夕暮れと愛情の花
青く輝く海原と、遠い宇宙に独りぼっちの太陽を背に、今日も僕はこの坂を下る。
「ふぅー!きもちぃー!」
学校帰りにほとんど人の通らないこの坂を下ることが最近の日課になりつつある。僕は大きく体を広げて自転車のペダルから足を離す。
シャーーという心地良い音と、前方から僕の体を押してくる風を感じることのできるこの瞬間が、唯一僕に”非日常”を与えてくれる。
坂を下り終え、10分程自転車を走らせると、目的地はすぐそこだ。
「疲れたけど、この疲労さえも心地よく感じてくるようになってきたな。」
自転車を停めて、僕はこの街で1番大きなスーパーマーケットへの入口へと歩みを進める。まぁ、一般的なスーパーマーケットよりも大分小さいのだけれど。
コーラを1本買って外に出ると、いつもよりも騒がしい様に感じた。嫌な予感がする。
「ちょっとだけ見に行ってみるか。」
大通りの方向のようだ。”非日常”を好み、求める僕にとってこの好機を逃す訳には行かない。大通りの前に自転車を停めて、通りの奥へ向かって歩いていくと、数人の人影が見えてきた。さらに近づいていくと、1人の女の子を数人の男性が囲っている。今までナンパに遭遇した事はなかったから、少しだけワクワクしてしまう。
「だーかーらー!ちょっとだけだって!な!」
「や、辞めてください…。」
「あああ?断んのか?俺らは女でも容赦しねぇぞ?」
というかよく見てれば、あの女の子俺の学校の制服を着ているではないか。見覚えはないけれど、同じ学校の生徒なら助けるべきだろう。
「あのー…。」
あれ。割と勢いよく割って入ったつもりだったが、情けない声が出てしまった。
「あ?なんだお前?」
「その子、困ってるじゃないですか。やめてあげたほうがいいかと…。」
「お前死にてぇのか?お前ら、先にこのガキぶっ殺すぞ。」
ま、まずい。この男たちを怒らせてしまっては、俺が死んだ後で女の子に手を出される可能性がある。考えろ。2人とも助かる方法を──────。
ふと右手に視線を落とすと、さっき買ったコーラが握られていた。
「なんとか言ったらどうだこのクソガキィ!」
人間というのは危機的状況において自身の能力を最大限引き出すことのできる生き物なのかもしれない。殴られると感じた時には、男の顔に向かってコーラをぶん投げていた。
「痛っ!」
「君、付いてきて。」
「え、あ、はい…。」
女の子の手を引いて、通りの入口へ全速力で走った。途中で振り返ってみたが、どうやら追っては来ていないらしい。大通りから出てそのまま少し歩いた所で、女の子に少しだけ質問をする事にした。
「君、名前は?それと高校同じだよね?何年生?」
「ええと、名前は芹沢瑠花っていいます。あと、昨日ここに引っ越してきて、制服のデザインが好きだったのでそれを来て買い物に来ていただけなんです…。一応明日から3年生として生活する予定ですけど。」
「3年なら俺と同じだね。」
「ほんとですか!あの、名前聞いておいてもいいですか?転校初日でも知っている方がいらっしゃると少しは安心出来るので。」
「鈴木慎夜。3年1組だよ。」
「しんやさん。覚えておきます。先程は助けていただき、ありがとうございました。」
そういうと、瑠花はお辞儀をして歩いていった。
「瑠花さん!」
「はい?」
「困ったことがあったら、聞いて。」
「ありがとうございます。」
目が悪かったから彼女の表情はよく見えなかったが、笑っていてくれた様に見えた。いや、そうであって欲しかった。
「可愛かった、な…。」
1人、余韻に浸りながら帰宅する僕の姿は、多分情けなかったと思う。そして、この時の俺は知らなかったのだ。
この出会いが、沢山の笑顔と、1つの悲劇をもたらすことを──────。
翌日、俺は教室で昨日の出来事について隣の席の親友と話していた。
「なるほど。お前、恋してしまったのか?」
「ばっ!そんなんじゃねぇよ!そもそも1回あったくらいでそんな…。」
この男の名前は石田咲。幼稚園からずっと一緒の俺の親友だ。
「そういえば、確か今日この学校に転入してくるはず。」
「お前の話によれば3年生だったな。」
「うむ。同じクラスかはわかんねぇけどな。」
というのには訳がある。言ってしまえばこの街は田舎だ。しかし、どういう訳かこの学校の生徒数は決して少なくない。俺たちの所属する3年生は1から6組までの約200人で構成されている。つまり、彼女がこのクラスに転入してくる確率は6分の1程度。いや、別に低くもないか。
「来てくれるといいな。女の子もそう思ってるだろうよ。」
「だからそんなんじゃねぇって!」
「違う違う。彼女と面識あるのはお前だけだろ?自意識過剰がすぎるぜまったく。」
今すぐこの男を東京湾に沈めてやりたいところだ。
俺が咲に飛びかかろうと構えたと同時に、俺のクラスの担任が入ってきた。まるでそれは号令の様に、教室中に広がっていた生徒たちは自身の席につき始める。今気づいたが、もうホームルームの時間だ。
「えぇーと突然だが、転入生を紹介する。」
担任のその言葉に、教室中がざわつき始める。
「おい、しんぼう。俺たち6分の1を引いたらしい。」
「らしいな。」
緊張のせいだろうか。少し声が震えていたかもしれない。
「瑠花さん、入っておいで。」
担任のその言葉に引き寄せられるかのように、教室に足を踏み入れた彼女は、昨日のそれとは違った美しさを纏っていた。
「わ、悪くないな。」
「ん。黙れ。」
小声でそう囁く彼の鼻の穴はペットボトルの飲み口より2回り小さいくらいに広がっていた。
彼女は黒板に自分の名前を書き、僕たち3年1組の生徒に自己紹介を始めた。
「芹沢瑠花です。東京から来ました。よろしくお願いします。」
「自己紹介ありがとう。瑠花さんの席は1番後ろの列の真ん中の席だから。」
「わかりました。」
1番後ろの列の真ん中の席?俺の隣じゃないか。何やら隣の男が睨んできているような気がするが、気のせいだろう。
「よろしくお願いしますね。慎夜さん。」
彼女はそういうと、柔らかい笑顔を向けてきた。
「あ、あぁ。よろしく。」
どんな顔をして対応すればいいのか。女性経験の乏しい僕にはそれが分からず、緊張が全面に出てしまっていたと思う。
「しんぼう。死ね。」
「ん。黙れ。」
今すぐこの男を絞め殺してやりたいところだ。
1日彼女を観察してみて分かったが、どうやら勉強も運動も得意ではないらしい。まぁ、そんな事を言えるほど俺も頭は良くないし運動もできないのだけれど。
その後は何事もなく学校は終わり、今日もあの坂を目指して自転車を走らせていた。
「ん?瑠花?」
坂の50m程前まで自転車を走らせたところで、瑠花が立っているのが見えた。何をしているのだろうか。
そのまま自転車を走らせて、十分に近づいたタイミングで話しかけてみた。
「瑠花…さん。何してるの?」
「あぁ、慎夜さん。いや、この坂から見える景色、綺麗だなーと思いまして。」
「確かに綺麗だけど…。家、こっちなの?」
そう彼女に問うと、彼女は少し焦ったような表情を浮かべたように見えた。
「は、はい!そ、そうです!」
見間違いだったのだろうか。そう答えると、彼女は教室で見せたあの柔らかい笑顔を僕に向ける。
ある夏の夕暮れ時、彼女の笑顔に見惚れる僕の足元で、一輪の朝顔が揺れていた。