黒い闇の中へ〜時計台のある広場
ライオン男はソファで待っていた。 夏希に気が付くと立ち上がった。 彼は幻影ではなく自主的に存在していた。 その姿を確認すると、何故か夏希は少しホッした。 「よくお似合いだ」と言って彼は微笑んだ。 夏希も少しは微笑もうとしたができなかった。 ライオンの目は赤かった。
行こうか、と言ってライオン男はリビングから廊下へと歩いた。 その廊下のすぐ先に玄関があった。青いシャツに赤い後ろ髪がかかっている。 そしてライオン男の後ろ姿のがっしりとした両肩からは、 頼もしさのようなものが漂っていた。 夏希はこの世界の不安の中で、ライオン男のその姿を 手綱にして呼吸していた。 ライオン男が段差に座る。 彼はカジュアルな革靴を履いていた。 そのサンダルを履きな、と彼は言った。 夏希がサンダルを履くと、ライオン男はドアノブをひねってその先へ通ずる扉をゆっくりと押し開けた。
4 時計台のある広場
扉が開かれた。 まず真っ先に夏希が感じ取ったのは、風が運ぶ新鮮な空気の匂いだった。 玄関の先の段差を降りる。 躓いちゃだめだよ、とライオン男。 段差の先の足下には、 茶色いレンガが敷かれている。その両脇には芝生が広がっている。 レンガの道が少しで途切れてそこに道路。 前方には一軒家の家が建っていた。
次に夏希が感じ取ったのは太陽の光だった。 その光に照らされたものは、 全て平等に明るく光る。 目の前の道路……、芝生……、家の屋根……、そして夏希の両手の皮膚……。
光ったライオンが歩いて道路へ。
太陽の光はとても心地よかった。 夏希は例によって、そこから何かを感じ取る。 それは今まで自分が太陽に照らされていた 記憶だった。 だがそこに映像はなかった。 そこには感覚しかなかった。 だからその感覚の 記憶の羅列は、 夏希の中で ゆっくりと 音もなく消えていく。 それにはもう、 手を伸ばすことすらできない。 道路に出て、改めてライオン男の家を観察してみた。 薄いベージュのオーソドックスな二階建てだった。 ドアが茶色くて、 ノブは銀色だった。 屋根は青かった。
夏希はふと思いついたように、その隣の家を眺める。 ソファから眺めていた家だ。 全く同じだった。 ライオン男の家と、何一つ変わらない。
そして次に、夏希の意識は森に集中される。 家の後方は森に囲まれていた。 夏希から見える所は全部だ。 そこに例外はなかった。
歩こう、と言ってライオン男は道路を歩き出す。 夏希は黙ってついていく。 サンダルから伝わる足裏の感触を、夏希は眺めていた。 片足を上げると板状の靴底がその足の裏についていく。 足を着地させると靴底がまず先に着地して、それを足裏が踏みつける。足裏に独特の感触が伝わる。 それの繰り返しだった。 そして夏希
はまた何かを感じ取る。 だがさっきと同じように、そこには映像がなかった。 そこにはやはり感覚しかない。 だからその感覚の羅列に 夏希が 手を伸ばそうとしても、それはもうすでに消えていて、 触れることができない。 頭の中で もどかしさが残る。 まるで、 さっきのハンバーグの 白い湯気が 消えていくみたいな 、もどかしさが。 明るくて 気持ちのいい日差し……。 光った森の緑……。 ライオン男の背中……。 夏希の知らない世界……。
夏希の知らない世界で、 ライオン男は 青いシャツを着て歩いている。 下半身にベージュのズボン。 先ほどと変わらず現実は継続されている。 そこに矛盾はないはずだ。 夏希は青空を見上げる。 真っ青な空に小さな雲がいくつか浮かんでいる。 1……2……3……4、 雲は四つだった。 それから夏希は後ろを振り返る。 ライオン男の家は、先ほどと色と形を変えずそこに立っていた。 もう一度空を見上げる。 小さな雲が四つ。 物事は完全な正しさで繋がりあっていた。
夏希の知らない現実世界で、 ライオン男が口を開いた。
「どうだい、散歩は 気持ちいいだろう?」 上機嫌な顔で、 ライオン男は そう言っている。 はい、と夏希は頷いた。
「今からどこへ向かおうとしているかわかるかい?」 夏希は首を振った。 「それはそうだね、いやあすまない、 少し意地悪だったね」と言って、ライオン男は、 顎の外側を 2本の指で なぞりながら、 フフフ、 と小さく笑った。「 この道路をまっすぐ進むと、時計台のある広場があるんだ。 今、そこへ向かっている」 夏希は 時計台を想像することができた。 だが、 広場は うまく想像できなかった。
道路はどこまでも 森に囲まれていて、夏希がしばらくそこを歩いても、 その風景が変わる気配は一向になかった。 夏希は歩きながら、 ライオン男の 背中や、 日に照らされた道路、それからその脇の芝生や、 左右の家々なんかを眺めていた。 空気は美味しかったし、 何しろ日差しが気持ちよかった。 だから夏希の心は 半分に分かれていた。 一方では日差しが気持ちいいし、空気は美味しいし、 と、 もう一方では、 ライオン男が 誰かわからないし、 この世界も どこか分からないし、 と
道を歩いている途中、夏希はある法則性のようなものに気がついた。 まず一つに、左側に並ぶ家並みは、例外なく、全てライオン男の家と同じ格好だった。 ドアの板は茶色で、ノブは銀色。 屋根も同じように青くて、形も同じだった。 そしてもう一つに、 左側と右側の家は、ズレることなく、全く同じ位置に建っていた。 そこに例外はなく 1メートルのズレもないように見えた。 それともう一つに、右側の家は左側と違って、外観がバラバラだった。 それもあり夏希は、主に右側の家を観察していた。 2階建ての家もあれば、3階建ての家もあった。 白色の大きな家がとても綺麗で、夏希はそこを通った時、そこに住んでみたいな、と思った。 そしてそんな風に、家並みを観察しながら、夏希はこの世界についてぼんやりと考えていた。しかし、記憶が絶望的に曖昧だとは言え、この世界の成り立ちをうまく想像することができなかった。
母に対する感情がもう一度---まるで一度引いた波がまた押し寄せてくるみたいに----- やってきた時、夏希は、また母に会いたくなった。 お母さんにはいつ会えるんだろう……。知らない家々……。この道を囲む森……。 ライオン男……。 時計台のある広場に向かって、ライオンはこの世界で確実に存在し、歩いている。 でもそれが何故なのか、夏希には想像できない。 そのまま夏希がライオン男の背中を眺めると、彼の優しいイメージが曇りはじめていく。 ライオン男が何も教えてくれないから、何か悪いことを隠しているみたいに思えてくる。
曇ったライオン男が振り返った。
「ほら、広場が見えてきたよ」
遠近法に従って細くなっていく家並みと、道路の先には、確かに広場のようなところがあるように見えた。 しかし距離が遠くて、はっきりと見えないから、それは抽象的な灰色の風景にしか見えなかった。 その灰色の風景が、道路や芝生を吸い込み、ライオン男と夏希を吸い込もうとしていた。
抽象的な灰色は、徐々にその表情を現していった。 まず初めに夏希が知覚したのは、細くて黒い棒だった。 その黒い棒の根元は円形になっていて、その周りを何かが囲んでいる。 それから地面を知覚する。 地面はやはり灰色で多分石でできているのだろう。 歩きながら夏希は、あの黒い棒は多分大きな時計なんだろうと思った。 そして距離が近づいてその正体が明確になった時、それが本当に大きな時計なんだと分かった。 時計台の足元は灰色の円盤型の石段になっていた。 それからその石段を囲んでいる何かが茶色いベンチ何だとわかった。 ライオン男は淡々とした歩調で歩いていたが、何故か夏希は広場に近づくにつれて、緊張していった。 曇ったライオン男が夏希を彼女の知らない場所へ案内していた。
「ここが時計台の広場だよ」とライオン男は言った。
夏希は目の前にある広場を見渡した。 広場はとても広かった。 学校のグラウンドぐらいの大きさだ。 その真ん中に大きな黒い時計台。 足下には円形の石段。 その周りを茶色いベンチが囲っている。 広場の地面はやはり石だった。 色にはばらつきがあって、それが上手にはめ込まれている感じ。所々の隅の方に電灯が何本か立っていた。 それからフェンス……。 広場のその大きな丸い輪郭をフェンスが被っていた。 フェンスの奥はやはり森。 そして、広場の右手と左手には、大きな建物がそれぞれひとつずつ建っていた。 右手の建物は白色の綺麗な建物だったが、左手のそれはひどく寂れていた。
「あそこのベンチに座ろう」 ベンチを指差したあと、ライオン男はそこに向かって歩き出した。 時計台のベンチまでは思っていたよりも距離があった。 ライオン男が腰かけると、夏希もその隣に腰掛けた。 茶色いベンチが日差しでキラついている。
「広いだろう」とライオン男は言った。 夏希は、広場入り口を見つめながら、ゆっくりと頷いたが、頭は別のことを考えていた。 ---ここは普通の世界ではないんだ---夏希は、ライオン男が言ったその言葉の意味について考えていた。 今朝は状況が漠然としすぎていてその言葉の意味についてうまく考えられなかった。 でも、この時になってようやく夏希はその言葉の持つ意味の重大さに気がつき始めた。 色々なものを目にすることで思考が具体的になったからかもしれない。
そして、思考が具体的になったせいで、またライオン男の姿が少しだけ異常に見えていた。 夏希は、ライオン男の青いボタンシャツがまくられたその勇ましい手を眺めた。 黄土色の肌は日光のに照らされて、その細かい繊維がさらに鮮明に見る事が出来た。 そして、そこに無造作に生え揃えられた、茶色いゴワゴワした毛も同じように照らされていた。ライオン男が現実的に存在するということを、夏希は既に受け入れていたはずだったが、 シチュエーションが先ほどと大きく変わったことで、改めて夏希の目には彼が異常な存在として写っていた。 夏希はまた軽く混乱する。 元の世界はどうなったの?……。 ライオン男は嘘をついているの?……。この人は悪い人?……。ライオン男の猛獣のような口……。 それから赤い宝石のような瞳を夏希は眺める。
その瞳が夏希に向けられた。
「どうしたんだい?」 疑惑のライオン男が夏希の足下にロープを放り投げた。 夏希はそのロープをゆっくり握りしめた。
「ここはドコなんでか?」
ライオン男は夏希の顔色を伺っていた。 「つまり、この世界のことかい?」 ロープがゆっくりと引かれ始めた。夏希は頷く。 さっきも言ったように、それは君の記憶が戻ればわかることなんだ。 [記憶が戻ればわかることなんだ] その言葉は何か重大なことを暗示しているように思えて仕方なかった。 形こそないが、しかし嫌に重たい不安が夏希にのしかかる。 夏希はロープを離したいと思う。でも離す訳にはいかないから、ぎゅっと握りしめる。 「だから記憶が戻るまで待っていてくれ、それともやはり不安なのかい?」 ライオン男の質問は少し優しい。 「そうか、それならひとつだけヒントをあげよう。それは君がこれから努力すれば元の世界に戻れるかもしれない、 という事だ。 だから心配することはない」
かもしれない、という言葉に夏希は引っかかった。 それに努力と言っても、いったい何をすれば良いのだろう? だがそれでも、元の世界に戻れる可能性があることが分かっただけで、夏希は幾分か安心できた。 ライオン男の曇ったイメージが少し晴れていく。 気がつけばロープは足元に落ちている。 代わりにライオン男の手が差し伸べられた。 夏希は、その手を握りたいと思う。 はい、と夏希は言った。 うむ、とライオン男。「ついてくるんだ」
そう言って、ライオン男は立ち上がった。
ライオン男は入り口と反対の方向に向かって歩き出した。 その方向の遠くの先に、薄暗い小道らしきところがある。 木々が影を作っていて、フェンスとフェンスの間にある小路。 ライオン男は そこに向かっているのだろうか?
何しろ広場は広くて静かだった。 石の地面は日差しでキラキラしていて、上を向けば大きな空が見渡せた。 そういえば人が全くいないことに夏希は気が付く。 右手には大きな白い建物。 人の手によって作られたとはっきり分かる雰囲気が漂う施設だった。 特に根拠はないが、夏希はその建物を初めて見た感じがしなかった。そのまま向かいにある、夏希から左手の大きな寂れた建物。 そこからは尋常ではない雰囲気が漂っていた。 何百年もの間、雨風にさらされたと言わんばかりのその風貌は、混沌とした緑に染まっていて、 3階か4階ほどの階層を持った、大きな体をしていて、 中は暗い影で満たされているから、その中に入れば白骨でも出てきそうだった。
時計台からその奥の小路までは、意外と距離があってなかなかたどり着けなかった。 間にものが何一つないせいで、どうしても距離を見誤ってしまうのだろう。 そこを歩きながら夏希は、その広場のベンチの隅に誰かが座っていることに気がついた。 この世界で初めて人を目にしたことが嬉しかったから、夏希はずっとその遠い位置に座る誰かを見つめていた。 服がピンク色で、髪が長いから女性だろう。 この漠然とした静かな世界でライオン男以外の人を見れたことが、夏希はやけに嬉しくて、小道にたどり着くまで、彼女はずっとその女性を見ていた。
そうこうしている内に、小道にたどり着いた。 道の両側をフェンスが囲っていて、その奥はやはり深い森だった。 日差しが遮られて妙に薄暗かったし、 そこに入った途端 肌寒さを感じた。 夏希は乾いた土の地面をサンダルで踏みながら歩いた。 所々に木の落ち葉が転がっていて、乾いた土の匂いと湿った木の匂いが交ざり合いながら、夏希の鼻に入った。 道の両側フェンスに囲われていて、 その奥の森の木々は薄暗く、そして果てしなく続いてるように見えた。 夏希は、その森の奥がどこに通じているのかを考えたけど、何一つ想像することができなかった。
分かれ道があることに気がついたのは、その時だった。 そこにさしかかった時、夏希はその方向に何があるのかを目で確かめた 。そして、それを見て思わず夏希は足を止めてしまった。何故なら、 それは夏希がよく知っているはずのものだったからだ。
スーパーマーケットだった。別れ道を抜けた先に少し広々とした砂利道があり、そこにスーパーマーケットが建っていた。ビニールの屋根にガラスのドア、その中に見える商品の棚、それらは夏希のよく知る懐かしい風景だった。その風景は、まるで、忘れたはずの古い一枚の写真を見た時のような少し鋭利な親密さを、夏希の胸に貫かせていたから、そんな風に夏希は思わず足を止めてしまっていたのだけど、ライオン男はそんな事を知る様子も見せず淡々と別の道の方へ歩いて行ったので、彼女はやけに自分だけが取り残されてしまうような小さな寂しさを感じつつ、否応なくその背中に続くのだった。
ともあれその先には、また新たな風景があるのだけれど。
その風景が青い色を持っている事は夏希にもなんとなくわかった。そして一歩一歩近づくにつれ、そのなんとなくは確かな記憶を呼び起こしつつあった。海だった。