第三話 洗われたお風呂の中で二人を包む泡を覗き覗かれて(前)
次の日の朝。
はちみつを塗ったトーストと淹れ立ての(インスタント)コーヒーが並ぶ食卓。
出迎えてくれるチヒカさんは、折り目正しい黒のメイド服を纏い、シミ一つない純白のエプロンドレスをひらめかせながら、ぼくの前にミニサラダの食器を差し出した。
テーブルの上にはドレッシングの瓶。
ここまで味つけで失敗する(手作り)要素なし、完璧だ。
ぼくはパジャマ代わりに着ている紫色のトレーナーの袖をまくって、朝食に手を伸ばす。
傾けるとすぐにも垂れ落ちてきそうなはちみつを、うまくパンの表面で転がしながら、大口を開けるぼくの気分はまるでどこかの三世怪盗である。
あ、油断したら手についたよ。はちみつはこれが困るんだ。
朝から妙にテンションが高いなあ、今日のぼくは。
心なしか緊張している様子のチヒカさんに、笑いかける余裕もある。
「食事を食べたら出かけるんだったよね」
「はい、迎えの車が来ることになっています」
「そんなに固くならなくても、覚悟はできているよチヒカさん」
まごつくメイドさんの姿を横目にしながら、ぼくはサラダを二口でやっつけると、トーストの皿に食器を重ねてチヒカさんの方に押しやる。
「美味しかったよ。ごちそうさま」
「それは皮肉ではないですよね……?」
ごめん半分皮肉入ってたよ。
と、口には出していないのに、底意を読みとったらしいチヒカさんは眉をハの字にした。
「申し訳ありません、不器用なもので」
それから数時間、やけに長細いリムジンに揺られて過ごす時間は、優雅ではあったが退屈でもあった。
隣に座るチヒカさんとなにか喋るといっても、特に話題が思いつけない。
そういえば家のこと以外、あまり普段から喋らなかった気もするなチヒカさんとは。
時折目が合うとドキッとしてしまうくらい、チヒカさんは綺麗だ。
それは芸術とか工芸品の美しさではなく、生身の人間が持つ柔らかい感触だと思う。
最初はただそばにいて、あれこれと世話を焼いてくれるだけで気持ちが和らいだ。
こんな調子だから住み込みで一緒に暮らすと言い出した時も、あまり強くは拒否できなかった。
本当になんとなく一緒に暮らすことになっていたとしか言いようがない。
だけど時々チヒカさんは、人を決して近づけない影も背負っているように見える。
それが何故なのか、なんなのかぼくにはわからない。
だけどその翳りに触れようとすると、途端に電気が走ったような衝撃を態度に出して、一気に距離が遠ざかってしまうのだ。
そんな距離を飛び越えられたらいいなと思う。
このメイドの里行きが、その転機になれば最高だと思う。
母さんのことを知ろう。
もう誰も泣かせたくはないし、いい加減な鬱々とした気持ちに包まれて生きるのもたくさんだ。
三人と話をして、その気持ちが強くなった気がする。
そしてぼくがまっすぐ前を向けば、きっとチヒカさんも少しはぼくの方を向いてくれるだろう。
なんとなくそんな気がした。
もちろんそれはぼくの勝手な思い込みでしかないのだけど。
今はそれで全てがうまくいくことを願うしかない。
メイドの里についた時、ぼくはすっかり眠っていた。
一体車がどこをどんな風に走ったのかすら、記憶にない。
もしかしたら里の場所を知られないように、こっそり眠らされたのかも知れない。
素人考えでもそう思いついてしまうほどに、その場所は別天地だった。
車を降りて背伸びをすると、そこに広がっていたのはオレンジ色の空だ。
夕焼けじゃない。
それはまるでオーロラのように天空にカーテンを作って、周囲の色をくすませていた。
呆然とオレンジに染まる空を見上げている後ろで、
「お疲れさまでした。では私はこれで」
運転手の黒服の男の人の声がして、彼は巨躯を丸めてすごすごと引き下がった。
その冷静すぎる声も、あれだけ長い時間運転し続けて肩一つ動かさなかった動作も、まるでロボットのようだ。
ターミなんとかではないと思いたい。
一度そういう色目で見ると、歩幅も定規で図ったように正確に見えてきて、ちょっと怖くなる。
「今日はお疲れでしょうから、お風呂の後お休みください。お館様は明日お会いになるでしょうから」
やっぱりこちらも疲れた表情一つ見せないチヒカさんが、淡々と言葉を紡ぐ。
みんなタフだなあ、ぼくは眠っていたというのに、車内生活だけで既にぼろぼろだよ。
ぼくはその言葉に頷きながら、もう一度周囲の景色に目を向けた。
空の色に続いてその異質さに気づいたのは、ここがやけに静かな場所だということだった。
自然の多い場所なのは空気の澄み加減でよくわかったけれど、それにしてはなんの物音も感じない。
まさに静寂。
自分の足音すら、遠く響いてやまびこになりそうな場所で、チヒカさんの声もよく通る。
一体ここはどこなのだろうか……? あの世ってことはないだろうな。
疑問は尽きなかったが、ぼくは案内されるまま純和風の屋敷に入っていった。
看板に「ようこそメイドの里へ」とあったのを見逃しはしなかったが、まるで悪ふざけのようにしか見えない、そののたくった乱暴な手書き文字を、じっと見入る暇もない。
「こちらになります。ではごゆっくり」
と通されたのは、どう見ても銭湯の男湯マークなのれんがかかった場所。
だだっ広い脱衣場には、人っ子一人気配がない。
少し高い位置にある番台も、お金を入れるドライヤーも、無意味に正確な体重計も、縦に差し込む木の鍵のロッカーもない。
松竹錠というらしいが。ってそれは銭湯だ。
ご丁寧に棚の目立つ位置に、ぽつんと一つだけ編みかごが置かれていて、その中に手拭いと着替えの浴衣が畳まれている。
これを使えということだろう、多分……いいんだよな。
よくわかっていないまま、ぼくは服を脱いだ。
人前でもない、誰に見られているわけでもないのに、やけに緊張するこの空気はなんだろうな。
タオルを腰に巻いて、カラカラと古典的な音が鳴る戸を開けて先に進む。露天風呂というやつである。
ひとの家のお風呂ってやっぱり緊張するな、などと余計なことを考えながら、洗い場を探しているぼくの目に唐突に飛び込んできたのは、女の子の一糸まとわぬ裸体。
「今夜はいい月じゃのう」
思わず凝視した姿は、日本人形のように透き通った肌の、しかし体つきはまるで子供のような人だった。
膝を立ててその上に指を置き岩場に腰かける姿は、大事な三点の各部位が辛うじて隠れるグラビアのようなポーズである。
長い銀髪はオーロラのオレンジを浴びて金糸のように光り輝き、湯船すれすれのところまで流れている。
その人の体から、慌てて視線を離すと、
「あわあわ、すみません間違えました」
と遠ざかろうとするぼくの足が止まる。
あれ、緊張に固まっているのか。まるで足が動かない。
「間違ってはおらんぞ、ここは混浴じゃ。始、おまえを待っておった。わしがこのメイドの里のお館よ」
え、お館様ってもっと年寄りじゃないの?
「嬉しいことをいうてくれるが、こう見えてもおまえのひいじいさんより長生きじゃよ、わしは」
確かに喋り方はそれっぽいが、声も体もそんな風には全然見えない。
むしろ全く似合っていない。これじゃのじゃ○リだよ。
考えながら、なんとか視線を逸らそうとしているのに、何故か目線が戻される……?どうなってんだこれ。
「あまり子供っぽい喋り方だと威厳がないらしくてのう。仕方ないからこういう喋り方にしておるが、もう少しくだけた物言いのほうがいいかの?オプションでわっちと一人称を代えてもよいが……」
いやそれは色々とやばいんで、固く遠慮します。
それよりこの身動きできないの、どうにかして!
「まあそう遠慮するな。この年になって、今さら恥じらいなどないわ」
いやそっちがよくてもこっちが困るんですが……。
「話を進めようか」
進めるなあっ。
「うるさい奴じゃの。お前の母親の話、早く聞きたいじゃろう……花凛、あの娘には悪いことをしたと思っておる」
その声と共に金縛りのような呪縛が解けて、ぼくは前のめりにこけそうになった。
いや、踏ん張れずに盛大にこけた。
そのまま倒れ込んだ先で、ふわ、と触れる柔らかいお館様の肌は、やっぱり年寄りとは思えない。
きめ細かい肌からは、年輪どころか赤ちゃんに触った時のようなしっとりとした感触しか感じられない。
薄めの胸のかすかな膨らみのラインが、逆に女を感じさせるこの微妙かつ絶妙な柔らかさは……って冷静に感想を述べている場合かっ。慌てて後方に飛び退く。
「まあよい、まずは背中を流してやろう。裸のつきあいは最高のスキンシップじゃ」
そのままお館様のペースで、ぼくは言われるがまま洗い場の椅子に腰かけて、背中に石鹸の泡をすりつけられていた。
なんでこんなことになっているのやら……嬉しいという気持ちすらないまま、ただ固まっていることしか出来ない。
当のお館様はどこか上機嫌だ。
鼻歌でも飛び出しそうな雰囲気で泡立つ手拭いを、しなやかに伸びる指先で操る。
なんの拷問だろうこれは……。
「母親のことは覚えておるか?」
「ぼくが覚えているのは、普通の母親だったことだけだよ。スーパーの特売荒しが趣味で、時々ものすごくぐうたらで、少ししけったせんべいが好きで……」
ぼくは必死で話題を逸らすことで、背中に感じる苦しみに似た心地よさに耐えていた。
とても真面目な話をする雰囲気じゃない。
「そんな面もあったとはのう……あの娘は生まれついての忍じゃったよ。他に替わる者のいない、非常に高い能力を持っておった」
「どんな能力ですか? くっ……そこ、くすぐったい」
「じっとしておれ……この里には色んな能力を持つものが集まっておる。桁外れの戦闘力を持つもの、予知能力を持つもの、時を操り時間遡航さえ可能とするものも過去にはおったらしい」
チヒカさんは戦闘力のカテゴリーなんだろうな。
「花凛も年頃になるまでは基礎的な戦闘訓練を積んでおった。戦士としては飛び抜けておるわけでもないが、まあ優秀な部類ではあったかの。しかしそれは結果的に見立て違いでの。あの娘は本当は、鍵を作る能力に長けておったのじゃよ」
「鍵を作る能力って?」
そこでお館様は背中を洗う手を止めて、いきなりぼくの片手をつかんできた。
二の腕に絡む手拭いと、その上から押しつけられる指先の柔らかさがくすぐったい。
一体ぼくはシリアスな会話をしながら、なにをして、もといされているのだろう……誰かに見られたら困るな、この光景。
即破滅だよ。
「空に浮かぶオーロラは見たじゃろう。あれは外の世界からやってくる侵略者を阻む防壁じゃ。しかしその防壁には扉がついておる。よって鍵を作り出し、それで錠前に封印をする必要が出てくるのじゃな。そのための鍵を作る力は、外敵の侵入を防ぐ最大の力となる。この能力を持つものは十年に一人も現れん。それもあの娘ほど強力な封印を施せるものは、歴代数えても何人もおらんじゃろうというほどじゃった」
「外敵って……?」
「そのままじゃよ。この世界は安穏としておるようで、実際は絶えず外……イヴンと呼ばれておるがの、そのイヴンからの侵攻を受けておる。それらのものを退けるため、この里は代々忍を率いて対処に当たっておった」
「それがなんでメイドなんですか?」
いやそれ以前になぜ外敵の侵入を防ぐのが忍なのか、そう聞くべきだったかも知れない。
「それはただの気分じゃ。いや……ある男の趣味と言ってもいいかも知れん」
最悪っすねその人。
この分だと忍の由来を聞いても、あまり有効な回答はなさそうだ。
「うむ……じゃがそれも遺言じゃでな。わしも嫌いではないから認めることにした」
「はぁ……ってわっ」
今度は反対の腕をとられて泡だらけにされる。
わきの下を触られるとくすぐったい。っ
ていうかこれいつまで続くの。このままさらに別の場所に進まれると、とても困ったことになるのですが。いや既にとても困ってます……。
「じゃが、それでも侵入者はこちらに現れる。その敵に攻撃を受け、この里も何度となく攻撃を受けてきた。その攻防は今もぎりぎりのところで続いておるのじゃよ」
もしかしてぼくを襲った金髪の娘も、そうなんだろうか?
「うむ、そやつもイヴンの一族のものじゃが。しかしもっと恐ろしい敵は他におる……」
お館様が、突然くるりとぼくの向きを替えた。
間近に迫る女の子の小さな体。いや、あの……。
これは老人、これは老人と唱えている間にその体がぶつかってきて……。
ガキッ、と鋭い音がしたかと思うと、ぼくはお館様にぶつかられた上に、さらに追い打ちを食らうように風圧で地面に叩きつけられていた。間抜けに泡が飛び散る。
「いたっ……一体なにが」
顔を上げると、そこには一人の男が立っている。
赤い軽装の鎧装束を身につけた、その鎧と揃いのように赤く燃える長い髪の男。
その手には長い大刀をがっちりと掴み、地面の岩をバターのように切り裂いている。
その姿は悪鬼羅刹と呼ぶにふさわしい不気味さと、人を威圧する不快な空気を持っていた。こんな恐ろしい奴が敵だっていうの?
「よもやこの里に直接乗り込んでくるとはの。それほどに始が欲しいのか……」
苦しげな吐息の混じる声にはっと横を見ると、お館様の白い肌に赤い線が走り、そこから血が滴っている。
「しばらく様子を見ていたが、これ以上お前を泳がせておく意味はない。帰ろう始、お前の知りたいこと、このばばあはなに一つ教えてはくれんぞ。俺が全て教えてやる。お前の母親のことも、お前のことも、そして父親のことも」
「どういうことだ、お前はなにを知っているんだ」
我ながら細い声だったと思うが、それでもぼくは懸命にそいつに噛みついていた。
好奇心がわかなかったわけじゃないが、その男の威圧するような目つきが気に入らない。
いや、怖くて仕方ないんだ、これは。
さっきからぶるぶると震えが止まらないのは、間違いなくこいつの冷たすぎる目を見たからだ……とてもついていく気になどなれない。
なによりお館様を傷つけた時点で、こいつは敵だとぼくの感性は断定していた。
だがそいつは一歩、また一歩とぼくに近づいてくる。駄目だ、来ないでくれ!
メキッと音を立てて、横っ腹からなにかが男にぶつかっていく。
あれは……チヒカさんだ。
蛇に魅入られたような呪縛から解放されて、ぼくはメイド服姿のチヒカさんの姿に、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「これ以上はやらせません!」
そのまま飛びかかるチヒカさんの細い忍者刀と男の大刀が、金属音を立てて弾き合う。
何度も何度も……激しく撃ち合う音が響き渡るが、ぼくの目にはなにも見えない。
どれほどのスピードで戦っているのだろう。
「あんな大物が乗り込んでくるのに気づかんとはのう……わしも老いたものじゃ」
「お館様……大丈夫ですか?」
振り返れば傷口を押さえるお館様の姿が目に入る。しかし正視は目の毒だ。
ぼくはなんとか傷口の辺りだけを見ようと思ったが、腰に近い位置の傷口を見たことで、見なくてもいい部分もしっかり見えてしまう。
草一本も生えない荒野だ……。
「うむ、大したことはない。しかし今のチヒカでは、とてもあやつには勝てぬかも知れん……」
床に片手をつきながら、苦しげに頭上を見上げるお館様。
全裸の姿から慌てて目を逸らして、お館様の見上げる方向を凝視しても、やはりそこにはなにも見えない。
ただ高速でなにかがぶつかっているような甲高い音が聞こえるだけだ。
これではチヒカさんが押しているのか、それとも押されているのかすらわからない。
目をしばたたかせてからもう一度空を見上げると、まるでスローモーションのように赤い男と、あちこちメイド服を裂かれて赤い飛沫を飛ばしているチヒカさんの動きがようやく見えた。
「危ないっ!」
そう叫んだ声にビクっと反応したのはチヒカさん。
ぼくの声が、チヒカさんの緊張を解いて余計なことをしてしまったのか?
しかし赤い男は不気味に笑うだけで、隙だらけのチヒカさんに手を出そうとはしない。
一瞬の静寂。
肩で荒々しく息をするチヒカさんが、そのまま地面に落下してくるのと、男が一瞬にしてオーロラの方向に飛び去っていくのは、ほぼ同時の光景だ。
ぼくは泡だらけの姿でそれを受け止める。
チヒカさんのメイド服が体についた泡で汚れるかも知れないと反射的に思ったが、その心配は杞憂だった。
もうその服は、ほとんど用を成さないほどぼろぼろだったのだから。
抱き留めた指から感じた感触は、ボロ切れのようになったメイド服より、チヒカさんの素肌の面積の方が多かった。