はじめに
この気持ちは何だろう
この気持ちは何だろう
目に見えないエネルギーの流れが
大地から足の裏を伝わって
これは、合唱曲、「春に」の歌詞の引用である。谷川俊太郎作詞のこの曲は学生時代に合唱で歌った思い出の曲だ。
その当時、この気持ちは何だろう、という問いはありふれていた。一日に何回もぶつかることもあった。
だからかもしれない。声に出さないといけないその時、その瞬間、目を背けたい気持ちが歌詞を茶化したり、ふざける対象にしてしまっていた。
30代も近い年になって思うのは、この気持ちは何だろう、という問いをするのはせいぜい20代前半までで、それ以降ほとんど問うことをしなくなるということだ。
では、自身の気持ちが全てわかるようになったかと言えばそうではない。
それはつまり生きていく中で、日常生活で発生する気持ちのほとんどを発現して心の分類を作り終えた、そういうことなんだ。
20代中頃からは発生した心の機微を周りの状況と相対するモノ、ヒト、それから現在の自身の心境をもとに分類分けから自身の心情を判別することになる。
そうして自身の気持ちと折り合いをつけていくことになる。
分類の見直しは必要と思う。でも今じゃない。それは30代後半から40代になってからと思っていて、身体的な変化、社会的な立場の変化に伴っていつまでも昔の基準では整理できない気持ちが出てくるはずだから、無理矢理当てはめたり、酒でごまかしたりして心を蔑ろにしてはならない。
さて、分類することにはリミットがあるように思う。なぜなら一度分類してしまった気持ちの再整理は果てしなく大変だからだ。
だから初めて出会う10代のうちに細かく丁寧に分類してあげることが寛容である。そしてそうすることで得られる恩恵として、それ以降数十年、人生がより平穏になる。
どうして平穏に生きていけるかであるが、分類表は細かく分類された心の機微を自身が納得できるかということにおいて大きな役割を果たしている。
細分化された心の分類表は、無数に枝分かれしていく感情の機微を的確に判別して、そうして悩んだレスポンスとしてある一定の成果として納得できる答えを返してくれる。
より自分への理解が深まっているように感じるがそういうことではない。
細分化されて気持ちの置き場や発散の仕方、捨て方、忘れ方、残し方、そういった心の機微に対する処理方法が見えてくるようになるのだ。
そういった理由で分類の作成は日々を平穏に暮らす上で必要になるアイテムと化している私があり、翻って他者であるあなた方にも平穏を与える一助になると思うのである。
前置きはこのくらいにして、本題の言葉を知ること、について話をしていこうと思う。
読んでいただきありがとうございました。