黒歴史修正主義者
誰にでも黒歴史くらいあるだろう。当時は本当に死にたいと思うほど恥ずかしかった。中二病どころの騒ぎではなく、本当に自分が狂っていたんだろうと思う。このことは本当にここだけの話にしてくれ、な。頼む。もうなかったことにしたいから。
ある日、森の中を歩いていたら、突然木々がざわざわとしはじめ、あたりが暗くなった。怪しい空気が立ち込め、霧が視界を狭くしていった。地面は揺れ、木々はどんどん枯れていく。ふと足元を見れば、ヒルのような気持ちの悪い生き物が、自分の体をよじ登っているのが見える。何が起きているのかわからず立ちすくむ俺。しかしそこに、まばゆい光を放つ生命体が現れた。
金髪の、小さな少女のような妖精だった。聖子ちゃんカットの金髪に映える、クリっとした可愛らしい目に吸い込まれそうになる。その可愛らしい妖精さんは俺の目の前で止まると、合掌するようにして祈りを始めた。天使のような羽が大きく広がりだし、妖精さんの祈りの声が大きくなるごとにあたりは徐々に元の姿を取り戻し、足元に這いつくばる気持ち悪い生き物はいつの間にか姿を消していた。
「すごいよ妖精さん! ありがとう!」
妖精さんはうふふ、と笑ってすぅっと姿を消した。どこか歩美に似た、愛らしい表情が脳裏に焼き付く。ああ、また会いたいな。会えたらたくさんおしゃべりしたいな。何を話そうかな。そればかりが頭の中をよぎる。そして、何を思ったか妖精さんと同じように合唱ポーズをし、テキトーに作った無茶苦茶な呪文を唱え始める俺。自分でも自分の体がコントロールできない。もしかしたらこうする運命なのかもしれない。ということは、俺と妖精さんは元々運命で結ばれているから、体の中から勝手に呪文が出てくるのだろう。きっとそうに違いない。呪文をとにかく一生懸命唱えていると、本当に目の前にあの妖精さんが現れた。
「え、なに?」
さっきとは打って変わって無愛想な妖精さん。
「お持ち帰りコースは今日は予約いっぱいなんだけど」
お持ち帰りコースってなんだ? そもそも予約制なのか? 妖精さんって。
俺はわけがわからなくなって、ただただ妖精に向かって謝った。こういう無愛想なところは歩美とは似ても似つかないな。俺の中で何かが崩れる音がした。運命ではなかった。それがショックだった。
自暴自棄に陥った俺は、援助交際でもなんでもやって、とにかくこのイライラを収めようと思った。そもそも援助交際って男子中学生ができるようなことではない。お小遣いも少ない俺ができっこないことはわかっているが、全財産を叩いてでもこの鬱憤を晴らしてやるのである。財布の中身を除くとそこには5万円とちょっとが何故か入っていた。これで年上の女子高生を釣ってやる。金に溺れて俺の前で脱ぐ女。それを上から目線で見回す俺。援助交際でお持ち帰りをした女が俺のはじめての女になる。良いさ別に。
しかし女も実際には馬鹿ではなかった。それはそうだ。中学生から声をかけられてもお金を持っているとは思われないだろう。何人に声をかけてもダメだった。相手してくれない。そこで俺はなんとか金で女を買うためにそういうお店に向かった。ピンク色のネオンと客引きが俺を包み込む。5万円で何ができるかはわからないが、とにかくやってみることに価値があるのである! あのクソ妖精をギャフンと言わせるためにはヤッてみる事がとにかく大事なのである! 意気揚々と薄暗いお店の中に入っていくと、ちょうどハーフタイムショーで盛り上がっていた。よし、俺も! と思い女の子と呼ぶと、なんだか形容しがたい幸薄そうな女性が来たので勢いよくチェーンジ! と叫んだところで場内に悲鳴が上がった。何が起きたのか分からない俺はキョロキョロとあたりを見回したが何が起こっているのか見当もつかない。すると幸薄そうな女性がひ弱な悲鳴を上げ僕の後ろを指差した。ハッとして振り返ると、そこには巨大なオオカマキリが僕を睨んでいた。
オオカマキリ? なんで? というのが正直な感想ではあるが、とにかくここは身の安全が第一。ひ弱な悲鳴のさっきの女性はやはり幸薄かったのか、僕を突き刺そうとした狙いが外れて、カマのような部分が思い切り体を貫いていた。可哀想に。
人のことなどかまっていられない俺はとにかくまっすぐ走った。まっすぐ、まっすぐ。とにかく息が切れるまで、足が棒になるまで走りきった。するとそこは、世界の終点だった。地球には端っこがあったのである。下に流れていく海の行方を見つめても、延々と続いていたため下に何があるのかは見えなかった。
でもよく見るとそこには、森で出会ったあの妖精がいた。あの時みたいにふわっと浮いているわけではなく、溺れかけていた。俺はさっきの無愛想な彼女を思い出したが、それと同時に、あのくりっとしたきれいな瞳の、可愛い笑い方をする妖精さんも思い出した。気付いたら体が勝手に動き、手を差し伸べていた。宇宙につながる地球の端っこで、滝のように落ちていく海の方に手を伸ばし、なんとか引き上げようと思った。
「がんばれ! 今助けるから!」
「え!? あ、あのときの……?」
バタつく妖精さんは俺のことを覚えてくれていた。そんなつかの間の喜びも虚しく、距離はゆっくりと遠ざかっていく。
「ごめん……もう……無理みたい。でも、嬉しかった。あなたみたいな人がいて」
諦めたその表情はどこか切なく、まるで夏休み前に転校していく同級生のようだった。
「そんな、まって!」
手を伸ばしたが間に合わず、ついでに俺の体もふわっと浮いて落下を始めた。あ、終わった。そう思った。これまで出会った聖子ちゃんカットの金髪の妖精、援交を断った女子高生、幸薄かったあの女、みんなが走馬灯のように駆け巡った。森のあの奇妙な光景も、オオカマキリも、そして世界が崩れていく様子も、全て、森羅万象が走馬灯のように駆け巡っていった。どこまでも果てしなく落ちていく。ああ、これが宇宙の真理なのだろうか。そして、俺自体も存在が消えていくのである――。
気付いたときには机に突っ伏していた。先生を始めクラスの全員が俺の方を見ている。どうやら全部夢だったみたいだ。なんだこの支離滅裂な夢は。
「どうした武井ぃ、歩美ロスかぁ」
クラス中にクスクスと笑い声が充満していく。なんで教師までこう俺をいじってくるのか。
「そんなんじゃないっすよ!」
恥ずかしくなってうつ伏せるしかなかった。
どうやら夢を見て、その夢の中で歩美との思い出をデフォルメしていたらしい。何という痛い夢。自分自身が恥ずかしくて仕方がない。
「はいはい、じゃあさっきのもう一回復習しとくと、えー白洲次郎は」
え、金髪美女は? 聞き間違いか?
「留学した経験から、英語が堪能で」
聖子ちゃんカットで?
「少年時代は」
妖精みたいな?
「武相荘で農業に励み」
無愛想でお持ち帰り?
「戦後混乱期はサンフランシスコ講和会議」
援助交際期はハーフタイムショーでオオカマキリ?
「マッカーサーを叱った男といわれた」
真っ逆さまで森羅万象を見た?
ああ、やっちまった。眠たくなって、先生の言葉を半分だけ聞いちゃってたら変な夢を見ていたらしい。しかし本当に恥ずかしいのは夢の中で勝手に歩美をデフォルメしてしまったということである。何やってんだ、俺。なにが金髪の聖子ちゃんカットだ。妖精みたいとまで思ってしまっている。急に耳たぶが熱くなってきたのがわかった。
今すぐにこの黒歴史をなかったコトにする。
俺はそう心に誓って、チャイムと同時に学校から逃げ出した。