1.目が覚めた
唯一確かなのは、今自分がベッドの上で吐いてしまっていることだけだった。喉から口へかけて胃酸が流れ出し、舌の付け根が外れてしまいそうな嘔吐である。
吐いて苦しむ私を見かねてか、そばにいる誰かの片腕が、私の背中をさすりだした。そしてもう片方の腕は、私の両腿に乗ったステンレス製のたらいに寄り添い、その支えに回っている。果たして隣で私の介抱をするのは誰なのか。私は吐きながらも、視線をたらいの中から相手の腕、上体、そして顔にまで這わせると、その異様なまでに黒々とした彼女の目によって、またたらいの中へと叩き落され、より一層強い吐き気を催すこととなった。あまりにも連続する吐き気のせいで、ちぎれてしまいそうになる正気をなんとか保ちつつ、さっき目撃した彼女のことを思い返す。彼女の目は、それだけで彼女自身を嫌ってしまいそうなほど黒い。そしてその視線がたらいの中へ一点に注がれていたのはなぜか?
よだれの糸になるまでたらいの底と向かい合った。一体どれだけの時間が経ったかは分からない。だがとにかく吐き気は去り、今や一種の清々しささえあるのだ。それは私の表情や振る舞いにも表れていたらしい。彼女は、役目を終えたたらいを取り上げると、そのまま部屋の隅にある仮設トイレへと入っていった。ゴトゴトという、プラスチックの床や壁にぶつかる音が数度、中から聞こえてくる。少しして仮設トイレの扉が開くと、今度はすぐ横の流しへ移動し、中身の空になったたらいを水で洗い始めた。まるで仕事である。私はそんな彼女の後姿を、ただベッドから観察しているだけであった。
彼女は今時珍しい、看護婦の白いワンピースを着ていた。しかしその反面、あの特徴的な帽子は被っていない。また上には紺のダウンを羽織り、スカートから伸びる脚には厚めのストッキングを履き、寒さを防ぐ冬の恰好でもあった。言われてみれば、この部屋に暖房らしきものは見当たらないので厚着は必須、自分が今使っている寝具をめくってみても、毛布と掛け布団が二枚ずつと少々大げさなくらいだ。そうか今は冬なのか。窓や扉を閉め切ってしばらく経つのか、この部屋には暖気が溜まっていて、布団からはみ出てしまっていても顔や手があまり冷えない。おかげでまったく気が付かなかったな……右手側すぐにかかったカーテンをよけると、窓からはこの辺り一帯の雪景色が望めた。日が高く昇っている時間帯で、真っ白な雪の反射光がまぶしい。何軒も立ち並んだ家屋はほとんど骨組みだけになって残り、道路はかろうじてラインが浮き出て見えるだけで除雪作業がまったく行われていない。工場と思われる大きい箱状の建物もあり、雪で埋め尽くされた屋根には深く暗い穴が沈んでいる。そのとき銃弾の放たれる音が三発、耳にひっそりと滑り込んできた。
脅迫的に部屋へ帰りたくなる。カーテンを閉じ、窓から顔を背けると、ベッドの横には看護婦が、初めからそこに置かれていたとみえるパイプ椅子に腰をかけていた。彼女の足元には、すっかりきれいに洗われたたらいが、揺れもせず、静かにベッドの側面部分にもたれかかっている。