旅ギツネと5つの宿の物語
森を激しく揺らした嵐の夜、キツネは、倒れてきた大木に打たれ、大けがを負った。
幸いにも、そこへ、森に住む人間の子どもが通りかかった。
子どもは、驚きながらもキツネを抱き、家へ連れ帰って手当てをしてくれた。
何も求めず、ただそばにいてくれる温かさが、傷ついた体に静かに染みこんでいった。
キツネは、幼い頃の冬の日、母の胸に抱かれたぬくもりを思い出した。
……人間は、こんなにも温かい心を持っているのだ……
いつしかキツネは、人間の世界に憧れるようになった。
元気になって戻ってきたキツネを、仲間は喜んで迎えた。けれど、人間の世界に憧れるキツネの話を聞くうちに、少しずつ距離を置くようになった。
「おまえは、どこか人間の匂いがする……」と。
いつしか、木々の枝葉は沈黙し、木漏れ日は温もりをなくした。
森に居場所をなくしたキツネは、人間の姿に化け、旅に出た。
あの時の子どものように、何も求めず受け入れてくれる場所を探して……。
長く厳しい旅が続いた。
今、キツネは身も心も傷つき疲れ果てていた。何よりも休息を必要としていた。
…壱の宿…
キツネは、広い街道ぞいに建つ大きな宿屋の戸を叩いた。
「はい、いらっしゃい」
着物をきれいに着こなした番頭が出てきた。番頭はキツネの裸足の足を一瞥しながら聞いた。
「宿代はお持ちかの」
キツネは首を振った。これまでずっと道端の草を噛み、小川の水で喉を潤して旅をしてきた。時に百姓や漁師の仕事を手伝い、芋や魚をもらって腹を満たしたりはしたが、銭というものは、一度も手にしたことがなかった。
「さあ行きなされ。宿代を持たぬ者がどうして客となれよう」
番頭は戸をぴしゃりと閉じた。
「お前さんを泊めてくれる宿は、この街道にはないわ」
とぼとぼと歩きはじめたキツネに、桶屋の軒先を歩いていたニワトリが話しかけた。
「そこの細い道を行きなさい。その何処に泊めてくれる宿があるはずだから」
言われるままに、キツネは細い道に入った。
…弐の宿…
しばらく行くと小さな宿屋があった。戸を叩くと、中から愛想の良い主人が出てきた。
「御心配はいりません」
宿代を持っていないことを話したキツネに、主人はにこやかに頷いた。
「お代は、またのお越しの際に払って下さればよい。さあさ、疲れを癒されよ」
キツネは導かれるままに、飯を食べ、風呂につかって温かい布団にくるまって眠った。
「今日は素晴らしい天気になりそうですな。御出立はいつになされますか」
翌朝、食事の際に主人が聞いた。キツネは答えられなかった。目指す所の見当はつかず、いつ出立するかなどは考えてはいなかったのだから。
「お代を持たない客でも、御自分の予定ぐらいは知っているはず」
不安になった主人は、土地の顔役を呼んだ。
「おまえは心に深い傷を負っているようだ。それで旅に出たのだろう?」
顔役の問いにキツネは頷いた。
「苦労した旅人のようだ。この泊はいつまで続くかわかるまい。まあ良いではないか、宿代は後で払ってもらえばよいのだろう?」
「うーむ」
顔役の言葉を聞いた主人は悩んだ。宿代は後でよいと思っていても、いつ出立するとも知れない旅人を泊めておくのは無理なことだった。
「こちらでできるのは、一泊のもてなしだけでして」
主人は丁寧にキツネを追い出した。
キツネはまた、とぼとぼと歩き始めた。
…参の宿…
陽が暮れた頃に、キツネは一件の宿屋にたどり着いた。
疲れ果てた顔を見た主人は、すぐに悟った。
…きっと訳があるのだろう。宿代も持っていない様子。まあそれもよかろう。得心できる話があれば、それで良いというものだ…
優しい主人はキツネをもてなした。
主人は、キツネから毎日のように苦労話を聞き出しては、さもありなんと頷いていた。
やがて一週間が過ぎ、主人は話を聞くのにも飽きてきた。二週目の終わりに主人は言った。
「話はよくわかりました。本当にご苦労なさっておいでだ。しかし、語られる話も、もはや三回り目。いつまでこの宿にいるおつもりなのかな」
もはや興味を引く話もなく、いつ出立するとも知れない客を泊めておくことは、この主人とてもできないことだった。
「今度は、面白い話もお持ち下されよ」
主人は、期待を込めて手を振った。
…肆の宿…
身の力を取り戻したキツネは、また歩き始めた。しかし、心に負った傷は癒えぬまま…。足元が覚束なくなりだしたところで、別の宿屋の戸を叩いた。
「あなたにはこの宿屋が必要なのだ」
主人は、その打ちひしがれた様子を見て全てを悟った。泊めてあげるだけではなく、片時もあけず気にかけ、キツネの面倒を看続けた。
ひと月ほど経った頃から、主人は鬱ぎ始めた。思いつく全ての事をしてあげているのにキツネは元気な顔を見せなかったのだ。
…わしがしてきた事の何が足りなかったのだろう。体の疲れは勿論、心の傷も充分に癒してあげているはずなのに…
主人は、離れに住んでいる古主人に相談した。
「お前は本当に全ての事をしてあげたのか。彼に次に歩むべき道を示したか」
「なるほど確かにその通り。今、親父さんがわしに教えてくれたのも同じ事」
さっそく主人は地図を広げ、キツネに様々な道を示してあげた。
…心優しい人々が住む静かな村への道。
…若い働き手を求めている商人の町への道。
…慈しみの心に満ちた僧侶の営む山寺への道などなど。
更に主人は、その道中に必要な金銭も用意するつもりであることを伝えた。キツネは、ただただ感謝で頭を下げるばかりだった。
ある日、キツネはせめてものお礼と、こっそりと長い尻尾を出して宿屋の玄関を掃除した。
塵一つ落ちていない玄関を見た主人は、硬い顔をして言った。
「お前さんは、わしを哀れに思いなさったのか。もはや、お前さんは特別なお客ではない。わしは可愛そうだと思ってお前さんをもてなした。掃除をしてくれるような人は普通のお客だよ。宿代がないなら、さあ、出ていった」
キツネは宿を追い出された。
…伍の宿…
キツネはまた細い道を歩き始めた。道は寂しく、先は荒れ山へと続いている。しかし、歩けど歩けど、宿屋は現れなかった。やがて道は、ゴツゴツした岩が囲む山道となった。
石切場の近くの原っぱに、今にも崩れそうな小屋があった。もはや人間に化けるのにも疲れたキツネは、そのままの姿で戸を叩いた。
「お入りなされ」
中には囲炉裏にあたる老人がいた。入って来たのがキツネでも、驚く様子はなかった。
キツネは老人の傍らに足を伸ばして横になった。
「火というものは温かいものじゃ。じゃが、お前さんがきて、なおさらに温かくなった」
老人はキツネの訪問を微笑んで迎えた。
そして、キツネが何をするでもなく、日は流れていった。
移り変わる虫の調べが耳を撫でた。小屋の板壁から流れ入る風が、草木の息吹を胸の奥に優しく運んだ。
月が六回ほど満ちたある日、老人がぽつりと聞いた。
「お前さんは、どこに行くつもりだったのかね」
キツネは分からないと首を振った。
「思いついたら教えておくれ。まあ、キツネの歩もうとする道は、聞いても理解できんかもしれないがの」
老人は朗らかに笑った。
ある日、キツネは土間に付いた自分の足跡に、小さな草の芽が出ているのを見つけた。どこか旅の途中で付いた種が落ちたのだろう。老人に踏まれることのないように、草の芽の周りに小石を並べた。
日が経つにつれ芽は大きく成長し、やがて美しい花を咲かせた。
「この粗末な小屋に花が咲いたわい」
小躍りして喜んだ老人は、これまで自分が訪れた様々な土地に咲く花の話をした。
話を聞くキツネの心に、これまで歩んできた道が描かれた。さらに見知らぬ土地に咲く、色とりどりの花の輝きが見えた。いつの間にか、心に負った傷は、傷ではなく、味わい深い過去の思い出へと変わっていた。
翌日、キツネは小屋を出る決心をした。
老人の小屋は、まさに自分が探していた場所だった。だが、自分が探していたのは、場所というものではないことを、キツネは悟った。
キツネは、これから歩もうとする道について丁寧に説明した。熱心に耳を傾けながらも、老人は充分には理解できないようだった。
「達者でな。なんぞの花の種があったら、またここに持ってきておくれ」
別れを惜しみながら老人は言った。
すっかり元気になったキツネは、自分の進もうとする場所にむかって、旅を始めた。
了




