第二章 日本
無菌室の中は、いつも無味乾燥だった。
見える景色も受ける治療も、毎日が同じことの繰り返し。何も変化しない。
だから私は、薄汚れた白い天井を見上げて、とりとめのない想像を巡らせるの。トップアイドルになるとか、大金持ちになるとか、超能力者とか。それくらいしか、出来ることがないから。
今日は何曜日だっけ。すぐには思い出せない。何月何日、何曜日かなんて、世間とカクゼツされた生活が続けば、わりと簡単に忘れる。呆けるってこんなだろうなって思う。
あ、そうだ、今日は日曜だわ。お母さんが着替えを持って見舞いに来る日。時計の針は午後二時を指している。そろそろ来るころね。
週に一度、私は遠くから近づく母の気配を敏感に感じ取り、到着を見計らって寝たふりをする。
そっと病室に入った母は
「明日香、起きてる?」
私の名前を呼び、病室内を窺うはず。足音を忍ばせて入って来る様子が目に浮かぶ。無菌室に入る人は、風下から静かに入ることが絶対のルール。そうしないと雑菌をばらまいてしまう。
母は音を立てないようスツールに腰掛け、私を気遣い、しばらくの間見守っている。精気に乏しいであろう私の背中を見ている。やがて小さなため息を残して、スリッパを引きずりながら帰っていく。
母の体温が消えてから私は起き上がり、ちょっとだけ罪悪感を覚えつつ、閉じられたドアを見る。アイボリーホワイトのパネルとステンレスのドアノブは、いつ見ても人の体温を感じさせない。ここしばらく、私は母の姿を見ていなかった。
なぜそんなことをするかって?
家には今年六歳になる妹がいるの。健康な人には健康な人の生活がある。妹に寂しい思いをさせるくらいなら、少しでも早く母を開放する方がいい。私は遠からず死ぬんだから、母の時間は無駄になる。これは死にゆく自分にできるせめてもの心遣い。
「明日香ちゃん、起きてる?」
ドアの向こうから顔を出したのは、看護師の佐原さん。丸顔に丸い体。明るくて少しガサツな四十代の女性。中学生の息子は、バスケ部でベンチを温めていると言っていた。
「今日は採血しますよ」
佐原さんは慣れた手つきで血圧を測り、手際よく血を抜き取る。
「はい、終わり。ゆっくり休んでね」
髪の透けて見えるピンクのキャップと白いマスク。その間に見える眼だけで笑い、佐原さんはあっと言う間に病室を出て行った。
血液検査の結果はすぐに判るみたいだけど、私には何も知らされない。たぶん、良い数値が出ないから話せないのだと思う。
病気の始まりは二年前。
そのころは水泳教室に通っていたし、ピアノも習っていたし、学校も大嫌い、ではなかった。
夏休みが終わって学校が始まり、ちょっと身体がだるいくらいに思っていた。熱帯夜が続いた後には、寝不足でよくあることよ。私自身は全然気にしていなかった体調の変化に、母はすぐに気が付いた。
「明日香、顔色が悪いわね」
「そうかな」
「一応、病院に行ってみましょう。ね?」
「いや。平気だから」
帰りにチョコレートパフェを食べようと説得され、私はしぶしぶ病院へ向かい、そのまま入院させられた。診断結果は急性白血病。
青天の霹靂っていう言葉を、この時に覚えた。こういうことを言うんだよね。びっくりし過ぎて、言葉が出なかった。当時九歳の私には、実感も湧かなかった。
母のショックは大きかったみたい。でも今の医学なら、化学療法と骨髄移植でよくなる、入院期間は半年ほどと言われ、私たちは安心したはずだった。
でも、その半年が過ぎる頃、主治医の先生は「ちょっと変わった症状が出ています」と私たちに告げた。
「どういうことですか?」
母の質問に、先生は眉を上げて、無理にも笑おうとした。私にもそうと分かるくらい、不器用な笑顔だった。
自分でも不自然だと思ったのか、先生は作り笑顔をあきらめて言った。
「血中に未知のウィルスが見つかりました。少し治療期間が延びるかもしれませんけど、心配は要りません」
未知のウィルスってなに?
ウィルスについては現在調査中です、と言われたのが一年半前。
それでも、初めの数か月は、家族も私も希望を持っていたと思う。毎日自分に言い聞かせたわ。きっと治るって。
友達も何度か見舞いに来て励ましてくれた。
「明日香なら大丈夫。絶対に治るよ」
私もそう信じていたけれど・・・・。
大学病院へ転院までしたのに、病状は改善していない。むしろ悪化しているように感じられた。
白血病と診断された時から、完治すると信じて辛い治療にも耐えてきた。
今は主治医の高梨先生でさえ、治るとは言ってくれない。要するに、私は原因不明の病で死ぬのだろう。
もう痛いのはイヤ。苦しむだけで治らないなら、楽に死なせて欲しい。
私はパソコンを買って欲しいと母にお願いした。どれくらいの時間が残されているか分からないのだから、せめて死ぬまでの間は世界を見て過ごしたいと思ったの。
母は知り合いに頼んで、すぐにパソコンを手配してくれた。先生もあっさりと許可してくれたのは、やっぱりそういうことなんだと思う。この時、心のどこかで救いを求めていた私にも、あきらめがついた。
現実は、そうそう甘い顔をしてくれない。
1テラバイトのメモリと最新グラフィックボードを搭載したパソコンは、二日後に病室へ届いた。電源ONからOS起動完了まで、わずか五秒。かなりの高級機種みたい。その日からすぐに使い始めたわ。
ショッピングサイトで欲しいものを見て回ったり、ウサギや子猫の動画を見たりする。スマフォもいいけれど、映像を楽しむには、やっぱり大きな画面でなくっちゃ。他にも音楽、ゲーム、SNS。見るもの聞くものが、殺風景な病室に刺激と潤いを与えてくれた。
想像していたよりも、パソコンは楽しい。私は狭い病室を抜け出して、ネットの世界を飛び回るの。
パソコンライフ一週間目。意外なところで、私のお気に入りが見つかった。
毎日決まった時刻に、私はネットゲームのアイコンをクリックする。その名もMSオンライン。大昔に流行ったロボットアニメがモデルなんだって。お父さんと同じか、少し上の世代がリアルに見ていたって聞いた。
IDとパスワードを入力、接続先を表示、世界に七カ所あるサーバーから私はYAMATOを選択する。日本に設置されている唯一のサーバーね。
初めてアクセスしたときは、本当にびっくりした。飛び交う言葉は汚いし、ちょっとしたことで喧嘩になるし。
参加者の言葉使いで、大半は大人なんだと分かって、よけいに驚いた。大人にも下品なやつって、いるんだね。同級生の男の子に、似たようなのがいるわ。何でも下ネタにするやつ。ていうか、大人だから下品なの?
ここでは誰も建前なんて気にしない。年齢も職業も関係なく、勝手気ままにふるまう人が多いみたい。ゲーム内も、ネットの世界も、あらゆる欲望と悪意の渦巻く大海原って感じ。
「46」
ゲーム参戦前に、恒例のチャットが始まる。たまにおかしな人もいるけれど、私の友達は優しい人限定。これって大切。楽しくなくちゃ、参加する意味がないもんね。
「4649」
「今日も小隊組もうか」
「乗った」
両軍の参戦者がそろったところで、出撃準備に入る。マップに合う機体を選んで、武装をチェック。お気に入りの動画再生リストをBGM代わりに流せば、自然に集中できる。これは友達に教えてもらった。お金を出してゲーム用BGMを買うなんてバカバカしい、自分で動画を拾って作る方がいいっていうことらしい。
待機時間が終了。
いざ参戦。
とっつげきぃぃぃぃ。
最短距離で中央拠点を踏む。瞬きしている間に周囲の味方が、敵が溶けてゆく。拠点制圧までに三機を落とし、私の愛機は生還した。
フフフ・・・どうよ。
思い通りに機体を操作して、敵機を撃破した時の気持ち良さは、もう言葉にならないくらい最高。万能感、ハンパない。そういう時、小隊仲間は「脳汁が出た」って言うのよね。なんかちょっと下品な気がする。
この日はガシャを回して入手したばかりの新型機で、予想以上の戦果をあげることができた。2戦2勝で、撃破は72機、被撃破は2機。上々の首尾だったわ。
「乙」
「02」
「お疲れ様でした。帰還します」
チャットで仲間たちに挨拶をして、私はベッドに身を横たえた。
「ふう・・・疲れた」
緊張から解放された後の、この感じが大好き。まだ生きていると実感できる。ささやかな喜びのひとときを、私はそっと噛みしめる。
もっともっと参戦したいけれど、それはやめておく。画面を見てマウスとキーボードを使うだけでも、今の体力では一日二戦が精一杯。当たり前よね。病気なんだもの。残り時間は少ないんだし、死に急ぐこともないわ。
それに、無理して具合が悪くなったら、きっとパソコンを取り上げられちゃう。そうなったら生きている意味がない。
しばらく目を閉じて息を整え、再び目を開いた時に、ディスプレイの隅で何かが光っていた。見るとゲームのコミュニティアイコンが点滅している。私はアイコンをクリックして届いたメールを開封した。
> ファントムです。
新機体の初陣、お見事でした。旧ザクさん、短期間ですごい上達。尊敬します。
僕も同じ機体を使いたいけど、今は予算が無いので見送りました。機体整備チケットを使えばビームライフルの連射速度が二段階まで上げられるみたいです。MSオンラインwikiに、新機体情報がアップされていますよ。
ではまた明日、同じ時刻に。
私はメールを読んで、自分が笑みこぼれるのを感じた。ファントムさんはゲームを始めて間もない頃に知り合ったプレーヤーで、右も左もわからずロビーチャットでうろうろする私に、wikiの情報と操作のコツを教え、機体と武器の改造を勧めてくれた。正式なハンドルネームは赤い彗星ファントム。この名前は、どうかなって思う。
早速返信を書きかけて思い直した。まだオンライン中ならチャットの方が早い。私はチャットのモードをフレンド限定にした。
「あ、まだいる」
現在のステータスは待機中。参戦前なら少しくらい話せるかな。
私はフレンドチャットにメッセージを入力した。
旧ザク: こんにちは。機体情報、ありがとうございました。
返事は数秒で届いた。画面を見ていたらしい。
ファントム: あ、いいえ。それより珍しいですね。いつもはすぐに退出するのに。
う・・・なんて言おう。困った。
こういうことがあるから、なるべく会話をしないように気をつけていたんだけどな。でも、ちょっとくらいは話してみたいじゃん。やっぱり。
年齢も性別も、ネットでは明かさないのが普通のことだし、私も自分のことを隠している。まさか入院中の小学生だから長時間はプレイしないの、とは言えないよね。そんなこと言ったら、もう相手にされないかもしれない。
私がもたもたしている間に、ファントムさんは自分から会話を再開した。
ファントム: このあいだ、大学時代の友人と久しぶりに会って、面白い話を聞きました。
旧ザク: 面白い話?
ファントム: 小説のネタに使えそうな話です。
旧ザク: 小説を書いているんですか?
ファントム: はい
旧ザク: すごいですね。小説家なんて。
ファントム: 違うんです。小説家じゃなくて、小説を書いて新人賞に応募しているだけ。
旧ザク: あ、ごめんなさい
ファントム: いえいえ、謝る必要はないですよ。実は今、引きこもり中で三年ほど外へ出ていません。
あ・・・。
私の頭は真っ白になった。何も言葉が出て来ない。しばらく画面を見たまま、動けなかった。
ファントム:それで、自分の好きなことに挑戦しているところです。
あ、続いてる。何か言わなきゃ。
私が戸惑っている間にも、ファントムさんの告白は続いた。
ファントム: そんな僕を友達が心配して、わざわざ小説になりそうな話を教えてくれたんです。でも酒をおごる破目になってしまって。あ、こんな話をいきなり聞かされても迷惑ですよね。
旧ザク: いいえ
旧ザク: そんなことありまえん
打鍵ミスした。
ハハハ・・・って、自分のミスを自分で笑ってどうする。
旧ザク: じゃなくて、ありません。ええと・・・
何を言えばいいかな。私は必死に話をつなごうとして無い知恵をふりしぼった。
ファントム: 旧ザクさんはやさしいですね
え?
キーボードを叩く私の手が止まる。
私はファントムさんの意図を読み取ろうと、画面に表示された文字列をじっと見つめた。
ファントム:純粋な人だなって、MSオンラインで最初に会った時から思っていました。
何と言えばよいのか分からない。褒めてもらえたの? それは嬉しいけれど、事実と違う点は伝えておいた方がいいよね。
旧ザク: あの、僕は優しくないです。というより自分勝手です。
ファントム: 気にさわりましたか?
あ、誤解されている。
旧ザク: いえ。僕は普通、というより並以下です。だから、褒められることに抵抗があるというか、慣れていなくて。
それに、引きこもりなら私の方がずっと上。低学年から不登校を繰り返していたし、だから友達も少ないし、今は病室から出ることも叶わない。言えないけど。
ファントム: 僕は旧ザクさんの、そういう謙虚なところが好きです。あ、変な意味じゃありませんよ。御心配なく。
きゃあー、どうしよう。生まれて初めて好きだって言われた。
私は頭に血が上るのを感じて、思わずキョロキョロと辺りを見回し、部屋の中に誰もいないことを確認していた。
その後で、ファントム氏は友人から聞いたという面白い話をしてくれた。地球全体が一つの生命体だという、ガイア論と呼ばれる仮説について。とても興味深い内容だったような気がするけれど、私はほとんど上の空で適当な相槌を打っていたと思う。
明日の参戦を約束してチャットが終わり、私はふわふわした気分でパソコンの電源を落とした。
なんだか胸が苦しい。考えるのも苦しい。だから考えたくないのに。無意識に抑えていた気持ちが顔を出して、私はオロオロするばかり。
どうしたって、自分に嘘はつけないよね。
私、死ぬ前に、一度だけ恋がしたい。会って一目でお互いを好きになる、そういう劇的な恋。闘病生活の果てに、つるつるの頭だけが残された私には、到底かなわない夢だけれど。
何気なく視線を上げると、ディスプレイの向こうに病室の白いカーテンが力なく垂れ下がり、その隙間から晴れた空が覗いている。どこまでも蒼く透き通る空と、窓から差し込む光の帯に照らされた病室は、隣合わせのようでいて実は違う。ガラス一枚の差は、とてつもなく大きい。それは彼と私の差に違いない。そう思うと、私の幸せな気持ちは急速にしぼんでいった。
下記の評価をクリックしていただけると、励みになります。
宜しくお願い致します。