晩夏と花火と少年
宵の闇 濃淡照らす 夏草も
淡い火花に 四肢を染めあぐ
「君は今何を見ているのかな」
光のあまり差さない円筒の中で僕は呟いた。君には決して届かない声だ。
「ただ、きっと幸せじゃないのかもしれないね。無理をしたような笑顔だから」
遠く、河川敷の上で独り友達を待つあの少年は、ぼんやりとした焦燥感に苛まれている。僕にはそれがしっかりと分かった。理由はない。けれどはっきりわかった。
「僕も今、あまり幸せじゃないよ。生まれた瞬間にすべきことが決まっていたんだ。自分で未来を変えることさえできないんだ。変えられもしない未来をしっかり見せつけられることほど辛いことはないね。君にこの不幸はわかるのかな」
問いかけたところで彼は答えない。そもそも、僕の声が聞こえてなどいないのだろう。
そのうちに宵闇が迫ってきた。遠くの山際に夕日が沈んで行く。緑の夏草がぼうぼうと生えた丘の上、人がまばらに列をなす。それはやがて大群とも呼べる数になった。そのころには、陽は沈み切り、オレンジ色の光をわずか遠くに残すだけだった。
増えていく人。明かりをともす提灯。浴衣に赤子。虫の声。
夏がそこに深まっていくんだ。それをふいに理解した。
「ああ、友達が来たんだね」
河川敷の丘には小さな公園があった。遊具の決して豊富ではないそこで、君は数人の友達と座り込んだ。
羨ましいな。僕はそう思った。その数人の友達の中に、一人だけ、君にとって「本物」と呼べるものがいたから。嘘をついて笑わなくてもいいような、君の本物の友達だった。
「そろそろ、始まるよ。僕は撃ちあがるだけのただの火炎だ。そして、多くのうちの一つに過ぎない。君が僕を見つけるなんてことはきっとありえない」
だけど、僕は決意するんだ。
「僕は、君となら友達になりたいよ。この声が届かないのが、短い僕の生涯の、唯一の心残りだね。消えゆくとき、きっと僕は一人だ。君と違って友達なんかいやしない。でも、だから、君のことを友達と思って飛び散ってもいいかい?────ああ、そうか。許可さえも、僕は取れないんだったね」
河川の上、君が辺りを見渡した。僕は思わずどきりとする。そんなことはないとわかっていても、君が僕を見つけようとしているような気がしたから。
「僕に言葉はない。厳密に言えばあるんだろうけれど、君に届く言葉は、生憎ない。そうだ。だから、せめて燃え尽きる瞬間は君だけのことを考えて、君だけを笑顔にして見せるよ。一瞬の命の中でようやく見つけた、僕の存在意義だ」
とうとう暗闇が河川を覆った。わずかな街灯と、出店の赤い光が辺りをぼんやり照らしている。花火大会という行事の熱気に当てられた人々が浮かれ、騒ぎ、入り混じる。
君の姿が見えづらくなった。
「僕にそんなことできるのかな? 僕にだってわからないよ……君は、そこにいてくれるんだろう? 見ていておくれ」
僕は確信と一緒ににやりと笑う。今ならなんだってできそうな気がした。
「君のためだけに、僕は咲き誇るよ」
どんどんと地底を穿つような、火薬の音が響く。僕は次第に恐怖感を抱き始めた。
このまま消えてしまうんじゃないか。僕が放つ光の一片も君は見つけられず、僕は無駄に死ぬんじゃないか。そんな考えが次々に浮かんでは、轟音にかき消されていく。
仲間たちは次々に減る。聞こえない声は喜んでいるようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「ああ、ああ……」
僕の喉から声が漏れ出す。どうしてだろう?
一段と明るい白の光が丘を照らし出した。真っ暗の中に人々の顔が浮かび上がる。その中に、君はいた。よかった、まだそこにいてくれた。
「目をそらさないで。きっと君を笑顔にするよ」
僕は誰にも聞こえない宣言をした。その時が近づいていた。
そして、僕の足元で火薬が鳴った。一瞬の光。
僕の体が音速を越え飛び上がった。体がひゅうと風を切る。雲さえも突き抜ける勢いで高度を上げている。僕の体には火がついている。もうきっと、あと戻りできない。
「時間だよ。君を見つけられてよかった。勝手なことだけど、僕は君と友達になれた気がする。最期に消えるその一瞬まで、僕の、燃え尽きる火の、一かけらまで、君の目に焼き付けてほしい。あわよくば思い出してなんて、そんなことは思っていないんだ。ただ、僕を君の記憶の中に一瞬でいいからいさせてほしい。それだけだ──それだけなんだ。それだけで僕は死ぬことができる。散ることができる。君のために生きられた証明ができる。ありがとう。ありがとう」
勢いをなくした僕の体は最高到達地点で一瞬止まる。
星空。人波。街明かり。
足元で見上げる君の姿が見えた。
「ああ、僕は呆れるほどに幸運だ」
僕以外の花火はそこにいなかった。満天の星空と、仲間たちが燃えた硝煙だけが取り囲んでいる。
遊具の上。僕だけを見上げる君と、目が合った。
「初めまして。そして、さよなら────さあ、笑って」
その時だった。
それは、もしかしたら幻覚だったのかもしれない。幻聴だったのかもしれない。
僕の思考が見せた、一瞬の夢幻だったのかもしれない。もしそうなら、僕はどうしようもないほどおめでたい。
でもきっと違うんだろうな。君は、見つけてくれたんだよね。
遊具の上の君が、こっちに右手を伸ばしている。泣きそうな顔で、僕の死を惜しんでくれている。
「消えないで……」
涼し気な君の声がした。
「僕は、本当に幸せものだ」
思わず僕は涙を流した。この雫が君の涙と同じ色なら、それほど嬉しいことはない。
まもなく、導火線の火が体の核に到達した。
精一杯笑って、格好つける。死ぬのは怖いけれど、この幸福感の代償ならなんでも受け止められる。
僕はもう一度君を見た。
「その目に焼き付けて。この夏を、どうか忘れないで」
僕は青い光を纏って爆ぜた。
視界がぐらりと揺らぐ。痛みはなく、熱くもない。
ただ、咲けたことに安堵を抱いていた。
消えるまでの短い時間で、君の顔を見た。
青く照らされた目がキラキラ輝いて、君は口を半開きにして両手を必死に叩いていた。
夜空に咲く僕は、大輪なのだろうか。君の瞳が、青空のごとく紺碧に染まっている。
そこから、涙が流れていた。この世の物とは思えない煌めきと一緒に。
「泣かせたくて、死ぬんじゃないよ」
燃え尽きて感覚すらなくなった口で、僕は微笑みかけた。
まもなく視界が黒く幕を下ろす。耳も、鼻も、目も、体の全部がとうになくなった。
心の中でもう一度さよならを呟いた。結局君は一度も笑ってくれなかった。
でも、もういいんだ。それを心残りに感じる僕は、もうこの世に欠片さえ残っていなかったから。
*
「どうしたんだよ、そんなに手ぇ突き上げて」
僕の友達がケラケラと笑う。
「今、あの花火が僕を呼んでくれた気がしたんだ」
「はあ? なんだそりゃ」
「ほんとなんだ。何となく悲しくて、涙が止まらなかった」
「……」
友達は言ってくれた。
「まあ、お前がそう言うならそうなのかも知れねぇな。花火に感情が無いなんて、誰が決めることでもねぇし」
「……うん」
僕は何となくうれしくなって、涙を拭う。
それから、友達に聞こえないように、さっきの青い花火に言った。
「ありがとう。さよなら」
花火も、夜も、提灯も。
夏は全部好きです。