成り下がってしまう、ということなのではないか。今考えると、なかなかに深い問題であった。そこまで考えてはいないだろうが。彼は今、探偵をしている。いいことではないか、彼にとって誰かの気持ちを汲み取ることよりも、ただ一つ存在する、事物を求めることの方が、簡単なのであろう。探偵として様々な人と会い、助手などもいるのだろうか。誰かから受け継いだものとしか思えないほどに、彼の話し方は、朧げながら覚えている記憶とは、似ても似つかない。「最近記者の仕事はどうよ」当たり障りのない会話を仕掛けてきた。「最近は仕事はあるけど、簡単すぎてつまらないね。どれもこれも、今までの政府がどれだけ悪いか、今の政府やアメリカ政府はどれほど良いものか。結局このことに辿り着く」事実であった。占領政策の一端として、メディアを用いた国民の意識改革が行われたのだ。この戦争では、新聞やラジオが、国民意識の形成に、大きく寄与していた。というのも、これらのメディア人々に情報を与えただけであり、後は、集団となった国民が、少数派を弾圧、結果として国民意識が統一されたのだろう。「俺は、こんなにぼろぼろの国民が、こんなにもルールを守ることが、不思議でならんな。敗戦後は、秩序など消え、犯罪で溢れるように思えるが」朝井が白々しく、答えを知らないふりをして言う。「どうしてだろうか」この返答は、模範解答であろう。「それは、日本人が、天皇を神格化しすぎていたことにあると思う。考えてみてくれ、もしただ、アメリカ人が抵抗を止めるよう言っても、やめていたか?これは、天皇陛下の詔とあらば、それが善で、それに従うべきである。こういう考えを持つ人が、大きな声をあげれば、群衆はそれに従い、大きな一秩序となるのだ」「群衆とは簡単に動かされてしまうものなのだな。そのおかげで終戦後の混乱は幾分減ったが、日本人の愚かさは強調されてしまったのだな」権田は酒が入っていないと、こんなにも理知的なのか。しかし、それが表すのは、日本人の愚かさではなく、人の愚かさであると私は思う。口に出そうかと思ったが、途中から見えていた扉が、もう目の前だ。それに そういうお前こそ愚かで不誠実ではないか 証拠を作り出す弁護士よ 扉を開ける。そこには、日記帳と思しきものが、古く今にも崩れそうな棚に、ずらーっと並んでいる。後そこにあるのは、ボロボロの椅子と机、そしてその上にある万年筆のみである。壁だけは、新しく張り替えているようで、眩しいほどの白だ。異様だ。「不気味だなぁ」権田が呟く。「この日記帳、おそらくこの館ができてから毎日書かれている」朝井が推理する。「この最も古いものから、昨日のことまで、きちんと空白なしに、誰かの心情が箇条書きで残されている。権田、そうだろう」「まぁ、そうじゃない?どうでもいいけど、早く出ようよ。作者に、勝手に読んだことがバレたらどうなるか。日記を見る限り、少し感情が不安定らしいし」いかにも興味なさげで、早く次の部屋に行きたいといった思いが、顔から溢れ出している。まあ、その部屋にあるものといったら、本当にそれぐらいしかなかったから、あまり長くいる必要もない。それにもう朝食の時間だ。私たちは、一度広間へと戻ることにした。広間に着くと、そこには、合流したらしい神崎も含めた他のメンバーが揃っていた。「遅れてごめんねぇ」神崎が駆け寄ってくる。「最近寝れてないのか?えらく遅いじゃないか」朝井がきつい口調で放つ。彼の真面目さは、こういうことに関しては、最も厳しい面を見せるのだ。ここは、私と権田が宥めて場を保ったが、ここにいる皆が、浅井の真面目さと、神崎のずぼらさは、相容れないものなのだなと、実感することとなった。朝食を食べるために、食卓へと向かうと、そこにはすでに、美としか言いようがない料理が並んでいた。白い皿の中心に乗った魚が、存在感を放っており、その上で光り輝いているオリーブオイルのソースが、さらに魚の神々しさを、増長している。美とはかけ離れた悪人が よく作れたものだ 全員座ったところで、各々「いただきます」という声と共に食事を堪能する。「うわぁ、すげえうまそうやん」権田はやはり、こういうものの美しさより、味のみを優先しているようだ。他のものは皆、これ以上ないほどの美に、見惚れている。いや、おそらく神崎に関しては、食における美には興味がないが、遅れてきた自分が、皆より先に手をつけることに、後ろめたさを感じるのだろう。料理は、とても美味しかった。味も見た目も美しく、私たちは、美を食んでいたのだ。私は、この美しさを、目と舌に焼き付けた後、手を合わせた。広間を経由して、葉山、加藤、そして野間と共に、昼まで読書を楽しむことにした。というより、読書好きの四人が、自然と書庫の前で合流したのだ。書庫の紹介を見てから、ずっとここへ来たかった。葉山は何冊か腕に抱え、出ていく。中庭で読むらしい。それはいい。自然の下で本を読むと、青々とした緑が、本の中の物語、そこにある情景かのように思える。そして一つの想像の具体化から、物語そのものを脳に映し出してくれる。一つ一つの文字が、脳に白黒の写真と、そのはっきりとした濃淡を、写すものであるとすると、自然は、それに鮮やかな色付けを施してくれるものなのだ。中庭の緑に身を委ねる。「戦争においては、このような素晴らしい本も、意識統一のために規制されました。秦における焚書、カトリックの禁書目録、これらは、対象の心の向きを、当時の正義へと、固定させることができましたが、それは未来への小枝を、悪も善も見境なく、へし折ったとも言える。そう思います」話は急に始まり、少し戸惑ったが、かくも透き通った、美しい声で言われると、彼の言葉が、淀みなく頭にすぅっと、浸透してくるような気になり、言葉を返す。「そうだ、そして、自由主義国家にとって、僕たちのようなメディアは、必要不可欠なのです。どこに隠しても、隙間さえあれば見つけ出しますから」この言い方では、まるで昆虫のようではないかと、言葉選びに後悔しながら、彼の顔を伺う。笑顔だ。「頼もしい限りです」彼は笑顔のまま、手にある本の世界へと、帰っていく。よく言うわ メディアの餌のくせに お前は虫に他の餌をやっているだけだ すぐお前の番がくる 読み耽っているうちに、もう昼であった。夜はバーベキューらしいから、あまり腹をふくれさせたくはないと思い、葉山に一つ会釈をし、バーへと歩を進める。案の定そこには、権田と朝井、そして神崎が座っており、利きワインをしている。いつもの呑んだくれ二人と、もう一人の呑んだくれが、皆顔を赤くして、笑い合っているのだ。権田が気づくと、「お前も飲め飲めぇ、まだまだ顔が青いやろぉ」朝井は冷静なようで、「無理やり呑ますんじゃない。阿呆かお前は」と正す。酔っているのか少し口は悪い。神崎は飲むと無言になるタイプらしい。口数が広間で見た時よりも、格段に減っている。ここから基本的には、権田が話し、僕と神崎が同意、朝井は否定的な意見から入る。結局、話すうちに、元の話の内容からだんだんずれていく。この構造が、昼から3時間ほど維持されていた。その頃には、私もだいぶ酔ってきており、話をふっかけることも多くなっていった。トイレに二、三十分ほどこもり、込み上げてくる、酒と胃液に混じり、無惨な姿となった、今朝の美を吐き出し続けた。バーに戻ると、私がトイレへ行った直後に部屋で休むと、席を立ったらしい。そこから私は、また、飲みはじめた。今はもう夕食の席についている。あるところからの記憶がない。よく酔ったまま、昼食を食べられたものだ。権田、朝井は顔を赤くして座っている。多少酔いは覚めてきたようだが、まだ呂律が回っていない。それにしても、神崎がいない。そらそうだ 「神崎が居らんな。また部屋で爆睡してるのか」朝井が、皆の話題の方向を定める。「まぁ、じつは彼が一番呑んでたもんな」権田が回らない呂律で放つ。結局、神崎以外で夕食を終えた。自由行動となったわけだが、夕食を食べた全員で、遊戯場という別荘へと行くことにした。その別荘は、見事に木々と同化しており、行き道では気が付かなかった。それにどうも、真っ白な壁と、微塵も腐っていない木目の床を見ると、この別荘は、建てられてから、そんなに時が経っていないように思える。そこには、ビリヤードやダーツをはじめ、楕円形の机の上に置かれたトランプ、ここにいれば、時間など忘れて、元の世界など忘れて、大学生のように遊べる、そんな気がした。しかし、今私は大人であり、体裁というルールで自らを制限している。そして、周りからの評価を、己のなりたいようにしている。法律とはまた違う、なりたい自分になるための利己的な規則を皆、自らに課しているのだ。私と加藤、そして野間は、神崎を探しに行くことにした。広間を抜け、神崎の部屋へと向かう。扉を叩くが反応がない。それどころか、鍵が掛かっていないではないか。不審に思いつつ、部屋に入ると、神崎稔が、死んでいた。というより、飾られていた。十字に張り付けられ、口だけが切り取られて存在したそれは、死体の凄惨さや、血の滴る十字の赤よりも、恐ろしいものを私に与えた。笑っているのだ。目だけで分かる、最高の笑みのまま、それはこちらを見ている。濁った目だ。誰がどのような目的で行ったのか、もはやどうでも良かった。ファンになったのだ。死体の作り出す美とは、かくも美しい。込められた意味など、どうでも良い。目の濁った死体、そのものが神聖で、そのものだけで、全ての美を体現していた。死とはかくも美しい。感謝しろ これは救いだ 悪行により彼は美となった
全員が広場に集められ、権田による事情聴取が始まった。広場の明かりは薄暗く、私たちの不安を増長させてくる。皆の顔色は、殺人者がここにいるという恐怖と、疑心暗鬼に染まりきっている。権田によると、どうやら彼は、今日の昼から夕方にかけて、殺されていたらしい。ということはあの時飲んだ後だ。ここで朝井と権田が、同時にこちらを見た。「そういえば、勇太、お前はあの時長い間トイレにこもっていたが、本当にトイレから出ていないのか?」朝井がこういうと、疑いの目が集まる。「確かに昼から夕方だと、僕たちの誰も単独行動はしていませんね」藍澤が付け加えるとさらに状況は悪くなる。そして野間の決め手がきた。「すみませんが、次の迎えの船まで後一週間ほど、それまでは、古い時代に、穢れた盗人などを隔離していた牢に入ってもらいます」そんな恐ろしい場所があったのか。もちろん説明した。私は犯人ではないと、しかし、こう決定づけられると、自分がどれだけ反論しても、犯人が、苦し紛れの足掻きをしてるだけだとしか、認識されていないだろう。しかし、彼らの恐怖の心が生んだにしては、やけに都合が良すぎないか。もし、彼らの中の一人が誘導しているのなら、まだなんとかなる。もしも彼ら自身が私を陥れようとしているなら、もう反論は、彼らの愉悦を増やすものに他ならない。何を言っても、常に疑いの目はこちらにある。人の悪意、または恐怖には、論理を武器に、勝つことはできない。そのことは、私も記者として長く利用してきた。人は恐怖によって操られ、しばしば大きな悪意によって論理を破壊することを、歴史が、今の社会が、証明している。私は従うことにする。この悪意、または恐怖に。それに、私がやっていないことなど、本島から警察が来ると、すぐに分かることだろう。しかしながら、思い出せば出すほど、あの芸術は素晴らしかった。大雑把のようで、ひどく繊細に作り上げられた作品だ。また起こらないだろうか。牢屋に凍える私を救ってくれたまえ、真のヴィーナスよ。救ってやらねば あと七人も
2日経った。牢屋はやはり肌寒く、骨の髄まで孤独だ。明かりは蝋燭のみで、蝋燭は三本予備があり、極力関わりを避ける方針がうかがえる。唯一、孤独が和らぐときは、旧友が飯と、本を何冊か持ってくるときだけである。しかし最初に来た野間を見て、わかった。彼は、ズタズタにされた論理で、牢に入れられた私を、哀れむような、怯えるような目で見た。そこで気づいたのだ。その場の恐怖で、運悪く犯人になってしまったのではなく、悪意を持って犯人に仕立て上げられたのだ。もしあの場の恐怖というものに支配されていたのなら、証拠が少ないことに疑問を持ち、私を見る目に、疑念が付け加えられるはずである。おそらくあの恐怖の目は、罪悪感から生まれたものであるう。何人が関与しているかはわからない。もしかすると、野間の単独犯かもしれない、しかし、権田の、無理矢理な状況証拠の作成、それに呼応するように作り上げられる、葉山真が犯人であるという雰囲気、そのすべてが、企みのように感じる。しかし、雰囲気作りについては、ただ彼らがアヒルの子のように、ただ盲目に、探偵という肩書を持つ権田に、従った結果として、生まれたものではないかとも考えられる。このような絶望の中でも、心の中では、昨日見た、美しく飾られ、皆の感情をいっときだけでも、憧れへと向けたであろう人、芸術そのものが、脳に張り付いている。どれだけ美しく書かれた本、どれだけ美しくなされた演奏、そんなものの比ではない。人の根源であるもの、生の先にある死、この芸術こそが真の美であり、真の義であり、全てを伝える究極の言葉である。誰かが階段を降りる音がする。朝井の怒りと哀れみの混じった顔が見える。「本はここに置いておくぞ」それだけ言うと階段を上って行ってしまった。昨日は、権田にこう聞かれた。「なぜこんなことをしたんですか。あなたは何者なんですか。高校のときとは、あまりに人が違う。面影がない」「まず、私はこのような行為はしていない。そしてすまないが、高校以前のことは、あまり覚えていないんだ」私の母は、私が高校三年生の頃に、自ら命を絶ってしまったと聞いた。そのショックで記憶が抜け落ちたのであろうかと、時間有り余る牢で、考えていた。彼は私の言葉を聞いて、無言で去っていった。蝋燭の火が、もうすぐで消えそうだ。あらかじめ用意されていた、予備の蝋燭に火をつける。予備ももう尽きそうじゃないか、またもらわねば。
何やら外で騒ぎが起きている。今日はおそらく私が年に入れられ、6日目であろう。野間が牢の鍵を手早く開け、言う。「君は犯人じゃなかった。加藤さんが、、加藤さんが死んだんだ」何も考えられなかった。それは悲しみというより、彼女が死によって、どのように昇華されたのか、楽しみで仕方なく、上の空であったのだ。広間へあがると、そこには無惨にも切り刻まれた、彼女の姿があった。だが、これはただの死でしかなかった。死という美しいものに、駄作というレッテルを貼るのは嫌だが、これは間違いなく、同一犯ではない。私の他にも、感銘し、心を奪われた人間がいたのだ。あの感動は、間違ってはいなかった。しかし、模倣犯とは思い切ったものだ、どうしてもオリジナルを作った天才に、自らの作品を見て欲しかったのだろう。一人は救われなかった 悪による悪行で汚されたのだ 私もいずれは模倣を、いや、こう考えるのはよそう。私は今の今まで、犯人ではないかと、疑われていたのだ。私にはまだ、自分の人生のほうが大事に思え、死の魅力を感じながらもまだ、それに飲み込まれてはいない。泣いている奴もいる そいつらも悪だろう 救わねばならぬ
皆、心を落ち着かせるために、各々の部屋に戻った。部屋は、最初のすっきりした印象から打って変わって、少し寂しげに見える。私の記憶では、数十回ほどしか話していない加藤が死んだ時、感動よりも先に、なぜだか心が締め付けられた。 これはなんだろうか、神崎孝則の時はなんともなかったのだ。私は理解する。私は、死した友を、一度きりのキャンバスを、不完全な作品にされたことに怒りを覚えたのだ。気づかずうちに。そうに違いない。この館は、中庭が中心となり、部屋がそれを囲っている。今では、それはまるで、窓の外の巨木、その根に縛られているかのような閉塞感を、感じさせるものでしかない。眠たくなってきた、明日から私たちは、どうなるのだろう。あぁ、どうなるのか。
目が覚めたとき、見覚えのある、斬新な美が視界を覆った。次のキャンバスは藍沢か。藍澤の腸が、鎖のように、彼の四肢に絡みついている。笑顔を隠して、皆を呼ぶ。皆絶句していた。「やはり勇太、君には牢に入ってもらう」権田が言うと、「船が出るまでは出さんぞ、お前の部屋の鍵を持っていたのは、お前だけなんだ。お前が犯人と考えざるを得ない」朝井が畳み掛ける。反論したが、一度目の殺人の時と同じであった。ふざけるな まだ二人しか 皆の恐怖が、犯人を閉じ込めたいという願望を生み、私はそれの贄となるのだ。あと五人は 彼らは 穢れたままなのか
船が着き、乗ることとなった。私は、船にある個室に閉じ込められた。鍵は、内側から開けられぬようになっており、窓から見える無限に広がる青とのギャップが、私の首を絞める。外では、彼らの、私と、もう一人犯人がいるという認識のもと、皆疑心暗鬼で口論が絶えない。彼らから隔絶された、この耳にも入るほどだ。閉塞感に、時間感覚が狂いかけていた頃、昼食を運びに来た野間が話しかけてきた。「今、みんなは互いを信用できずにいます。あなたはなぜ殺すのですか?私たちは確かに悪行を働いた。しかし、命で償わねばならないほどでしょうか?」私は、彼からは見えない首を、横に振る。私じゃない。講釈を垂れるな面倒くさい 醜い悪に美しく 感動的な最期を提供してやっているのだぞ 感謝して欲しいぐらいだ 「やはりあなたとは分かり合えない」声に出ていたか 野間は部屋を出ていった。三日揺られねばならないのか。憂鬱だ。早く出ねば 船が着いたらおしまいだ
何時間たったのだ。時間感覚が掴めない。あっという間に時は過ぎた 扉の鍵が開く これは 葉山真か なぜかは知らんがよくやった 作り変えてやる 「あなたの作る美は素晴らしい。模倣犯は私です。一緒に最後の作品を作りましょう。死体によるアートを。私たちの芸術を」馬鹿にしているのか 悪人が 救いすら理解できん悪党が ナイフを受け取ると同時に奴を刺す 二度と語るな お前如きが 甲板へ出ると 残りの四人がいた
ここはどこだ。病院のようだが、船に乗って、どうしたのだ私は。それに、昔ここへ滞在した記憶がある。しかし曖昧だ。「ここはどこですか」看護師らしき人に聞く。「西ヶ丘精神病院ですよ。先生、副人格です。副人格が出ました。先生」先生らしき人が近づいて来る。「君は気づいてるのかな。君の中のもう一人の君に」状況についてわけがわからないが、一つわかったことがある。そうか、そうだったのか私は二重人格だ。とするとまさか、本当に自分が殺したのか?旧友を?理解するまでの脳の静寂が、ニュースの放つ音を際立たせる。「五月八日の午後7時、沖に一隻の船が辿り着きました。その中にいたのは船乗りの男性一人、三十五歳の男一人と、腹部から頭部にかけて数十回刃物で刺され、死亡していた男性。そしておそらく四人の男性であったであろう美です 彼は悪を救ってくれたのです 美をもって 穢れた悪の部分を塗りつぶしたのです 感謝しなさい」男達が 女性アナウンサーを取り押さえたと思うと すぐさま放送は中止された 彼女もまた あらゆる悪行に悩まされてきたのだろう 新たな美に幸あれ