吾輩は猫であり、人でなし
この話は実在する個人、団体、地名などとは一切関係ありません。全てフィクションです。
灰川手苗はまるで猫のような女だった。
大きく丸い瞳に高い鼻、うっすらと白い犬歯の覗く口。すらりと背が高く手足も長い。指先はピアノを習っていた為か長く繊細。
手苗は毎日私服で大学に通っているが、目にする度違う服装をしている。一度着た物は二度と着ないのではないかと思えるほどだったが、話を訊いてみると手苗はコーディネートによって毎回異なった衣服のように周りに思わせているらしい。それは常に流行に気を配っている賜物か、センスも非常に良く俺のセールで買った、ただのTシャツもお洒落に着こなしてしまうほど最高に良い女性だ。
まぁ、惚れた男の色眼鏡によるものだが、女性十人が手苗の容姿を評価すれば、六人は手苗を《美人》と称するだろう(残りの四人はやっかみで否定的なコメントをする)。それほど手苗の容姿は飛び抜けているだ。
けれど、灰川手苗が猫を彷彿とさせる所以は、容姿よりもその性格にある。
猫は誰にも懐かない。
手苗は誰にも心を開かない。
それは世間的に言えば手苗の彼氏たる、俺に対しても例外ではない。
ツンデレのように厳しい態度を取ってくることもなく、クーデレのように素っ気ない態度で接してくることもない。
灰川手苗は俺のことに関心を払っていない。例えるならば道に転がる小石の如く、それを意識に残そうとはしていないのだ。 そこまで言うと、それを果たして交際していると言えるのかどうか怪しくなるが、そこは安心して貰って構わない。
俺は手苗の正真正銘の八番目の彼氏だ。他の彼氏からそう言われたのだから間違いない。
現に今だって、俺と手苗は六月にも関わらず一向に梅雨入りする気配もない、快晴の元で大学の中庭のベンチで仲良く並んで昼食を食べている。この毎日一緒に昼食を食べる時間が一日の中で最高に幸せな時間だったりする。ベールベージュ色のふんわりとした感じのワンピースに焦げ茶色のブーツという出で立ちの手苗は、両手で三角形のおにぎりを掴んで、もきゅもきゅと口にしていく。その姿が凄く可愛いのは言うまでもない。
因みに手苗には俺を含めて全部で十ニ人の彼氏がいる。それは手苗がそれだけモテると証明であり、手苗の《来る者は拒まず精神》による結果である。宛ら放し飼いにされている猫が何軒もの家で全く異なる名前で呼ばれ可愛がられているかのようだ。
中庭には俺達二人の他にも多くの生徒がいて或る者は本に目を通し、また或る者たちはキャッチボールなどをしている。またまた或る者たちは寄り添いながら何やら楽しそうに会話をしている。皆それぞれ幸せそうに午後のひと時を過ごしているのだ。
「美味いか?」
「……」
手苗に声を掛けても返事は無い。俺に視線を合わせようとしない。当然だ、俺の事に関心を払っていないのだから。俺はいつものように返事が返ってこないことを気にも留めず、適当に話題を見つけ話し掛ける。「何処かに遊びに行こうか」とか「そろそろ前期試験だな」とかそんな取り止めの無い話題。
勿論、返事などない。期待などしていない。ただ手苗の姿だけ見ていられればそれで幸せなのだ。だから――。
「朔太郎」
などと、こちらを見向きもしないでただ名前を呼ばれただけで、まさに天にも昇る気持ちになる。今にも強く抱きしめてしまいたくなるが、俺はそれを理性でどうにか押さえ込み極めて冷静に言葉を返す。
「何だ?」
「うるさい」
一喝だった。
どうやら今日は虫の居所が悪いらしい。俺は一言謝り、視線を自分の昼食たる焼そばパンへと戻す。
その途中だった。
「ん?」
ふと目に留まったのは手苗の首筋。何か赤く腫れ上がっているようで、見ようによっては唇の形に見えなくも無い。虫刺されにしては大き過ぎるし、間違いなくキスマークだろう。
………
……
…
一大事である。
まさか手苗の《来る者は拒まず精神》がこのような結果を齎すとは。
俺は焼そばパンを踏みつけていることにも構わず、正面から手苗の肩を掴み問い質すという暴挙に出てしまった。後々考えると大失態であるが、兎に角その時は我を忘れてしまっていた。
手苗は俺に前後に揺すられて首が落ちそうになっていたが、それでも両手で掴んでいた食べかけのおにぎりはしっかりと死守していた。流石である。
「一体どういう事なんだ、手苗。何があった。幾らお前とは言え、心を開いていない相手に体を許すとは何事だ。恥を知れ恥を――ぐはっ!」
そこまで言った時、手苗のコークスクリュー・ブローが俺の左頬にクリーンヒットし後方へと弾け跳んだ。
このコークスクリュー・ブローはボクシングのパンチの一つで、名前の由来はワインを開ける為に使われるコルク抜きからきている。元世界ウェルター級王者キッド・マッコイにより発案され、その内容はパンチが当たる瞬間に手首を内側に捻じ込み相手に与えるダメージを大きくするというものである。
時間にしては一瞬の事だったが、刹那の時間でコークスクリュー・ブローの説明を思い返し、俺の体は地面へと叩きつけられた。しこたま体を打ちつけたが、体よりも殴られた左頬の痛みの方が重症だ。
「て、手苗」
「これは未遂。根津が行き成り押し倒そうとしてきたけど、抵抗したからやられてない」
右手を強く握り締めながら、手苗は淡々と答える。右手から湯気のようなものが立っているように見えるが、そんなことよりもっと訊ねなければいけないことがある。
「根津って、お前の三番目の彼氏のか?」
俺が訊ねるものの、手苗はマイペースにも昼食へと戻り、再び両手でおにぎりを頬張り始めた。やっぱり可愛い。
「そうなんだな?」
俺は確認の為、もう一度だけ言葉を口にする。
返事は、無い。
詰まる所、肯定である。
「悪い、手苗。大切な用事を思い出したから、先に帰るわ」
自分の荷物を手早く纏めて、俺は只管におにぎりを食している手苗に告げる。
手苗は相変わらず俺の方を見ようとしない。けれど、一言だけ俺に向けて言葉を掛けてくれた。
「それは私より大切な用事?」
誰にも心を開かない灰川手苗。
彼女がそう口にしたのは気紛れか、何気無くだったに違いない。けれど俺には手苗が離し掛けてくれた、ただそれだけが嬉しくて幸せを噛み締めながら言葉を返す。
「バーカ。お前より大切なことなんてこの世には一つとして在りはしないんだよ」
そして俺は荷物を抱え、手苗の元から走り去る。
その時も手苗はおにぎりを口にして、中身のシーチキンマヨに喜んでいる、ただそれだけだった。
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手苗の三番目の彼氏、根津忠人は私立高校の三年生である。
俺が手苗と出逢うより以前、手苗がその私立高校の三年生だった頃に当時二年で後輩だった根津に呼び出され告白されたのをきっかけに付き合うことになったらしい。
高校生としては飛び抜けて背も高く、所属していたバスケ部ではセンターを任され、つい先日までキャプテンとしてチームを引っ張っていたとか。現在は受験の為引退、元々学年十三位の成績であったが、引退した事により伸び、今や学年三位の成績らしい。文武両道で、つくづく三と縁の深い男だ。
俺は校門の前の本屋で根津が出てくるのを待つ。何気無く手に取った推理小説を読み耽り、さていよいよ名探偵が犯人の名前を告げようとした時、根津が校門から現れた。
制服指定か胸に校章が付けられたカッタシャツに薄手の紺色のズボン。色気づいてかワックスで整えた髪形に、青色フレームの眼鏡。顔の造型もかなり整っておりさぞかし高校でモテることだろう。正し、今日に至っては左頬が大きく腫れ上がって全てを台無しにしてしまっている。
「酷い顔だな」
「貴方に言われたくありませんよ」
俺の第一声に根津は冷ややかに返してきた。そう言えば俺も根津と同じく手苗により左頬が腫れ上がり、今も尚鈍痛を与え続けている。
ということは、手苗を押し倒そうとしたことにより、根津も手苗必殺のコークスクリュー・ブローを喰らったのだろうか。
どちらともなしに俺と根津はほぼ同時に歩き始めた。制服を着た高校生と俺のような男が一触即発のような雰囲気になった時を誰かに見られでもしたら、事態は両者の望まないことになりかねないと、考えが一致した為か人気のない場所を求め移動する。
「昨日、灰川先輩とやろうとしました」
道中、俺が問い質すまでも無く根津は唐突にそう告げて、あっさりと事実だと認めた。
けれど根津は罪悪感を抱いている様子もなく淡々と昨日の出来事を語るだけだった。
「昨日、三時に先輩の家に行きました。先輩はとても渋っていたので、ぼくが強引に連れ出しました。
カラオケに行って先輩の為にサザンやサンボマスターを歌いました。ぼくが歌っている間先輩はずっと選曲本を見ていましたが」
ただただ選曲本だけを見続ける手苗の姿が浮かぶようだった。
「夕食にパスタを食べに行って、親の帰りが遅いので、先輩を家に連れ込みました」
そして、押し倒そうとして失敗、負傷か。
根津の話が終わるのを見計らうかのように人気のない場所に出た。ちっぽけな公園だった。遊具はブランコと螺旋状の滑り台が一緒になったものしかなく、落書きだらけのベンチが隅にひっそりと設けられている。手入れされていないのか雑草が伸び放題で、そんな場所を訪れる人は稀らしい。俺たちには恰好の場所だと言える。
「好きだから、抱こうとしても非難されることはないですよね?」
根津は俺の目をじっと見つめ、冷ややかな視線を送り付けてくる。さも俺のしていることが大きなお節介だと言わんばかりの絶対零度の冷たい目だった。季節は夏であるにも関わらず、俺は肌寒さを覚えながら、それでも年長者として根津の問い掛けに答えてやる。
「ああ、別に構わねーよ。それこそ酒池肉林で大々的に催したって俺には関係ない」
けどな、と俺は言葉を続ける。
夏の熱さが戻ってきたのか、時間が経つに連れ俺の体も熱を帯びていく。
「それはあくまで手苗以外の女だった時だけだ。あいつが心を開いてもいないのに、無理矢理に襲おうとするなら俺が許さないんだよ!」
俺の言葉に根津は笑う。失笑とか冷笑とか表現されるような人を決して快くしない笑い方だった。
「灰川先輩が心を開く事はありませんよ。先輩の彼氏なら全員知っていることでしょう? 一生プラトニックな関係で居続けろとでも?」
まるでウジ虫でも見るかのように根津の瞳から熱が冷めていく。
「フン、そんなことは無理ですよ。人には三大欲求と称される、生存する上で必要不可欠なものを求めずにはいられないんですから。食欲然り睡眠欲然り、性欲もまた、男に生まれたなら女を求め、女に生まれたからには男を求めてしまう、《必要不可欠なもの》、なのですから」
一頻り言い終わると根津は、「もう良いですよね?」とこの場を立ち去ろうとする。
だが、俺の中の熱は未だ冷めていない。そんな保健体育の教科書にでも載っていそうな《一般常識》など聞かされたって、熱が冷めるわけがない。
俺は去っていく根津を追い掛け肩を掴んで、制止を掛ける。右手はいつの間にか強く握られて振り上げていた。
「殴る気ですか? ぼくは一切の抵抗もしませんのでどうぞ。ですが、無抵抗の高校生を大学生がボコボコにしたとなるとそれなりの覚悟をして下さいよ。
それに、貴方だって先輩とやりたいと思っているでしょう? 今はまだ理性で抑え込んでいるのかもしれませんが、いつの日か抑えきれなくなる。灰川手苗の全てを自分の物にしたいと、そう思う日が訪れますよ」
俺はそのどちらの言葉に反応したのだろうか。振り上げていた右手を下ろして――
勢いをつけて、根津の顔面を殴り付けた。
手苗必殺、コークスクリュー・ブローを同じ所に、手加減無く繰り出し容赦なく抉ってやった。
根津は雑草だらけの地面に倒れ、ぐしゃぐしゃに拉げた眼鏡越しに俺の姿を驚いた表情で眺めていた。
「俺が傷害罪を恐れて殴らないとでも思ったか? とんだ楽観主義だな。良いか、俺は灰川手苗の為なら何だってする。
あいつ以上に大切なことなんて無いんだからな。
言いたければ、言えば良いさ。親でも学校でも警察でも、好きな風にすれば良い。罰はちゃんと受けてやるよ。ただし、今度手苗に乱暴しようとしてみろ。何処にいたって必ずお前の元に辿り着き、その息の根を止めてやる」
俺の表情が鬼気迫るものだったのか、根津は先程までの態度が嘘のように慌てふためき、何やら言っているのだが、動揺しすぎて言葉になっていない。「仏の顔」がどうとか、何とかの「正直」とか、全く何を言おうとしているのか分からない。
「ああ、それから。俺から手苗を抱こうとすることなんて無いから安心しろ。一生あいつがが心を開いてくれなくたって、俺はあいつを大事にし続けるんだからな」
熱は一発の拳と幾つもの言葉で冷めてくれたらしい。俺は根津から視線を外し、その場を後にする。
後ろから、根津の声で「…人でなしが……気持ち、悪い…」と弱々しい根津の声が聞こえた。
「貴方みたいな人が、ぼくと同じ《人》だというのはとても気持ち悪い。先輩のこと以外に執着しないなんて。見返りを求めず、ただ先輩と一緒にいるだけなんて」
「純愛だろう?」
俺は立ち止まり、振り向きもせずに根津に訊ねる。
「そんな純愛は有り得ない。体の関係を伴わない純愛など存在しない。純愛の行き着く先が、《子を成す》ということなのだから。
貴方と先輩の関係は飼い主とペットのようなものだ。飼い主を喜ばす為だけに存在する猫のようなものだ。
貴方は異常だ。それこそ《三毛猫の雄が生まれる》ほど異常だ」
こんな時まで三に交えて例えるとは律儀な奴だ。
猫の毛色を決める遺伝子は、ぶち(白斑)や黒などは常染色体上に存在するが、オレンジ(茶)はX染色体上に伴って、伴性遺伝を行う。その為、三毛猫が生まれるのはO遺伝子が対立するo遺伝子とのヘテロ接合になった時のみである。だから原則として三毛猫は雌(XX)で生まれるのが通常であり、雄は染色体異常やモザイクなどが生じた時に生まれる非常に希少な存在である。俺に対する皮肉のつもりか。
俺は再び歩み始めて、公園を後にする。最後に根津の恨みの込められた叫び声が聞こえた。
「三毛朔太郎。いつか三倍にして返してやるからな」
そして俺は手苗の待つ場所へと帰る。いや、手苗は待ってくれてはいないだろうけど。
ふと思う。俺を異常性の例えは俺の名字が《三毛》だからだろうか。
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翌日。
再びの快晴の下、俺と手苗は学食のオープンテラスで昼食を取っていた。
今日の手苗はピンク色のフリルカットソーにチェックのスカート、それに黒のサンダルと涼しげな格好だった。今日も変わらず美人である。
俺は昨日の出来事を一部始終話すが、手苗は我関せずと今日は梅干しのおにぎりを両手を使ってぱくぱくと口に運び続けている。けど、既に十分近く長々と俺が話しているにも関わらず、何も言ってこないということは少なくとも俺の話を不快に思っていない証明だろう。
と。
「朔太郎」
名前を呼ばれた。どうやら調子に乗り過ぎたようだ。
「うるさかったか? 悪い」
「あげる」 そう言って手苗が俺に差し出したのはラップに包まれた茶色い麺とゆで卵、赤い紅ショウガが沢山挟まれた焼そばパン。昨日落とした為ほとんど食べられなかったものだ。
「まじか!? ありがとう手苗!!!」
あまりの感動に俺は我を忘れて手苗に向かって何度も礼を言い、あまりにしつこかったので手苗に「うるさい」と一喝された。焼そばパンは本来の昼食である天丼の後に味わって食べた。格別に美味しかった。
根津はどうやら俺の暴挙を誰にも言わなかったようだ。考えてみれば俺に暴行された事を話すと、自ずと根津自身の手苗への暴行(未遂だし、返り討ちにあっているが)も話さざるを得なくなるのだ。流石学年三位。先を見据えた良い判断だ。
次の抗議まで残り僅かとなったので俺は手苗を促し、立ち上がる。
「それじゃ、戻るか」
さり気なく手苗の荷物を持って学舎へと向かう。そう言えば昨日、俺が自主休講した時は手苗は自分で荷物を運んだのだろうか。せめて運んでから根津の所に行っても良かったか。
「根津とは別れたから」
手ぶらで俺の後について歩いている手苗がぼそりと何の脈絡もなく俺に告げた。本人からすれば独り言だったのかもしれないが、昨日ほどではないものの俺を動揺させるには十分だった。手苗はさらに独り言を続ける。
「『別れよう』って一言だけ言われて電話を切られた」
果たしてそれが俺にびびったからなのか、手苗が体を許してくれなかったからなのか分からないが、どちらにしろ根津忠人、見事なまでの三流ぶりである。
俺は後ろを歩く大切な、間挿し苗のように今はまだ弱く頼りなく成長するのを温かく見守ってやりたくなるような、そんな存在に向き直り、正面から優しく抱き締める。
「ってことは、今日から俺は七番目の彼氏だよな」
無言で手苗のコークスクリュー・ドライバーが飛んできた。
了
お読み頂き有難うございます。
タイトル発進で書き出したので、人名も設定もぶっ飛んだことになっていますが、御容赦下さい。 感想や評価など頂けますと非常に嬉しいです。