サウナーと食卓
第6話 サウナーと食卓
家の中の熱が落ち着いた頃、イルはまだ少し警戒するように、そろそろと部屋へ戻ってきた。
『ごめん。本当にごめん。新しい魔法を覚えたから、つい試したくなって……』
「今のなんですか!」
イルは頬を膨らませて、俺に詰め寄ってきた。
「息ができなくなるかと思いました!」
『返す言葉もありません』
完全に俺が悪い。
サウナ室に慣れていない人間を、いきなり九十二度の空間に放り込むようなものだ。
いや、実際ほぼそれをやった。
反省しかない。
イルはまだ怒っている様子だったが、ストーブの方をちらりと見た。
そこには、赤く静かに光るサウナストーンがある。
家の中は、さっきまでとは比べものにならないほど暖かかった。
「でも……すごいです」
イルの声が少しだけ柔らかくなる。
「今はちょうどいいです。レンさんがいれば、薪をたくさん使わなくてもいいかもしれません」
『うまく調整できれば、だけどね』
俺はそう言いながら、ふと奥の部屋へ目を向けた。
そうだ。
イルの母親と姉がいる。
『お母さんとお姉ちゃん、大丈夫か!?』
イルの顔色が変わる。
俺たちは慌てて、二人が眠る部屋へ向かった。
粗末な寝床に横たわる二人は、相変わらず静かに寝息を立てている。
だが。
『……あれ?』
俺は思わず近づいた。
腰のあたりまで覆っていた氷が、ほんの少しだけ引いている。
さっきまで布団に白く降りていた霜も、わずかに溶けていた。
イルもそれに気づいたのか、母親の足元を見つめて息を呑んだ。
「レンさん……これ……」
『少し、溶けてる?』
二人は顔を見合わせた。
完全に治ったわけではない。
それどころか、よく見ると溶けた部分の端から、また薄い氷がじわじわと広がり始めている。
一時的に熱で押し返しただけ。
そんな感じだった。
『このサウナの熱のおかげなのか……?』
俺が呟くと、イルは目を輝かせた。
「きっとそうですよ! もしかしたら、症状が止まっているのかもしれません!」
その言葉には、隠しきれない希望があった。
でも、俺はすぐには頷けなかった。
確かに、さっきの熱で氷は少し溶けた。
だが、あの温度は危険すぎる。
水分も取れない。
逃げることもできない。
意識もない。
そんな二人を高温の中に置き続ければ、凍る前に別の理由で命を落とすかもしれない。
脱水。
熱中症。
呼吸の苦しさ。
前世の知識が、頭の中で警告を鳴らす。
サウナは気持ちいいものだ。
でも、使い方を間違えれば危ない。
『ただ温めればいいってわけじゃなさそうだな……』
「え?」
『いや、こっちの話』
俺は二人の様子を見ながら考える。
熱は効いている。
でも熱だけでは駄目だ。
何か、別の方法が必要だ。
氷を溶かすだけではなく、この体の中に入り込んでいる何かを外に出すような方法。
もしこれが病気ではなく、呪いだとしたら。
『サウナで呪いを出す……?』
自分で考えて、少し馬鹿らしくなった。
でも、この世界では真っ赤なサウナストーンが魔物を倒している。
何が起きても、もう驚かない。
その時だった。
ぐぅー。
部屋の中に、情けない音が響いた。
『……あっ』
俺の腹だった。
イルがきょとんとしたあと、くすくすと笑う。
「ご飯にしましょう」
『すみません』
そういえば、異世界に来てからまともに何も食べていない。
水は飲んだ。
魔物とも戦った。
山道も歩いた。
空腹で倒れていないのが不思議なくらいだった。
「支度するので、レンさんは休んでいてくださいね」
『いや、何か手伝うよ』
そう言いかけて、俺は固まった。
前世の俺は、外食とコンビニ飯が主食だった。
家で料理をした記憶など、ほとんどない。
米を炊くくらいならできる。
たぶん。
いや、異世界のかまどで米を炊けと言われたら、それも怪しい。
非常に申し訳ないが、ここはイルに任せるしかなかった。
『……ありがとう。少し、村の周りを見てくるよ』
「遠くへ行かないでくださいね。夜は危ないので」
『わかった』
俺はそう答え、家の外へ出た。
外の空気は冷たかった。
だが、やはり俺の体はそこまで寒さを感じていない。
サウナーのスキルの影響なのか。
それとも、ヘファイストスの加護なのか。
今はまだわからない。
村の入口まで歩き、粗末な門の近くで立ち止まる。
振り返ると、ゴーウ村は静まり返っていた。
雪に埋もれた家々。
細く上がる煙。
閉ざされた窓。
人の気配はあるのに、声がない。
まるで村全体が、息を潜めているようだった。
視線を遠くへ向ける。
そこには、さっき抜けてきた森があった。
村は雪に覆われているのに、その森だけは不自然なほど緑色を帯びている。
木々は生き生きとしていて、草も枯れていない。
あまりにも異様だった。
『なんで、あの森だけ凍ってないんだ……?』
俺は小さく呟く。
村の周りには、白い幹の木もいくつか生えていた。
前世で見た白樺に似ている。
いや、白樺そのものなのかもしれない。
この世界では名前が違うのだろうが、白い幹と細い枝、揺れる葉の形がよく似ていた。
『白樺か……サウナっぽいな』
思わずそんなことを考える。
サウナと白樺。
前世の記憶のどこかで、それが結びついている気がした。
だが、今はまだはっきり思い出せない。
村の雪景色。
緑の森。
白樺に似た木。
この三つが並んでいる光景は、まさに異世界だった。
いや、異世界というより、何かの境界だ。
凍った世界と、凍っていない世界。
その境目に、ゴーウ村は取り残されている。
『朝になったら、イルに誰か紹介してもらおう。村長とか、薬師とか……情報が必要だな』
そう考えながら、俺はイルの家へ戻った。
家の中に入ると、さっきより暖かい空気が体を包んだ。
ストーブのサウナストーンは、まだ赤く静かに光っている。
そしてテーブルの上には、質素だが美味しそうな食事が並んでいた。
イルが少し自慢げにこちらを見ている。
「できました」
『すごいな。イルが作ったんだよね? 美味しそうだ』
そう言うと、イルは照れたように笑った。
「お母さんが教えてくれたんです」
その言葉に、少しだけ胸が痛む。
イルはきっと、母親が元気だった頃に教わったことを、今も一つずつ守っているのだ。
テーブルに並んでいたのは、黒っぽく硬そうなパン。
それから、干し肉、豆、乾燥した赤い野菜が入ったスープ。
前世で見たドイツパンやドライトマトに少し似ている。
空腹のせいかもしれない。
だが、今の俺には、とても美味しそうに見えた。
二人で食卓を囲む。
イルが木の器にスープをよそい、俺の前に置いてくれた。
『いただきます』
「いただきます?」
『俺の世界の食べる前の挨拶』
「へえ……いただきます」
イルは真似するように、小さくそう言った。
スープをひと口飲む。
塩気が強い。
干し肉のうまみと豆の素朴な甘さ。
乾燥した野菜の酸味。
派手な味ではない。
でも、体に染みる。
『うまい……』
思わず声が漏れた。
イルの顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
『本当。すごく美味しい』
「よかった」
イルは嬉しそうにスープを飲もうとして、ふと手を止めた。
「あれ?」
『どうした?』
「スープが、冷たくなってない」
『そんなに早くは冷めないよ』
俺がそう言うと、イルは首を横に振った。
「違うんです。いつもは、どんなに温めても、テーブルに置くとすぐに冷たくなるんです。氷みたいに」
『氷みたいに……』
俺はスープの器を見る。
湯気が立っている。
普通の食卓なら当たり前の光景だ。
だが、この村では違う。
温めた食べ物さえ、すぐに冷えてしまう。
それは単なる寒さのせいなのか。
それとも、この村全体にかかっている何かのせいなのか。
今、サウナストーンの熱が家を包んでいる。
その範囲の中では、スープが冷えない。
つまり。
『この熱、食べ物にも効いてるのか……』
「レンさんの魔法、すごいです」
イルは嬉しそうにスープを飲んだ。
その姿を見て、俺は少しだけ安心した。
病気を治したわけではない。
村を救ったわけでもない。
でも、温かい食事を温かいまま食べられる。
それだけで、イルはこんなに喜んでいる。
俺はパンをちぎり、スープに浸した。
硬いパンが少し柔らかくなる。
それを口に入れる。
やはり塩気は強い。
けれど、疲れた体にはちょうどよかった。
『美味しいな、本当に』
「明日も作ります」
『ありがとう。でも、俺も何かできることを探すよ』
「レンさんは魔法使い様なので、もうたくさん助けてくれています」
『魔法使い様じゃなくて、サウナーなんだけどな』
「さうなー?」
イルが首を傾げる。
『うん。俺の世界では、熱い部屋に入って汗をかいて、体を整える人のこと……いや、そういう施設が好きな人のことかな』
説明しながら、自分でもよくわからなくなる。
イルは真剣に聞いていたが、やはり理解しきれないようだった。
「レンさんの世界は、不思議ですね」
『俺からすると、この世界の方が不思議だけどね』
そう言うと、イルは少し笑った。
その笑顔は、今日見た中で一番自然だった。
外では雪が降っている。
村は静まり返っている。
奥の部屋では、母親と姉が今も眠っている。
何も解決していない。
けれど、この小さな家の中だけは、ほんの少し暖かかった。
テーブルには湯気の立つスープがあり、イルはそれを両手で包むように持っている。
俺はその光景を見ながら、静かに思った。
サウナの熱は、魔物を倒すためだけにあるわけじゃない。
人を温めることができる。
家を温めることができる。
食卓を守ることができる。
それは、俺がこの世界で初めて見つけた、サウナーという力の使い道だった。
そしてその夜。
イルの家には、久しぶりに温かいスープの湯気が立ち上っていた。




