図書館
5 図書館
「どうだい、中々良い眺めだろう」
石の階段を降りた先は砂浜だった。 砂浜をサンダルで踏み込んだ時、夏希は、過去のその感触を思い出した。 また、それと同時に、今まで彼女が見てきたはずの海の映像を思い出した。 しかし、この海の砂浜が比較的狭いことに夏希は気がついた。 横幅は大きく見積もっても、20メートル程しかない。 そして広場と同じように、砂浜の両側はフェンスに囲まれていた。 フェンスの奥はもちろん果てしない森。
とは言っても、海の景色は壮大だった。 目の前の景色は空と海の青で埋め尽くされていた。 その先には遮るものが何もなく、そんな広さをずっと眺めていたら、自分の体とその外側の世界との境界線がなくなって、あのはるか遠くに見える雲にまで吸い込まれていきそうな感覚になった。それは決して悪くなく、爽快な気持ちだった。
それから思いついたように夏希は波打ち際まで歩いて行った。 そしてゆっくりと優しく押し寄せる波に、そのサンダルの足をさらしてみた。 その押し寄せた波が、足に当たってからゆっくりと引いていく感触は、やはり夏希の心に何かを言っていた。 そのまま夏希は自分の足元を見つめながら、しばらくその感覚に浸っていた。それが終わると、夏希はライオン男の方を振り向いてみた。
彼は夏希の方を見ていたが、夏希にはライオン男が何を考えているのか全く分からなかった。 ともかく夏希はライオン男の隣に戻っていった。彼は喋った。
「夏希は食べ物は何が好きなんだい?」
いきなりのその質問に少し戸惑ったから、とっさに色々な食べ物を思い浮かべ、コロッケと半ば無意識に口走った。
「コロッケが好きなんだね、しかしコロッケは揚げ物だからね、なかなか手間がかかる、今日の晩御飯のメニューを決めるために訊いたんだが……、なるほど、私が君に何も教えないから、君は私に腹を立てて、それでわざと手間のかかる料理を言ったんだね、なかなかやりてだ」
その言葉の意味が最初よくわからなかったから、夏希は自分が何か悪いことを言ってしまったのかと心配したが、数秒でそれが冗談だと分かり、夏希は少し照れ笑いしてから首を振った。 その素振りを見てから、ライオン男は、フフフ、と笑った。「別に良いんだよ、夏希にも手伝ってもらうからね」
ライオン男は自分の名前を呼んでくれた。 それに好きな食べ物を訊いてから、冗談まで言ってくれたから、固く絡まった心が解きほぐれたみたいに、夏希の目に涙が溜まった。 そしてライオン男の赤い瞳がそれを見守っていた。 さあ行こう、と言って彼は元の道まで歩き出した。 夏希はその大きな背中を、ぎゅっと握るような気持ちでその後に続いた。
小道を抜けて広場に戻ってから、ライオン男は例の白い建物の方に歩き出した。 広場に誰か居ないのかと、夏希は期待して辺りを見回したが、人は誰もいなかった。 なんとなく夏希は寂しく思った。 それから、その無造作にはめ込まれた石の地面と、自分の足のサンダルをぼんやりと眺めながら歩いていた。 建物が近くなって、自分の中に興味が湧いているのを確認しながら、夏希はめい一杯目を凝らして中を覗いてみた。 そして、その中の風景が何であるか、夏希は言葉にすることが出来なかったけど、なんとなく自分がそこを知っているという、微妙な感触はあるようだった。そしてさっきと同じように、一歩一歩その風景に近づいていくにつれて、その正体が分かりそうだったし、その正体を知りたいという気持ちも強くなっていった。
いよいよライオン男はそのガラスの扉を開いた。 知らない世界の中の----おそらく知っている----建物に入る事で、夏希は自分でもよく分からないような不思議な気持ちになっていた。
扉の中に入ったそこは、室内特有の湿りっ気と、生暖かさ、そして認識できないほど小さな音の響きの数々などで、満たされていた。
一番最初にカウンターに目がいったのは、そこに人が立っていたからだ。青いサロンをかけた少し陰気な顔立ちの青年だったが、決して悪そうな人柄には見えなかった。この漠然とした非現実感の中で人を間近に見れたことが、夏希にはとても嬉しく思えたから、ライオン男が奥に向かって歩いて行っても、彼女はずっとその青年を見ていた。 カウンターの彼は夏希に対して、決して無愛想な顔はしなかったが、それでも微笑んだりしてくれなかったので、夏希にはそれが少し残念に思えた。
青年から意識が離れると、それは室内に集中された。 床は光沢があって、石の地面違いツルツルしていた。 奥には茶色い何かが規則的に並んでいた。 最初それが何なのか分からなかったけど、 数秒経ったら、それが本棚なんだと分かった。 先ほど感じていた微妙な感触が明確な形になった事で、夏希は不思議な気持ちよさを感じた。 あ、そうだ、ここは図書館なんだ、と。
室内の広いスペースに出た時、右手にいくつかの木製の机と椅子が並んでいるのが見えた。 壁には窓がついていて、外には森の緑が見えた。本棚にたどり着くとライオン男はそこで止まって本を眺め出したので、夏希も同じように本を眺めた。 すでに色々な事物について思い出していたとは言え、そこにある本の列を目にすると、彼女は新鮮な感覚が含まれた気持ちよさを感じた。 それは古い写真アルバムを見ているのとよく似た感覚だった。 「好きな本を選んで机で読めばいい」
ライオン男がそう言ったので、夏希は読みたい本を探すことにした。「選ぶ」という言葉は、夏希の心には楽しく響いていた。 実に色々な本があったが、自分の読みたい本はあまりなかった。 そうして本の列を目で追っていると、途中で夏希の意識はある一点に引き寄せられた。ハリーポッター……。 目を凝らすとそう書いてあるのが分かった。 自分のよく知る本だったので、夏希はそれを手に取り、パラパラとページをめくってみた。
「それが読みたいのかい?そうか、それなら机で読めばいい、私は外へ出かけるから、ここで大人しく待っていてくれ、決して図書館から出てはいけないよ、わかったかい?」
夏希が小さく頷くと、ライオン男は、よし、と言って出入り口に向かって歩き出した。 その背中を眺めた後で、夏希は館内を徘徊することにした。 まず初めに、そこに並べられた本を眺めながら、S字に本棚を徘徊した。1列目……、2列目……、と。
そして3列目に誰かがいた。
長い黒髪の女性……。グレーのセーターを着た彼女は、本棚の本を取ったり戻したりしながら、本を選んでいた。 夏希はしばらくその本を選ぶ手やら、セーターの胸の膨らみやら、黒くて長い髪の毛やらを眺めていた。 どういう訳か、彼女は夏希の方をたったの一度も見なかった。 まるでそこに夏希がいる事に気がついていないかのように。 夏希は少し寂しく思ってから、途中何度も見返しながら彼女から離れていった。
本棚のスペースを抜けた先は廊下になっているようだった。歩いていると、等間隔に幾つかの窓を通ることになった。一度立ち止まって、窓から見える風景を観察した。やはり森になっていて、どれだけ注意深く観察しても、そこには何もなかった。そんな風に果てしなく続く森の木々を眺めていると、夏希はなんだか、この世界のどこにいるのか分からないような、上手く手で掴めない不思議な気持ちになった。
窓から目を離して少し歩くと、何かの入り口がある事に気が付いた。どこなのか分からなかったけど、例によって、そこを知ってるような気がしたから、入り口の前にたって中を見た時、やはりそこがどドコのか分かった。トイレだ。
不思議と尿意を感じたので、夏希はそのままトイレに入った。 タイル貼りの綺麗なトイレだった。 そのタイルの光沢を眺めていると、夏希は記憶の回路から何かが引っ張り出されたような気持ちになった。 でもそれに名前をつけることはできなかった。 ドアを閉めて鍵をした瞬間から、彼女を取り巻く空間は一気に狭く 個人的なものになった。 世界の音のトーンが少し静かになった気がした。その静かな空間の中で、夏希は一瞬何をすればいいのか分からなかった。 それから故意的に、今から自分がおしっこをしなければいけない事について考え、行動した。 ワンピースを上げてパンツをずらし便器に腰掛けた。
おしっこが終わっても、夏希はなんとなく便器に座り続けた。 彼女がその空間で感じ取っていた事は、その静かなトーンと妙な非現実感と、そしてそれによる独特の無力感だった。 その無力感の嫌なところは、あまりにも漠然としているという点にあった。 夏希にはその無力感を消し去る為の努力のしようがないのだから。不思議な事だけれど、トイレというその非常に現実的な空間 にいるにも関わらず、そこにいる間が一番この世界が何なのか分からなくなっていた。 目の前の無機質な扉のグレーを眺めていると、なんだか、朝から続いていたこの世界の全部が嘘だったみたいで、少し怖くてソワソワした。 夏希はため息をついた。
ハア、という溜息は、その極めて静かな空間でとても重たく響いた。 夏希はその重たさをもう一度確認するために、今度は故意的にため息をついた。 しかし二回の故意なため息には、先ほどの重たさはなかった。 そこには作為しかなかった。
トイレを出たら夏希はハリーポッターを読みたくなったので、先ほど見かけたテーブルまで行こうと思った。 出入り口を左に曲がって、細い通路を通って、---それから窓の外を眺めて----その先の本棚を取って、そしてそこにある黄土色のテーブルについた。
テーブルにその黄土色の表面にハリーポッターを置いた。 夏希はまず初めに周りを見渡したけど、人の姿はなかった。 だから静かだったし、少し寂しく感じてテーブルの表面を指でなぞったら、冷たくてスベスベしていて気持ちいいと思ってから、その感触に懐かしさが含まれている事に気がついた。 そしてそれが夏希に母の事を考えさせた。 そしたらやはり寂しくなって、胸の奥がスポイトで吸われているみたいな、ねじれのような独特の感覚を感じた。 だから夏希は母の事は考えないようにしようと思って、ライオン男の姿を思い浮かべたけど顔がうまく思い浮かび上がらなかった。 それでもライオン男が居ないのは不安だったから、夏希は彼がいつ戻ってくるんだろうと思って気になった。 しかしそんなことを考えていてもライオン男が戻ってくるわけではないので、夏希はそこに置かれている少し大きな本を手にとって表紙を開くことにした。 周りに誰もいない静けさを、この世界がどこかわからないのを、抱えながら。
ハリーポッターは夏希の直感した通り面白かった。 1行1行進んでいくにつれて、夏希はこっちの世界から本の世界へと飲み込まれていった。 集中には波がある。 だからその間夏希の意識はこっちの世界と本の世界を、何度も往復する事となった。 先ほどまで私はハリーポッターの中に居た、でも気がついた時には机があって、本があって、誰もいなくて、ココがどこか分からなくて………、という具合に。 本の世界からこっちの世界に移動した時、夏希が感じた不安はそのようなものだった。そしてそこには 、大きな無力感があった。 まるで広い海の真ん中に漂流しているような。 ふと気がつけば夏家は机に座っている、辺りには誰もいなくて、とても静かで、本棚には知らない本がいっぱい並んでいて、カウンターには青年がいて、奥には森が広がっていて、外にはライオン男がいて…………、でも夏希にはそれが何を意味するのか分からないのだ。そしてだからこそ夏希は何度も本の中に飛び込んだ。 そうすることしかできなかったから。 そういう風に夏希は本を読んでいた。
どれくらいの時間が経ってからだろう、その時夏希の意識は本の世界から引き剥がされた。 向かいの右斜めの方向に人がいる事に気がついたからだ。彼女は先ほど本棚で本を選んでいた女性だった。 グレーのセーターを着たあの女性。夏希は彼女に注目した 。彼女はちょうど椅子を引いて座るところだった。 椅子に座ると頬杖をつきながら何食わぬ顔で本をめくり始めた。 夏希は少し残念な気分になりつつあった。というのも、グレーのセーターを着た彼女は、先ほどと同様に、夏希の方を見ようともしなかったからだ。 なんでだろう、普通は一回くらいこっちを見てもいいはずなのに……。それでも彼女を見続けた。
しかし、一貫して様子は変わらなかった。 そして時間が経つほどに不思議な気持ちが強まっていった。 何故なら、夏希は本を置いて継続的にじっと彼女を見ていたからだ。 でも彼女はたったの1度も夏希の顔を見なかった。 というより、そこに夏希が存在している事に気づいていないようだった。
そのせいで夏希は、自分がこの世界に存在していないような気持ちになった。 普通はそのようには思わないはずだけど、言うまでもなく、夏希は普通ではない世界にいる。 目の前にいる彼女こそが、夏希にとっての初めてのこの世界の住人なのだ。
あの人は私が本当に見えていないのだろうか?夏希の頭にあるのはその事だけだった。 それと同時に、その女性はずっと夏希の方を全く見ないわけだから、必然的に夏希のその疑いはどんどん大きく膨らんでいった。彼女はまだ頬杖をついて、本を読んでいる。眉が細く、そのうえ上を向いているから、捉え方によっては不機嫌そうに見えなくもない、そんな顔で。 ---これじゃあ私がこの世界に存在してないみたい…。夏希が軽く混乱することになったのはそこからだった。