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第一章 インド

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 インドの首都ニューデリーから南東へ四百キロ余り、ガンジス川とヤムナー川の合流地点に、プラヤーガラージという街がある。インド北部ウッタル・プラデーシュ州、人口百万の都市だ。古くはイラーハーバードと呼ばれ、英語圏ではアラーハーバード(1765年にイギリス東インド会社とムガル帝国の間に締結されたアラーハーバード条約に因む)と表記される。

 四月上旬の今頃は、日中の気温が三十度を超える。それでも地元の人間には過ごしやすい季節だった。五月には連日四十度の暑さが待っている。


 ガンジス河畔で水遊びをしているらしい子供の歓声が、辺りに響いた。貧民街の粗末な家の中にも、その明るい声は届いていた。


「子供はいいねえ」


 また始まった。


「・・・・・」


「本当に、子供はかわいいね」


 年寄りの独り言は、無視するに限る。


「ムハンマド」


「あん?」


「お昼は?」


「飯のことか?」


「そうだよ」


「あれば食べる」


「そうかい」


 ハリシャが奥でブツブツ言っていた。

 そろそろ米が切れちまう。今度は誰に借りようか・・・。


 そんなことは、言われなくても分かっている。聞かなかったことにしよう。

 母のハリシャは言外に働けと言いたいのだ。食事をするなら相応の仕事をしろというわけだ。そうは言っても、まともな仕事なんか何処を探したってありはしない。

 違うか?


「ふん」


 面白くもない。

 むしゃくしゃする気持ちを抱えたまま、ムハンマドは家を後にした。沐浴でもしようと、ガンジスのほとりへ足を向ける。ものの数十メートルで、大河を見下ろす高台であった。

 眼下を流れゆく聖なる河が、古来より周辺住民の生活を支えていた。この辺りは水道がないから、皆この水を使う。しかし近年のガンジスは、あらゆる汚水が流れ込み、眼に見えて水質が落ちている。身体によくないと分かっていても、ガンジスの水を使わざるを得ない。


 少し離れた所で、数人の女性が洗濯をしていた。遠目には長閑に見えても、近くに寄ると女たちの顔には疲れがにじんでいる。経済成長の恩恵は、貧民街の手前で回れ右をするらしい。

 衣類をゴシゴシと洗濯板にこすりつける女の揺れる腰を見ていたら、一昨日の昼、そこに腐乱した人らしきものが浮いていたことを、ムハンマドは思い出した。いずれやってくる自分の将来を見たような、嫌な気分だった。しかし、生き物の死骸は魚の餌になる分だけ、汚水よりはマシだ。まさに今も、陽光にきらめく茶褐色の水面を、猫の死体がぷかぷかと浮きつ沈みつ流れてゆく。おそらく明日にも骨だけとなり、跡形もなく消えてしまうだろう。


 空を見上げて、深呼吸をする。汚物の匂いがしないのは、久しぶりだった。

 もう一度深く息を吸って、ムハンマドは動きを止めた。気になることを思い出したのだ。

 今日も天気は良いが、空の色が薄い。おそらくPM2.5とかいう微細な浮遊物が空気中に漂っているからだろう。最近はマスクで予防しろ、昼間の外出は出来るだけ控えろと役所から通達が出ている。


「知ったことか」


 ムハンマドはそう思っている。

 空気が汚れているのは誰のせいだ? 

 少なくとも、俺たちのようなカースト底辺の一般市民にはどうしようもない。税金から給料をもらっている役人がどうにかするべきだ。仕事にあぶれて食うこともままならない人間に何の責任がある? 


 そう、問題は仕事だよな。

 仕事のことを考えると、ため息が漏れる。学歴もコネもない下層民は、就職もままならない。いっそ商売を始めようかと思うのだが、元手がない。

 母のハリシャは俺の顔を見る度に


「次の仕事は見つかった?」


 それしか言わない。

 毎日毎日、俺が職探しで足を棒にしているのに。それを見て、知っているくせに。

 たまに違うことを言ったかと思えば、


「早く孫の顔が見たいねえ。五人兄弟で結婚していないのはお前だけ。長男だって言うのに、情けない・・・」


 ときたもんだ。

 嫁さえ来てくれたら、孫くらい何人でも作ってやる。


「くそ」


 くそ、くそ、くそ。

 だんだん腹が立ってきた。


 俺が何をした?

 近所の男達を見てみろ。毎週のようにアウトカーストの女を襲っている。時には殺しているんだぞ。あんなやつらでさえ仕事を持っているというのが、これまた面白くない。

 俺はと言えば、せいぜい子供の頃に食い物をかっぱらったくらいだ。他には・・・東洋人観光客の財布を二度か三度、失敬したことがあったな。どうせ日本あたりから遊びに来た金持ちだ。勉強だと思えば安いもんだろう。全部合わせたって、俺の悪事はその程度だ。そんな取るに足らない盗みなど、誰でもやっている。

 そうか。これで分かった。俺は善人の部類じゃないか。善人ならもっといい生活をするべきだ。シヴァ神がこのまま放っておくはずがない。寝ていたって、運は向いてくるさ。


 それにしても、昨日は惜しかったなあ・・・。もう少しでまともな仕事にありつけるところだったのに。

 幼なじみのルドラが、隣町のスーパーで店員を募集していると教えてくれた。渡りに船と、俺は喜んで面接を受けに行った。別の店でレジ打ちの経験があると言ったら即採用と決まり、面接の終わり間際にセカンドネームを教えてくれと言われた。当然、俺は聞こえないふりをした。それを言えばおしまいだと分かっているからな。


「どうしたね? セカンドネームだよ」


 禿げデブおやじに重ねて問われ、俺はやむなく教えた。

 それを聞いた時の嫌らしい笑い顔、今思い出してもムカムカする。


 ぶよぶよとたるんだ頬の肉を震わせて、


「悪いがうちは間に合ってる。他をあたってくれ」


 冷たく言い放ち、蔑むように一瞥して、そいつは俺を店から追い出した。豚野郎め。いっそのこと嘘をつけばよかった。

 ムハンマドは空に向かって吠えた。


「畜生!」


 政府のお偉いさん方は、憲法で身分差別を廃止したと言うが、そんなものに意味はない。カーストが無くなったのは上辺だけだ。

 これからもずっと、俺のセカンドネームは俺の自由を奪うかせとなるのだろう。


 ぐるるるる・・・

 おっと、腹の虫が何か食えと言っている。

 こうしていても埒が明かない。沐浴はやめだ。帰って飯にしよう。


「おい、ムハンマド」


 声に振り向けば、男が玄関から顔だけ出して笑っている。ルドラだった。


「おう」


「今晩空いていたら、つきあえよ」


 いかにも狡猾な笑い方だ。知り合いじゃなければ、絶対に近づきたくない。そんな顔だった。


「いい話か?」


「女だ。ついでに金も入る」


「わかった」


 詳しく聞くまでもない。

 夜十時過ぎに出歩くふしだらなカップルを狙って襲うのだろう。あまり気乗りしないが、たまにはそれもいいか。どうせ暇だ。


 ムハンマドは、面接で受けた屈辱をキレイに忘れて、家路を急いだ。そうした差別は日常茶飯事なのだ。いちいち気にしていたら、生きていけない。

 ほどなく帰宅した自宅の玄関にドアはなく、路地からは中が丸見えだ。古い(かまど)には火の気が無かった。食事の支度は、これからのようだ。


「ハリシャ」


 返事がない。ムハンマドは首をかしげた。

 そう言えば、ここしばらく姿を見ていないな。

 最後に顔を見たのはいつだったろう。先月、いや先々月か。身体の調子が今一つだとかで、昼間も奥で寝ていることが増えた。


「母さん」


 玄関と台所を兼ねた土間を除けば、奥には二間きりしかない。手前がムハンマドの部屋、奥がハリシャの部屋だ。

 起きてさえいれば、声は必ず聞こえている。


「おい、ハリシャ」


「何だい」


 思っていたより近くから声がした。部屋の暗がりにいたらしい。


「脅かすなよ。ハリシャ、飯は?」


「ないよ」


「何だって?」


「聞こえなかったかい? ないんだよ。お前はもう飯を食わないからね」


「ははは。冗談はやめろ」


「冗談じゃないよ」


 なにやら様子がおかしい。

 ムハンマドが口を開く前に、ハリシャが問うた。


「それより仕事はどうなったの?」


「飯は?」


「先に仕事の話をしなさい」


 何か変だ。いつものオドオドしたハリシャではない。それに、うずくまる影はずいぶん大きく見えた。


「・・・昨日、隣町のスーパーで面接を受けた」


「それで?」


「不採用だった」


「はあ・・・またかい」


「おい、その言い方はなんだ」


 ムハンマドにも言い分はある。能力で落とされたわけじゃない。


「苗字を教えろと言うから教えたんだ。カーストを確認したんだろう。そうしたら、お前が商品を触ったら、売り物にならないと言うんだ。だから雇えないってさ」


 はぁぁ・・・・。

 ハリシャの吐いた息がムハンマドの顔にかかった。妙な匂いがする。なぜだか、背筋にぞくりと悪寒が走った。


「身分がそんなに大切かねぇ。同じ人間じゃないか・・・」


「そんなの、今に始まった事じゃないだろ」


「まあ、そうだ」


 カーストは三千年以上も続いているらしい。途中でやめてしまった小学校で、そう教わった。

 嘘か本当かは知らないが、あの釈迦でさえ、この国の差別をなくせなかったと聞いたことがある。もしそれが本当なら、俺たち凡俗が何をどうしようと、身分制度は無くなるものじゃない。

 うずくまる影は、続けて問うた。


「面接を受けたのは、隣町のスーパーだね?」


「あ、ああ・・・そこの店主」


「ひどい。そんなやつは生きている資格がないよ。身分で人を差別するなんて・・・」


「俺もそう思う」


 黒い影は、小さく頷いたように見えた。二度頷くのはハリシャの癖だ。錯覚ではない。やはり、そこにいるのは母のハリシャであるらしい。

 俺をびっくりさせようとして、ぬいぐるみでも着ているのか。それなら、わからないでもない。昔のハリシャは、そうした遊び心を持っていた。もう随分前のことだが、クリスマスにサンタクロースの衣装を身に着けて、俺たちにプレゼントをくれたっけ。幼いころの自分は、そういう母が好きだった。

 今のハリシャは、明けても暮れても愚痴ばかり。だが、年寄りとはそんなものだろう。


「よし、決めた」


「なにを?」


「そんなやつは殺してしまおう」


「なに?」


 ムハンマドは驚いて目をむいた。

 いったいハリシャはどうしたのだ。

 繊細で気が小さく、俺の機嫌を損ねないように汲々としていた母が「殺してしまおう」などと口にするだろうか。

 ムハンマドは無意識に首を振った。

 誰かを殺そうなんて、たとえ冗談でも口にする母ではない。


「ハリシャ、何を言っているん・・・だ?」


 薄暗い部屋を背にして、大きなシルエットがのっそりと入口を塞いだ。見上げるほど巨大な影が、目の前に立っている。


「お前、誰だ? ハリシャはどこへ行った?」


「やれやれ。母親の声を忘れたのかい? 仕方のない子だよ。本当に・・・」


 聞こえてくるのは、聞きなれた母親の声に間違いない。

 だがその声は、頭の上から降ってくる。

 ハリシャの身長は百五十三センチ。ムハンマドより頭一つ小柄だ。しかし、目の前の影は二メートルを超えている。どう考えてもハリシャではない。


「いったい、お、お前は・・・」


 ムハンマドの膝が震え出した。


「そうだ。いい事を思いついたよ」


 ハリシャはポンと手を打ってこう言った。


「お前、覚えているかい? 先月、借金を頼んだ時のこと。何度も頭を下げたのに、お前には貸せない、どうせ返す当てがないんだろうから駄目だと断られた」


「お、叔父さんのこと?」


「そうさ。いっそのこと、あいつも・・・いや待てよ。そんなことをいちいち考える必要もないね。あたしったら、何を迷っていたんだろう。もっと簡単な方法があるじゃないか。ねえ、お前・・・」


 こいつは俺の知っているハリシャじゃない。

 冷たい汗が脇の下を流れてゆく。本能的に、ムハンマドは後ずさりをした。

 ハリシャは嬉々として話し続ける。


「皆殺しだね。人なんて、みんな殺すのさ。それがいいと思わないかい?」


 剣呑な空気が狭い屋内に充満してゆく。ムハンマドは、走り出したい衝動をこらえるのに必死だった。背を向けた瞬間に何かが起こりそうな気がして、動くに動けない。

 なんとか声を絞り、


「いや、思わない。だって・・・」


 そこまで言ったところで、ムハンマドの首は千切れ飛んだ。


 ドサリ。



 ドアのない出入り口から、野良犬が鼻をひくひくさせて中を覗いた。薄暗い室内には、血の匂いが漂っている。ハリシャの姿は、もうどこにも見えなかった。

 まるで何事もなかったかのように、辺りは森閑として物音ひとつしない。



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