第四話 割り切らずに駆り立てられるまま走れば、横たわる前になにを望むかわかるだろう(後)
学校が始まる時間だったけど、もう登校する気にはなれなかった。
青いパーカーを着ただけで、ぼくは外に出た。
どこに行きたいわけでもない。
目的地なんかないままに、今はただ走りたいと思った。
あの交差点にやってきても、もうそこに母さんがいないことはわかっている。
今日はミノリに出会うこともない。
そのまま道を逸れて通学路から離れると、いつのまにか土手を走っていた。
住宅が密集する場所と違って、川のそばは自然も多く、遠くまで見晴らせる場所になっている。
なにより人がいないことに安心して、ぼくはそのままうつろに道を北、川上に向かって上り続けた。
元々ぼくだってそんなに運動が得意なわけでもないし、体力もない。
もう走ることは出来ずに、ただ無気力に歩き続けるだけだった。
鉄橋がかかっていて、その上を朝の通勤ラッシュで混み合う電車が通り過ぎていく。
学校のある場所とは路線も違うので、あそこにぼくのクラスメイトは一人もいない。
運ばれていくのは、ぼくが全く知らない、顔を合わせたこともない誰かだ。
川原を歩いていると、時折ジョギングをする人とすれ違う。
息を弾ませて走る人は、ぼくをほとんど無視して通り過ぎていくか、さもなければ泣きそうな顔をして歩いているぼくを見て、ぎょっとしながら去っていく。
その度に自分の哀れな姿を無理矢理思い出してしまうぼくは、居たたまれなくなって、次の高架下でついに尻餅をついて腰を下ろしてしまった。
一体なにをやっているんだろう。
頭の中をぐるぐる同じ考えが回って、気持ちが一本化出来ない。
もうなにをどうすればいいのかすらわからない。
「やっぱり……こんなところでなにをしているの」
そう言ってぼくの肩に触れる細い指先。
顔を上げても、溢れてくる涙で顔が見えない。
だけどその声は、間違いなくぼくの知っている少女のものだった。
彼女はぼくの隣に腰を降ろすと、制服のスカートがめくれないように整えてから、肩に手を回してきた。
質問しておいて彼女はなにも語らない。
ただ黙ってぼくの隣に座っているだけだった。
伝わる温もりの中で、轟音を立てて通り過ぎる列車の音に紛れて、ぼくはまた泣いた。
「もう落ち着いた……?」
それから何分経ったかわからないが、ふっと隣から届く吐息がぼくの肩に触れて、やっと会話が始まった。
ぼくはなにも知らされていなかったこと、騙されていたことを、里の秘密を知られない程度に薄めて彼女に話す。
それは支離滅裂で、さぞ意味の通らない会話だっただろう。
だけど彼女はできた幼なじみらしく、質問を被せたり疑問を口にしたりしない。
時折頷きながら、肩に回した手でぎゅっとぼくを抱き寄せるだけで、黙って話を聞いてくれた。
普段なら、そんなことをされても恥ずかしいだけだ。
むしろ惨めで惨めで、いやになって逃げ出している方が普通かも知れない。
だけどその時だけは、ぼくも逆らわなかった。
そんな気力もなくなっていたからかも知れない。
「これからどうしたい……? 今からチヒカさんを殴りにいこうか?」
今まで聞いたことがないような優しい声音で、随分物騒なことを言う。
そうじゃないよ。ぼくがしたいのはそんなことじゃない。
「でもただ許すのは癪だよね。今引っかかっているのはそのことなんでしょう?」
そう、なのか?
「妬けるな、チヒカさんって人に……」
そんなんじゃない。いや、そうなのかも知れない。
誰よりも信じているから、裏切られたことに腹が立つんだ。
「好きだから許せないんだよ。だったら怒って、気持ちを全部吐き出してから許してあげなさい」
それは優しい声だけど、完全に強制する囁きだった。
だけど今のぼくには、それが心地よくはまっていく。
何故そうなるかはわからない。
触れ合う肌の温もりに、騙されているだけかも知れない。
だけどその時、不思議と逆らおうとは思わなかった。
何故かそうすることが一番の解決策だと、ぼくは疑わなかった。
「私も怒ってるけどね。私だってずっとそばにいるのに、他の人をそんなに好きになるなんて。だから私も怒ることにするよ」
彼女の涼しげな声と共に、すぐそばにあった唇が触れた。
それはほんの一瞬のことだったけれど、触れ合った唇ごしに、一番熱い温もりが直に伝わってくるのがしっかりと感じられた。
これが彼女なりの報復なのだろう。
ぼくはそれを受けざるを得ない立場にいる。
「さっさと行っちゃえ、この浮気男」
ぼくは立ち上がると、お尻を払いながら駆け出していた。
振り返ると、そこには幼なじみの寂しそうに笑う顔。
ぼくは彼女に一度だけ手を振ると、すぐに前を向いて走る速度を速める。
どこに行けばいい? わからないまま走ったって無駄だと考えてはいるけど、動き出す気持ちを止められない。
いや止める必要はなかった。
唐突になにかにぶつかったと思うと、ぼくはそれを押し倒して地面に突っ伏していた。
柔らかい感触に顔を埋めながら、痛みに顔を揺すると
「こ、この破廉恥男が! 何回同じことを繰り返せば気が済むんだ、離れろ下郎!!」
思い切り後ろに突き飛ばされたぼくは、背中をしたたかに打ちつけて、さらに痛む場所が増える。
こうも物理的ダメージが続くと、こんがりと両面を焼き上げられた気分になる。
怖い顔で立っていたのは、あのミノリだった。
背中とお尻を払いながら、ギロッとこちらを睨む金髪の少女は、ぼくが擦りつけたのであろう胸元を押さえて、これ以上触れられないようにガードしている。
サイズとしてはアキミは問題外としてハルカにも及ばず、トウカには勝てるという程度である。
この状況ではどうでもいいことではあるが。
「ふん、どうやら自分で言っていた通り覚悟は決めたようだな。お前の言いなりになるのは気が進まんが、約束は約束だから教えてやるよ。ついてきな」
最初ミノリがなにを言っているのかよくわからなかったが、不良の「顔かしな」ばりに顎でしゃくられると、早速せかせかと歩き出すミノリに合わせて、ぼくも腰を浮かせた。
すぐその小さな体が、くるりとぼくの方に向き直る。
「いいか、私はお前の味方になったつもりはないからな。ただ荊のやり方が気に入らないから、今回だけ協力してやるだけだ。その辺勘違いすんなよ」
なんだかよくわからないが、彼女はもう敵ではないらしい。
とりあえず調子を合わせてうんうんと頷いてみせると、何故かちょっと頬を上気させたミノリは、また振り返って黙々と歩き出す。
なんなんだろう一体。
「ばか、さっさとついて来い!」
鋭い声がして、ぶんぶん手を振って呼んでいるミノリが、もうあんな遠くにいる。
ぼくは慌ててミノリの背中を追った。
その歩みは静かとは程遠く、何故かガキ大将のような大股開きの形になり、ドスドスと地面を掘削する勢いで叩いていた。
何故こんなに不機嫌なのだろうか……。
目指す方向はさらに北、山の方向に向かって、河川敷を川沿いに歩く。
小さなお尻をふりふり動かしている背中をぼんやりと眺め、それを追いかけながら、自分がなにをしているのか真剣に悩み始めた頃、その背中がピタリと止まる。
「ほら、あそこだ」
指差す方向では、絶望的な戦いが既に始まっていた。
一方的なのは火を見るより明らかな戦況。
チヒカさんと荊だ。二人がさらに距離を詰める。
荊の大刀が閃くのを、もうチヒカさんは受け止めることも出来ずに無様に逃げ回るだけだ。
とっくに散りきった桜の木が、二人の間に入ったかと思うと、一瞬後には音を立ててべきべきと音を立ててへし折れていく。
凄まじい斬撃の威力。
メイド服は既にぼろぼろで、肩は裂け、スカートの裾も切断されて、傷ついた素肌があちこちから覗いている。
むしろあの太刀を浴びて、この程度の外傷で済んでいる運動能力が凄いのだが……。
「勝てるわけないのに、勝負をつけるって挑んできたのさ、チヒカのやつ」
ミノリが隣で苛立たしげに声を放つ。
足を踏みならすと、さらに荊の大振りがチヒカさんを追いつめるように振るわれて、空気が悲鳴を上げた。
「ああー! もういい加減にしろ」
そう叫ぶミノリのウェイトレス服の奥から、砲門が一斉に伸びる。
服の構造とか、どうなっているのか。
もっとよく見ておくべきだったと思う暇もなく発射されるミサイルの束は、複雑な線を描き、重力を無視して飛んでいく。
着弾、爆発。しかしそこにもう荊はいない。
「なんのつもりだミノリ。やはり裏切るのか」
声がしたのは木の上だった。
攻撃を一瞬で見切り避けきった荊が、あの不気味な顔でミノリとぼくを睨みつける。
「あんたのその嫌味たっぷりなやり方はもうたくさんなんだよ! こうなったらヤケのヤンパチだ」
ぼくが荊の姿を捉えた次の瞬間には、どこから出てきて補給されるのかさっぱりわからないミサイルと機銃の束のようなものが、その空間を襲って、火薬が爆発した煙でまた荊が隠されてしまう。
荊は人間業とは思えない動きでそのミサイルをまた避ける。
さらに発射される弾丸、しかしそれも避ける荊。
着弾の経過で、やっと遅まきに目で追える荊の軌跡が、徐々に遠ざかっていく。
「邪魔だ。下がってろ」
そう叫ぶミノリが、回頭するついでにぼくを突き飛ばす。
地面に突っ伏したところに、メイド服の黒がふわりと被さってくる。
それはやっぱり血と汗の匂いがした。
「始様、何故ここに……」
ぼくはそのほとんど剥き出しの肩に反射的に手を置いた。
痛みにかチヒカさんの顔が歪む。
「責任取って死のうとでもしたの!? こんなことして誰が喜ぶんだよ」
あまりの爆薬の炸裂音の大きさに、聞こえているかも怪しい中で、ぼくはあらん限りの声で叫んでいた。
「ふざけんな! やるなら最後までぼくを守れ! 勝手に死ぬな!」
ぼくはそれだけ言い切ると、肩に置いた手でぐっと彼女を抱き寄せていた。
初めての抱擁は、ムードもなにもない爆発の中でのことだった。
驚いた顔をしていたチヒカさんが目を閉じる。
「ごめんなさい……」
「お取り込み中悪いんだけどさ……いちゃついてないでこっちの手助けも、んぎゃっ」
カエルが押し潰されたような声に振り向くと、そこには荊が立っていた。
ミノリはふんづけられて地面に突っ伏している。
不敵に笑う荊の体には傷一つない。
「我らの悲願を阻む者は、誰であろうと許さない。巫女を殺した私たちに、安らかな死があると思うな、チヒカ!」
鋭く声を発する荊は、やはり恐ろしい相手だ。
こいつに勝つことなんか出来るんだろうか。
「味方同士で争ってまで、どうしてこの世界が欲しいんだ!」
「そう教えられ育てられてきた我らに理由など存在しない。ただ奪い、成就させるだけのことだ。臆病風に吹かれてこの世界と同化した人間などに、我らは破れん」
「ならその世界に連れていけよ。ぼくが止めてやる!ぼくだってそちらの世界の人間なんだろう。こんなくだらない戦いに意味はないってことを……」
「そのために、封印を解き元の世界に戻るための戦いだ、黒塔始。それが叶わなければ、我らはこの世界に冒されていずれ滅びる。いや既に滅びは始まっている……」
その時ビクッとチヒカさんの体が震えた。
それは一体どういうことなんだ。
「全てを教えてやる。だから私と来い! お前とて末路は我らと同じなのだぞ」
傷だらけの手を差し出して、荊がぼくを招く。
だけどお生憎。ぼくはその手は取らない。
「知りたいのは真実じゃない。そんなことはどうでもいい!」
「ならなにも知らずそのまま死んでいけ! お前はやはり危険だ」
荊が歯をむき出しにして笑う。
大刀を上段に構えて迫る荊の姿は、ぼくの死を確定する死神と同じだ。
細身の体が弾け跳んでぼくに向かってくる姿が、またスローモーションのように瞳に映る。
ああ、このまま刀を振り下ろされて、ぼくの命も終わりなのか。
今まではまるで動きも追えなかったのに、最期のこの時だけはやけに刃の動きがありありと見える。
このまま右の肩先から入って左のわき腹に抜ける……即死かな。
だけど、そうはならなかった。
驚愕に見開かれた荊の顔が苦悶に歪み、その動きが止まる。
いや、正確には動きが止まった後に、その瞳が驚愕に見開かれ、そして苦悶に歪んだのだ。
身動きできなかったのは何故だ。その答えを知っているのは、どうやらぼくだけのようだ。
そう、これはぼくが止めたんだ。何故かそれがわかった。
ぼくが荊を止めている!
「ばーろー……背中見せるとかなめすぎなんだよ」
荊に注目していたことでぼやけていた背後に焦点が合い、片膝を突いたミノリが声を絞り出しているのが見えた。
砲門から煙が立ち上り、荊の足元に血が滴り落ちる。
これが荊の苦悶の表情の正体だ。
ぼくが作った一瞬の停止時間に、ミノリが決めてくれた。
そして訪れた苦痛による隙をつく形で、チヒカさんもいつの間にかぼくから離れて走り出していた。
グシッ、その音をぼくは近距離でまともに聞いた。
刀が肉を選り分け、骨ごと引き裂いていくいやな音だ。
血飛沫が舞って、荊の胸元に躍り込んだチヒカさんの顔が紅蓮に染まる。
その少し上で、荊の顔が、驚愕から徐々に笑みに変わっていった。
まず大刀が地面に突き刺さる。
そして荊の体が音を立てて崩れ落ちていくのを、ぼくは声もなくじっと見守っているしかない。
「そうか、やはりそれがお前の力か……あの時、さっさと始末……しておけばよかった」
そう呟いた荊の声は、彼女のものとは思えないほど急速に弱々しいものになっていく。
「宿願果たせずに終わることをお許しください。お師匠様、こんなことなら、貴方の言うことを聞いておけばよかった……花凛、お前の言葉も……」
そして目を閉じた荊は、二度と目覚めることなく、そのまま雪が溶けるようにぼくたちの目の前で消えていった。
この世界にやってきてから何十年も、こいつは一人で戦い続けてきたんだろうな。
でも、それも全て終わりだ。
ぼくは今度こそ腰を抜かして倒れそうになった。
しかしそれが許されない状況が起こった。
ぼくがぎょっとしたのは、チヒカさんの体もまた荊のように砕け散ろうとしていたからだ。
「チヒカさん!」
ぼくが叫んで目を懲らした瞬間、それがただの幻影でしかないことがわかった。
ただ彼女は刀を取り落とし、その場に崩れ落ちていく。
素早く駆け寄って、それを受け止めることは出来なかった。
ぼくもまたその場に倒れ伏して、まともに動くことが出来なかったのだから。
そこでまた意識が途切れた。
ぼくが目を覚ましたのは、白い天井が見えるベッドの上だった。
カタンと派手な音を立てて起きあがると、すぐそばで椅子を反対にして、あごを背もたれの上に乗せて行儀悪く座っているお館様と目が合う。
この人はおばあさんというより、まるで近所の悪ガキのようだ。
「目が覚めたようじゃの始。ここはメイドの里の息がかかった病院じゃ、安心せい。今回はご苦労じゃった、そしてまずは謝らせてもらう。お前になにも告げずにいたこと、チヒカのこと、全てわしも知っていてのことじゃ。すまぬ……」
機先を制されて一気に言われると、こちらもなにも言い返すことがなくなってしまう。
いいさ、どのみちそれはもう問題じゃない。それよりも……
「チヒカは別の病室で眠っておる。ミノリも一緒じゃ」
ぼくはひとまずほっと胸を撫で下ろした。
途端に空腹とけだるい感覚が体を襲ってくる。
ぼくは尻餅をついてベッドのスプリングに身を沈めていた。
思い出してもぞっとする時間だった。
なにもしていないのに、体中が芯から疲れているような気がする。
ぼくは反射的に時計を見てから、窓の外に目を移した。
夕焼けのオレンジが目に飛び込んでくると、それがメイドの里のオーロラを思わせた。
だけどその風景は山の木々ではない灰色の町だ。
音一つしない世界ではなく、車が走り鳥が飛び、人の気配が感じられる普通の光景、ぼくの日常。
「何年ぶりかで下界に降りてきたが、相変わらず忙しないところじゃの」
「里が静かすぎるんだよ」
「そうかも知れんな。どちらも自然とは縁遠い、人工的な世界じゃ」
緊張感を欠くお館様の声は涼しげで、それを聞いていると何故かほっとしてくる。
と、おばあちゃんの家の縁側気分に浸っている場合じゃなかった。
「チヒカさんは大丈夫なの?」
「うむ……命に別状はない、今のところはな。じゃが始。わしはお前に嘘をつき続けたが、またさらに過酷な真実を語らねばならん。聞いてくれるか」
「聞くよ、もうなにを言われてもあまり驚く気はしないけどね」
「すまぬ……じゃがこれを告げずにおくわけにはいくまい。そんなことをすれば、わしはお前に今度こそ八つ裂きにされてしまいかねないからの。あの時お前になにも告げなかったのは、チヒカの望みもあったし、自分で知らなければお前のためにもならぬと思ったからじゃ。答えを先に提示しても、それはお前たちのためにならぬ。卵の殻は自分で破らねばオムレツは出来ぬ……お説教はもういいかの」
「うん」
「自分自身の力には気づいておるのか」
「ぼんやりとだけど……ぼくはあの荊を止めることが出来た」
「能力者にはいくつかの種類がある。以前も言うたが、力を持つものは自身にあった特性を磨き、その能力を成長させるのじゃ。チヒカやミノリのように戦う能力を持つものは戦士じゃ。その能力も運動能力に特化したもの、飛び道具を操る者など様々じゃがな。他に予知能力を持った先読み、楽器を使うことで力を引き出す楽士、強力な結界を張ることが出来る盾神などというものもおる。封印の巫女はこの盾神と呼ばれる特殊な能力者の中で、さらに選ばれた能力を持つもののことじゃ。お前の母親花凛のようにの」
「それで、ぼくはなんなの?」
「お前もまた封印の巫女に次ぐ、いやあるいはそれ以上の特殊な力を持つもの、時士じゃよ」
「ときし……。時空魔法でも使えるのかな」
「わしも長年生きてきて時士を見るのは初めてじゃから、詳しいことはわからぬが、恐らく隕石を降らすことは出来まい」
「隕石はいいけど……それで、ぼくはこれからどうなるの」
「それは自分で決めることじゃ。里に来てくれるならもちろん歓迎するが、もはやそれを強制する理由はない」
「荊が死んで、ミノリも諦めてくれて戦いは終わったのかな」
「しばらくは平和かも知れぬが、恒久的とは言えぬじゃろうな。もうすぐチヒカが命を投げ出して張ってくれた結界も消える。その時また向こうの世界から刺客が送り込まれ、そしてこの世界に潜んでいたものも新たに目覚めるじゃろう」
そこまで平静だったぼくは、その言葉に素っ頓狂な声を上げていた。
「なんだって? ここでチヒカさんの名前がどうして出てくるの。封印を施したのは母さんじゃなかったの」
その時お館様の小さな体が、小刻みに震えて唸り声のよう大きな溜息を吐いたのを、ぼくは驚きを持って見た。
「それがおぬしに最後まで隠しておった秘密の一つじゃ。五年前に封印を施したのは花凛ではない、チヒカじゃよ」
「チヒカさんは戦士なんだろ? ならどうしてそんな力が……」
「そう、チヒカにそんな力はない。しかしあやつは、自らが殺めた響のために、力及ばずなにも出来ぬ花凛のために、残る命の種火を全て投げ出すことで封印を完成させたのじゃ。それは奇跡というしかない、非情な話じゃ。封印が完成していなければもっと多くのものが死んだじゃろう。しかしチヒカは、自分一人の命で多くのものを守ったのじゃよ」
「なら、チヒカさんは!」
力の抜けたチヒカでは……ミノリが言っていたのはこのことだったのか。
「あの娘の衰弱は激しい。最後の時間をお前に捧げることで、あの娘は必死でお前から両親を奪った罪滅ぼしをしようとしたのじゃ。あの娘を許してやっておくれ、始」
お館様のしおらしい声に、ぼくは心臓を握りつぶされた気分になった。
チヒカさんがいなくなってしまう。荊を倒した時に見たあのビジョンは、幻なんかじゃない、チヒカさんの未来の姿だったんだ。これもぼくの持っている能力なのか。
ぼくは素早く地面に降り立つと、そこに置いてあった靴を足に引っかけた。ふらりとよろける体を、お館様の細い腕が支えてくれる。
小さな体からは考えれないほど力の籠もったその腕が、ぼくの体に回る。ぼくたちはそのまま廊下を歩いて、一直線にチヒカさんの病室へと向かった。
病室にはミノリがいた。
相変わらず場違いなほどのオレンジウェイトレス姿だが、本人は気にもせずに行儀悪く足を組んで、小さな椅子に座っている。
「来たのか……チヒカなら今眠ったところだよ」
ぶっきらぼうに言う口調は、どこか不機嫌そうだ。
そういえば、ミノリが上機嫌だったところを見たことがない。
だけどぼくはミノリにはほとんど注意を払わずに、ベッドの上のチヒカさんを見た。
眠っている顔はあどけなくて、戦っている時の攻撃的な美しさはどこにもない。
本当にどこにでもいる普通の、しかしとびきり美人の女の子にしか見えない。
そんなチヒカさんがもうすぐ死ぬなんて、想像も出来ない。
不意にその瞳が開いて、ぼんやりと焦点を合わせていく。
その目がぼくと合うと、チヒカさんは布団を猫手持ちして、顔を半分ほど隠した。
「は、始様。いらしていたんですね」
「うん、体の具合はどう?」
「はい、ミノリがうるさいので少し眠ろうと思いましたが、もう平気です」
どういう意味じゃこりゃーと後ろで聞こえた気がするが、それを部屋の外に押し出して牽制するお館様のおかげで、声はすぐ止んだ。
ぼくはなにか言いかけたが、喉をごくんと鳴らしただけで、言葉を続けることがもう出来なかった。
なにを言えばいいんだろう。
言いたいこと、聞きたいこと、喋りたいことはいっぱいあるはずなのに、言葉はなにも出てこようとしない。
やっと言えたのは、大して格好いいわけでもないことばかりだった。
「大丈夫だよ、早く元気になって、一緒に家に帰ろう」
「……はい」
精一杯照れを含んだ彼女の笑みは極上で、気持ちまで溶けてしまいそうなほど可愛いと思った。
だけど……ああ、その声の調子でわかってしまう。
それはもう叶わない願いなのだと。
「チヒカさんのご飯が食べたいよ」
「だけど、料理の腕はまだまだですから……」
「そんなのこれから上達していけばいいよ」
「そうですね、黄身だけを半熟にする方法も、頑張って覚えないと」
「チヒカさんが掃除してくれないと、家中汚れて仕方ないから」
「ちゃんとお洗濯もしないといけませんね。下着は毎日替えないといけませんよ」
「お母さんじゃないんだから……」
後ろでお館様とミノリの無言の戦いが終わったらしい。
パタンと扉が閉じて二人きりになると、ぼくたちはじっと無言で見つめあったまま、二人きりの時間を止めた。
「チヒカさんのことは、母さんよりも大事だ」
ほんの一瞬だけ触れ合う唇、ぼくからしたキスは、これが生まれて初めてのことだ。
だけどチヒカさんの笑顔は嬉しそうなものではなく、むしろ寂しそうだった。
「私は始様のお母様は越えられたけど、恋人にはなれないのですね……だけど、それでよかったのかも知れません。貴方を想う人を、決して離してはいけませんよ」
彼女はぼくの背後に誰の影を見ていたのだろう。
そのキスが余計なことを伝えてしまったのだろうか……? 自分でもよくわからない。
ただ変に気を利かせるチヒカさんを、その時はほんの少しだけ恨めしく思った。
チヒカさんがベッドの上で息を引き取ったのは、それから数日後のことだった。