プロローグ お空の上からこんにちは かける二回
目の前が真っ暗になった。
それはスカートの中に顔を入れたから……ではなく。
いや、入れることは入れるんだけど、この後。
ぼく、黒塔始の父親が死んだのは、十歳の誕生日のことだった。
何故それを覚えているかといえば、その日がちょうどぼくの誕生日だったからだ。
そうでなければ、ぼくは父の命日など、すぐに忘れてしまっていただろう。
父の顔を思い出そうとしても、もうその顔がはっきり思い出せない。
それくらいぼくと父親の関係は、ひどく曖昧なものだった。
年に数度、家に帰ってくるというよりは、旅の途中で立ち寄る程度の父は、次来た時にはトイレの場所さえ忘れている始末だった。
いつも酷く疲れていて、そして全身傷だらけだった記憶が微かに残っている。
冒険家でもしていたのだろうか?
それでぼくたちはどうやって生活していたのだろうとか、本当はもっとやばい仕事でもしていたんじゃないだろうかとか、そんなことを考えたのは、ぼくがもう少し大人になってからのことだ。
突然告げられた死の通知に、泣き崩れた母親を見るのが辛い、
一番強い感情はそれだった。
現実感の乏しい通夜と葬式の後、少しだけ悲しいと思ったけれど、すっかり気落ちした母親を慰めることばかりに気を取られて、ぼく自身が本当の意味で人の死というものを理解したとは思えない。
ただ寂しいと思って、時々涙が勝手に出てきたのは確かだ。
ぼくが父親に対して抱く気持ちは、本当にその程度だった。
それから三年後、中学生になっていたぼくは、今度は母親の死を聞かされる。
その時はさすがにぼくも色を失った。
嘘だとしか思えなかった。
吠えて叫んで、暴れて、そして荒んだ。
意味もなく壁を叩きつけた腕が痛くて痛くて仕方なかったが、その痛みすら凌駕する喪失感と、ひとりぼっちにされた絶望的な気分が次々押し寄せてきて、どこにも逃げ場がなかった。
痛みが痛みを呼び、狂ったように体を傷つけて心も荒れる、繰り返し繰り返し味わわされる葛藤の悪循環。
その時の気持ちは、ずっと尾を引いて、今でも自分の中でくすぶり続けている。
男の子だから泣くんじゃないと言われたが、それは出来ない相談だと思う。
その言葉を不用意に投げつけられて、人前で泣くことをやめたぼくは、今度は冷めた子供だと言われるようになった。
ぼくの人生一体なんだったんだろうか。これからのことなんて一つも考えられない。
突きつけられたひとりぼっちの重さが、引いていく周囲の雰囲気が、ただただ寒くて自分を抱きしめていた。
それでも学校には行き続けたけど、もう仲のいい友達もいない。
また同じクラスになれたね、と幼なじみのハルカが言っていたけど、生返事を返すくらいしか出来ない自分が、我ながら寂しいと思う。
でも、どうすることもできないよね。
クラスの男子にも生意気なガキだって言われて、疎外されて、こっちも睨み返して結局孤立した。
ぼくのなにが悪いというのか。
お前と一緒にいたいなんて一言も言った覚えはないよ。大体年齢はお前も同じだろ。
……と、本当に余計な回想をいきなり挟んで、やっと話は最初に戻る。
ふと空を見上げると、まだ寒さの残る四月の空気の中、ピンクのゾウが飛んでいた。
いや別に気が狂ったわけじゃない。
本当にそれはピンクのゾウだったのだ。布にプリントされたものだが。
それがふわふわと飛んできたかと思うと、次の瞬間ぼくはゾウ(の中の本体)に体当たりを食らって、アスファルトの地面に突っ伏していた。
「いつつ……なに、なんなの」
やっとそれだけ言うと、ぼくは目が回りそうな頭を振って、なんとか状況を把握しようとする。
着陸の衝撃を全部ぼくに押しつけてきたそいつは、スカートの裾を押さえながら素早く立ち上がると、なおもぼくの胸の上に少し高いヒールのかかとを押しつけた。
いやそれ冗談抜きで、ほんの少しでも体重かけた時点で死ぬから。
よい子は冗談でもやってはいけないことを、この相手は平然とやった上にさらに酷いことを言い出した。
「なに見てやがる変態。そんなことより、やっと見つけたよこの………○×野郎」
声が途中で途切れたのは、別に放送禁止用語が挟まったからではない。上空からさらに他の音が迫ってきたからだ。
グーンとなにかが降ってくる音。それは衝撃を発して地面に激突……いや意外に綺麗に着地した。
空からの来訪者に直前で気づいて、慌てて飛び退くピンクのゾウパンツの女の重圧がなくなって、ぼくはやっと上体を起こす。
飛び退いた時に体重をかけられなくてよかった、本当に。
意外に気づかいのできる優しい子だな、口は最悪に悪いようだけど。
顔を上げたぼくに、ふわと着陸の衝撃の波が、少し遅れて押し寄せてくる。
しかしそれは涼風と言ってもいいくらの弱さで、最初の推定体重五十キログラムほど+加速+ゾウ(その部分だけはマイナスな気もしなくはないが、細かい考察はやめておこう)のパワーに比べれば、驚くほど優しい空気だった。
ぼくの目の前でふんわりとはためく長い黒スカートの裾が、舞い上がり、そして落ちてくる。
ぼくの目線は当然その中の二本の足、ガーターストッキングとかいう白いものにきっちりと締められた細いけれど肉感的な……あ、真っ暗になった。
そう、これがぼくとチヒカさんの出会いだった。