花の名(2)〜隔たり
お風呂からあがると、ライオン男の言った通り、自分の脱いだ服とバスタオルを白いかごに入れた。 これで洗濯してくれるんだろう、と思いながら。 その後は黒色の水玉模様のパジャマに着替えて---匂いを嗅いで---扉を開けて、廊下を歩いて---温もりがまだまとわりついていて、視界が白くに滲んでいる気がして---リビングに戻って時計を見たら8時50分だったので、また階段を上って、ライオン男の部屋の扉の前で少し立ち止まってからまた歩いて、自分の部屋に戻って……。
そしてその部屋を眺めた。
木製のテーブルを、小窓とカーテンを、タンスを、ベッドを。
それらを見てから夏希は思った。帰ってきたんだと。信じられないくらい非現実で、本の世界のようにスリリングで、あの森の奥のように謎に満ちていて、あの大きな海のように漠然とした、そんな色々通り過ぎて、今朝のここまで帰ってきたんだと。 それは別の世界の出来事のように思えた。 例えば、ハリーポッターの世界みたいに、ある一つの超えるべき隔たりがあるかのような。 でもそうではない。すべてのことは一本の繋がった糸として、継続的に実際的に起きた事だった 夏希がベッドに座るまで感じていた事はそういうことだった。 そしてベットに座ってしまえば、まるで静かな場所に唐突に放り出されたような、そんな沈黙が訪れた。 その静けさの中で夏希は特に具体的なことは考えていなかった。 というより考えられなかった。 夏希にできたのは現実の一つ一つを指なぞり続ける事だけだった。 それが現実であることを自分に言い聞かせるために。 少なくともその後変化が起こるまで、夏希はそのようにただベットに座っていた。 変化は時計が9時を回った、ちょうどその頃に起こった。
いきなり音がなるという形で。
ラジオから聞こえてくるようだ。 アコースティックギターの音 だった。 夕暮れの優しい風のようなそのメロディーを夏希は知っている気がした。 それはデジャブのような感覚だった。 その曲が夏希に会いに来たみたいだった。 声を聞いて、その曲を思い出した。 でも曲名は思い出せない。 ただ、その暗い部屋に灯るロウソクの火のような、心に入り込んで自分の内側に深く染み込む、その声を思い出していたのだ。 その声はどこまでも彼女に寄り添っていた。 夏希はベッドに座りながら一生懸命耳をすませて心に染み込ませた。 そうしないと生きていけないほど心が不安定だからだ、今この声にすがらなければ、明日どうなるかわからないような気がするからだ。 その歌詞は自分のためのものだと思えてならなかった。 夏希には母が誰かも分からない、自分の家も思い出せない、自分がどんな過去を持っていて、どんな人間なのか 、どんな友達がいたのか何もわからない、自分が誰かわからない 、そして彼はこう言っていた、大丈夫だよ、と、いつかわかるんだよ、と、それでいいんだよ、と。
夏希はまた泣いてしまった。 ベッドの中に入った。 枕に顔をうずめて、芋虫みたいに体を丸めた。 掛け布団の布を握った。声がずっと聞こえていた。 彼はずっと夏希を優しく包み込んでいた 。鼻水を出した。 手にだして、どうすればいいかわからず、パジャマで拭いた。 駄目だったかな、と思ったけど、洗濯すればいいんだ、とすぐ思い直した。 それで明日がやってくることに思いを巡らせた。 でも不安は来なかった。だってずっと彼が歌っていて勇気がついていたから。 曲名を思い出した。 「花の名」だ。
ラジオからの彼の歌が鳴り止むと、また部屋に沈黙が戻った。 でも、さっきのとは全然違っていた。 今はもっと温かいし、頭の中では彼の歌が鳴ってもいる。そのまま天井の方を向いて両手を胸に添えた。 自分の鼻息が聞こえて、その胸が上下するのがわかった。 その中で色々なものが思い浮かんだ。 一番強かったのは母の姿だった。 でもやはり、顔は思い浮かばなかった。 ただ、それにも関わらず、その大きな存在は、漠然としつつもとても大きな包容力で彼女を包んでいた。 それから彼女の意識は別の色々なものを通って行った。 温かいお風呂場とか、ソファとか、外の道とかを。やがてそれは形を変え、道筋もデタラメなものになっていった。 最後の方、夏希はオムライスを食べていた。 ハンバーグ、コロッケ、今日食べたものは何だっけ? それが最後の思考だった。
8 隔たり
まだ幼い夏希は母がこぐ自転車に乗っている。 そこには様々な景色が広がっているはずだ。 でもその景色についての記憶はない 。それらはカラフルなカオスでしかない。 夏希の記憶にあるのは、自分が乗っている黒いカゴ、それから母の背中だった。 いつも途中で銀杏並木があって、それだけは鮮明に覚えている。 特に鮮明に覚えているのは、その独特の強いにおいだった。 その臭いを通り過ぎた後、いつもプールにたどり着いた。 夏希はとりあえず子供用のプールで遊んだけど、それほどまでは楽しくなかった。 大人用のプールが夏希にとって、怖かったせいもあるかもしれない。 大人用のプールはとても広大で、海みたいに思えた。 ただ、海とは違って、どこか薄暗く人工的だったから、それが不気味に思えた。 夏希はそこを通る度、自分がプールの中で溺れるところを想像した。 もしそうなったら、誰かに助けてもらわなければ死んでしまう。 でも、多分誰も助けてくれないだろうと夏希は思い込んだ。 みんな遊んでいる最中だし、特に自分は小さいから、誰も見つけられないだろう、と。 母なら見つけてくれるかもしれないとは思っていたけど、でも、母が溺れるところを想像すると、ゾッとした。 だから夏希は大人用のプールの側をいつも早歩きして通った。
子供用のプールに入ると、夏希はいつも無心で水遊びした。誰がどのように遊んでいたのかは覚えていない。 覚えているのは母の嬉しそうな顔だけだ。夏希がふとか母を見ると、そこに嬉しそうな顔があった。夏希にはどうして母がそんな顔するのかわからなかった。お母さんは見てるだけなのに、何が面白いんだろうと 。排水溝の事を憶えている。初めて排水溝に足を吸われた時、夏希は驚いた。それ以降、何度も排水溝に足を吸われ、遊んでいる時はいつも警戒する事となった。大抵楽しくなって油断した時に足を吸われたので、その度に顔をしかめた。なんとなく母に助けて欲しくて、顔を見つめたこともあった。でも母は嬉しそうな顔をしていたのでどうしてだろう、と思った。こんなに痛いのに、どうして心配してくれないんだろう。
保育園ではおもちゃで遊ぶ時間があったけど、夏希には何が面白いのか分からなかった。 いくつかのおもちゃのカゴが各自配られ、それで遊ぶという決まり事だった。 他にどんなおもちゃがあったか覚えていないけど、その中のカメラのものだけは覚えている。そのカメラのおもちゃを手にした夏希は理解できなかった。 どのように遊んだらいいのか、一体何が面白いのかが。でも周りの園児は楽しそうに遊んでいただから、夏希は残念な気持ちになった。まるで自分だけが遊び方を知らないみたいで。
物心がついた頃から、母はずっと黒髪のパーマのかかったロングヘアーだった。 だから夏希は、母はずっと生まれた時からその髪型なんだと思い込んでいた。でも小学2年の時に写真アルバムを見てそうじゃないとわかった。 そこには髪の真っ直ぐな母が写っていたから。 それで夏希は母に尋ねた。 どうして髪がまっすぐなの?それを聞いて母は笑った。 「夏希、お母さんのこのパーマ、生まれつきだと思ってるんだ」 パーマ、という言葉を知らない夏希は、ターマ、と誤って言ってしまった。 すると母はまた笑って言った。 「パーマよパーマ、美容院でこういう風にできるの」母はビールを飲んでいて、顔が赤かった。 夏希はその赤い皮膚を見て、痛かったりしないのだろうか、と心配していた。
学校が終わると夏希は友達と遊ぶ事が多かったけど、誰とも遊ばない日だってあった。 そんな日はまっすぐに家へ帰るしかなかった。 いつも夕方になるまで家には誰もいないので、その一人の時間は寂しいものとなった。 家の扉を開けば、台所があって、そこを抜けた先にリビングがある。そして右手に夏希の部屋。その正面にはお風呂場があり、その少し奥に母の寝室が。自分の部屋は静かだから、その寂しい時間帯はリビングのソファに座り、テレビをつけることが多かった。 時折、壁に飾ってあるラッセンの イルカの絵をじっと眺めたりもした。色が鮮やかで、どうやってあんな風に色付ける事が出来るのだろう、と夏希には理解できなかった。 テレビの方は面白いわけではなかった。夕方の4時からやっているのはワイドショーかサスペンスドラマくらいだ。 ワイドショーでは皆面白いことを言わなくて、それがつまらなかった。 夜の7時からの番組ではみんな面白いことを言うのに、どうしてだろう、そう思って一度母に尋ねた事があった。「世の中は夏希が思うほど単純じゃないのよ」分からない、と夏希は言った。 だっておもしろい方がみんな得するんじゃないの?「そうはいかないんだって、面白い事だけでは世の中がうまく成り立たないの、夏希はまだわからないだろうけどさ」もっと単純だったら良いのに、と夏希は思った。 面白いことだけで成り立てば良いのに。サスペンスドラマの方は話の筋がさっぱりだった。最初に刑事が出てきて、次に誰かが死ぬ、誰かが泣き、誰かが怒り、たまに誰かが笑う。しかしそれに対する動機を理解することができなかった。 だから、気がつけば誰かが死んでいて、気がつけば誰かが泣いていて、気がつけば誰かが笑っていて、という風だった。 夏希はただそれを眺めていた。 そして終盤になると刑事が事件を解決して 決まって神妙な顔で何かを話し出す。いつも大体そうだった。夏希は刑事が何を言ってるのか聞いていなかった。他と同じように、ただその様子をじっと眺めていた。だからつまらなかったけど、その頃には大抵時計が5時を周ろうとするから、もう少しで夕方になると思い、そのシーンが来ると少し嬉しくなった。 6時を周ると、ほとんどのチャンネルのニュース番組になる。ニュースの内容自体はつまらなかったけど、それが始まる事は夕方が近づく事を意味するので、嫌だとは思わなかった。その頃辺りに母が帰ってくるので、嬉しくなってソファから立ち上がり、リビングを歩き回ったりした。
そのようにテレビ自体はつまらなかったから、観ずに過ごす事もしばしばあった。そんな場合は、リビングをただウロウロしたり、まれにベランダに出て外を眺めたりした。夏希の家の部屋は、集合団地の5階にあったので、眺めは悪くなかった。でも、それはいつもの景色に過ぎなかったから退屈だった。退屈なのにベランダの外に出るのは、同級生を見れるかもしれなかったからだ。実際、同級生が道を通る事がそれほど多くはないにしても、何度かあった。 その度、夏希は不思議な嬉しさを感じた。なんで学校では嬉しくないのに、ベランダから見かけたらこんなに嬉しいんだろう、何も変わらないはずなのに。 同級生を見かける度、手を振ったり名前を叫ぼうと構えていた。 でも実際にそうできたことは一度もない。 また、向こうがそうすることも一度もなかった。相手が気づいていないだけだったとは思っていたけど。でも、事実がどうなのかは分からない。 距離が遠すぎたから。
そういう時夏希は、ある隔たりのようなものを感じていた。学校の教室ではその人の存在をもっと身近に感じることができる、でも、ベランダから眺めるというシチュエーションに変わっただけで、その人は自分とは無関係なんだと、その存在が遠く感じられる。なんでなんだろう、その存在は何一つ変わっていないのに、 それはそのような隔たりだった。
母が帰ってくる頃合いは、階段を上る時の、鍵につけられた鈴の音でわかった。夏希はその鈴の音を聞けば気持ちが高揚した。 だって、後は温かい料理を食べて、7時からの面白いテレビを観て、お風呂に入って、布団に入るだけだから。「ただいま、お腹空いた?待っててね、今から作るからね」扉から出てきた母は、たいていそのような事を言った。その時いつも袋の音がする。袋から食材を出す時、母はどんくさいから、急いでよく食材など落として奇声をあげた。その奇声がおかしくて、夏希はよく「どんな声よ」と笑ったものだ。調理が始まると、テレビを見ながらその音が耳に入った。コツコツとか、グツグツとか、トントンとか 。夏希はソファでその音を聞くのが好きだった。出来上がると母は、もう出来たよ、と大きな声で言った。そうすると夏希はソファからテーブルへ移り、料理を待つ事に。でも母は馬鹿なところがあるから、よく何かをやり忘れる。例えば何かを作り忘れたり、ソースをかけ忘れたり、ひどい時はお米を炊き忘れたりした事もあった。そうなると夏希はソファで長い間、待たなければいけなかった。お母さんは何でいつも覚えないんだろう、と夏希は思う。でも彼女の方も大概だった。初めから期待しなければいいものを、いつも今日は大丈夫だろう、と思ってしまうのだから。
母は新聞配達とスーパーのアルバイトを掛け持ちしている。朝刊と夕刊の両方だ。一度、母がお風呂に入る前、お尻にアザができているのを見つけて、夏希が心配そうな顔していると、母は笑った。心配しているのに、母が笑う理由を理解できなくて、夏希は不思議に思った。
スーパーの仕事の方は、朝の8時から昼の12時までだ。家事と合わせればこれが中々の労働になる。だから、夕方の7時から夏希と母はテレビを観て過ごすのだけれど、時々母はテレビを観ながらも、ほとんどウトウトして頭を上下させているだけ、という事がよくあった。夏希としては、母と一緒にテレビを観たかった。 観ている途中で、眠って欲しくなかった。一人で笑ったり驚いたりするより、一緒の方が面白い。母が眠っていたら、テレビの事で何か言ったりできない。「今のすごかったね」とか「面白かったね」とか言いたい。それで夏希は、母が眠ると両手でゆすって起こした。母としても夏希の気持ちはよく分かっていたから、眠そうな顔をしながら、見てるから見てるから、といつも繰り返した。夏希はそれが嘘だとわかっているから、じゃあ何があったの?と問い詰める。その度、母はテレビ画面を眠そうにな顔で睨みながら、あてずっぽうで答えるものだから、その答えがいつも面白くて、母が眠たい時はテレビよりもその事の方が面白くなってしまうのだった。
夜9時になると母は寝室に移る。翌朝は新聞配達の仕事があるから、9時以降は静かにするという決まりだった。それでも夏希は9時以降もリビングのソファにいることが多かった。一つにはだテレビを観たいからで、もう一つには母の寝室から流れる音楽を聴きたかったからだ。従って、テレビを観たい時はヘッドホンをし、音楽を聴きたい時はテレビの音を消した。 母が聴く音楽は普通の小学生が好むような音楽ではなかった。でも夏希は母が聴く音楽が好きだった。ノラジョーンズとか、マーヴィンゲイとか、コリーヌベイリーレイとか、ビートルズとか。特に好きだったのはビートルズの「インマイライフ」。「インマイライフ」がかかると嬉しくなって、夏希の心は弾んだ。明かりの消えた静かなリビングのソファで瞳を閉じ、そっと耳を済ませる。インマイライフは優しい。バルコニーの椅子の隙間に、少し冷たい風が吹く、みたいな 、そのメロディーを聴くと、暗いリビングで夏希は胸を撫でおろすられるような気持ちになった。
朝、仕事のある日は残念ながら、母が先に家を出る事となった。だから母の勤務がある日は夏希が母に行ってらっしゃいをし、勤務のない日は母が夏希に行ってらっしゃいをする事となった。いつもその急ぎ具合で分かるので、母がバタバタしている朝は、夏希は残念な気持ちになった。夏希としては、母に行ってらっしゃいをして欲しかった。母を見送った後に家に誰もいなくなるのは寂しいから。母が休みの日は、夏希は少し嬉しくなった。 一緒にご飯を食べて後はいってらっしゃいをしてもらって学校に行くことができる。
朝食はたいていご飯と味噌汁だった。でも、味噌汁に具が全く入っていないことが多く、その場合は母が手を抜いているのだと思い、嫌な気分になった。苦言を言うと、次の日にはだいたい中 に具が入るのだが、その翌日にはまたなくなったりした。毎日入れてくれないと意味ないってわかんないの、そう言うと次の日にはまた具が入るのだけど、その次の日にはまた具がなくなってしまう。その繰り返しだった。たいてい母は、仕事が忙しいの、とか、お金がないの、とか、そんな風に言い訳するのだが、夏希にはそれが嘘だとわかっていたから、いつもため息をつくのだった。