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ライオン男と知らない世界  作者: 松井良太
2/14

黒い闇の中へ〜


  3  黒い闇の中に


 ライオン男がいなくなると、 不思議と夏希は心細くなった。 夏希が知っている人は彼だけだからだろう。 ともかく彼女は、ガラステーブルに置かれた3冊の本を手に取ってみた。「コンビニエンスストアの女」 という本、「冷たい雨」という本、「花束」 という本。 なんとなくだが、夏希は、その中の花束という本を読むことにした。 本を開いた時に夏希は、小説だ、と思った。 縦に並ぶ文字の羅列が懐かしかった。 読み進めていくうちに色々な事について思い出していった。

主人公は17歳の青年だった。 青年は内気な性格で人と話すのが苦手だった。 17歳になった時大工の仕事を始めた。 その内気な性格が原因で、仕事は辛いものとなった。 言葉が不器用なせいで親方からしょっちゅう怒鳴られたのだ。 それでも、お金がもらえるのは青年にとって嬉しいものだった。 初めてお金がもらえた時 青年はそのお金でお酒を買った。 実はお酒を飲んだことが一度もなかった。 一緒に飲む相手がいなかったのは寂しかったけど、 酔いの感覚を味わった青年は、少し舞い上がった。 音楽を聴いても何をしても、 刺激的に感じた。

21ページ……。

そこで夏希は本を閉じた。 そこまで読むのに40分ほどかかった 。漠然とした不安のせいで、うまく集中できなかったのだ。 目頭を2本の指で押さえてから、目をつぶった。 それが終わると 冷めたコーヒーを飲んだ。 冷たいコーヒーは、さっきと味が変わっていて、その中には懐かしさが含まれていた。 そしてそこから夏希は何かを感じたけど、それがやはり何なんなのかわからなかった。

そのまま夏希はカーテンを見た。 それから外が気になってガラス戸まで歩いた。 水色のカーテンを触ってから外を眺めた。 向かいに、二階建ての家が建っている……。 その家にもガラス戸がついていた。 カーテンがかけられていて中が見えなかった。 それから二階に小さな窓。 そして地面に芝生。 木々……。 左側には道路が少しだけ見えていた。 夏希はもう一度2階の小さな窓を眺めた。 そこから誰かの姿が見えるかもしれないと思ったのだ。 でも誰の姿も見えなかったので、 諦めて夏希はソファに座った。

ソファに座った夏希は、 先ほど読んだ「花束」で思い出した記憶をもう一度反芻していた。 仕事……、お酒……、大工さん……、青年……。 実はお酒という言葉を聞いた時、夏希はある映像を思い出していた。 それは誰かがお酒を飲んでいる映像だった。 でもその人の顔は写っていなかった。 なんとなく夏希はそれが父だと思ったけど、 事実かどうかは分からなかった。 それにやはりそれらの記憶の断片は、 自分と結びつかなかった。 だから、それはまるで記号の羅列のように思えた。 そしてそれがまた夏希に無力さを感じさせるのだ。 そうなるとまた不安になった。 今、私はどんな状況に分かれているんだろう、 と思うと落ち着かなかった。 同時になつきにはその状況について何の予測もできなかった。 曖昧な記憶のせいだ。

そんな大きな不安を抱えたまま時間が過ぎた。

時計の針が11時30分を回ったころ、ライオン男は帰ってきた。


ライオン男は手にスーパーマーケットの袋を持っていた。 夏希はそれを見て、懐かしく思った。 同時に同じような袋を持った、母らしきものの姿が思い浮かんだ。 その映像に浸っている最中にライオン男は口を開いた。「 気分はどうだい?」

大きな不安と、母らしきものの映像のせいでか、とても気分がいいとは言えなかった。 だからその心理のままにうつむいた。 少し悲しくなって、目が潤んだ。 赤い宝石のような瞳がその姿を見守っていた。

「あまりいい気分ではなさそうだね、 まあ無理もないか」

そう言うと、彼はソファに座った。

本はどうだった?

面白かったです、と夏希は言った。

全部読んだのかい?

ちょっとだけ…。

色々と思い出しただろう?

ライオン男が何かを教えてくれると思って、夏希は頷いた。 だが彼は何も教えてくれなかった。 「そうかそれは良かった」

「お母さんに会いたいです」 と夏希は言った。 ライオン男はゆっくりと首を振った。 君の記憶が戻るまでは無理だ、わかったかい? 夏希は仕方なく頷いた。

「よし、今から美味しいご飯を作るから座って待っててくれ」

ご飯、と夏希は思った。ご飯……、ご飯……。 それと同時にいくつかの料理が思い浮かんだ。 ステーキ……、シチュー……、オムライス……、焼き魚……。 ライオン男はいったい何を作るのだろう、と思った。

 袋を手に取ったライオン男は立ち上がった。 夏希は少し薄暗いキッチンのライオンを眺めた。 彼は冷蔵庫を開けて、何かを中に入れる。 それが終わると何かをキッチンに置いた。 その時硬い音が鳴る。 その音が夏希の心の扉をノックし始めた。 次に袋の音がした。 その後に水道の音……。 同時にノックが強まる。 その次に鳴った音は、さらに激しい力で扉を叩きつけた。 ----コツコツコツ---- その一定の間隔を置いて鳴る音は、先ほど夏希も心の中で鳴っていた音だった。 この音は何だっけ?

激しい力に耐えきれず扉は開かれた。 木製のテーブル上に夏希は座っている。 テーブルの上には、ソース差しと醤油差し……。 ティッシュ箱……。 テレビの黒いリモコン……。それから……、父がよく吸うタバコ?----- コツコツコツ-----この音は……、そう母が料理を作っている時の音。後ろを振り向くとテレビがあって、何かの番組が放送されている。その手前には黒いソファ。 もう一度母がいるキッチンに顔を向ける。 でも顔が見えない……。 夏希は椅子から立ち上がり、母の元へ走る。 しかしそれと同時に、リビングとキッチンは黒い闇の中に吸い込まれていく。

夏希はソファから立ち上がった。

「どうしたんだい?」 ライオン男は夏希を見ている。 オレンジ色のソファ……、ガラステーブル……、奥のテレビモニター……、 水色のカーテン……、 私を見ているライオン男……、 私の知らない世界……、 お母さん……。

首を振ってから夏希はソファに座った。 ライオン男の赤い宝石のような瞳が、少しの間その様子を見守ってから、再びまな板と包丁に向けられた。 コツコツコツ……。

 夏希は向かいのオレンジ色のソファとガラステーブルに目を置きながら、 先ほどの映像がもたらす大きな余韻に浸っていた。 どうやらその映像は、 “この世界という異常”を夏希に伝えているようだった。 だから自分がこの広いリビングでオレンジ色のソファに座っていることも、 薄暗いダイニングキッチンでライオン男が料理を作っていることも、 改めて異常に思えてきた。 ようやく積み上げられてきた現実感も、ボロボロと崩れ落ちていった。 そしてそうなると夏希はまた不安になった。 一度元に戻ったはずの世界の色合いが再び変わり、空気の味が変わる。 気がつけば、コツコツコツ、という音が持つトーンも変わっていた。 窓の外から差した光を夏希は眺める。

 しばらくすると、ライオン男は トレーを持ってソファまで歩いてきた。 トレーから白い 湯気が上がっていて、夏希は例によってそこから何かを感じ取った。 それは今まで自分が湯気を見てきた映像の羅列だった。 しかし、それは一瞬にして消え去って行ったので、 夏希はそのまま外を眺め続けた。 それから匂い……。 その匂いを自分が知っていることを、夏希は分かっていた。 だが、そのシルエットを明確にすることができなかったから、夏希はモヤモヤして、 その正体を見たい、と思った。

 ライオン男がトレーをガラステーブルに置くと、その正体が分かった。ハンバーグだった。曖昧なシルエットが明確になったことで、夏希は不思議な気持ちよさを感じた。ハンバーグの横にはスープのようなものがあった。 これはほうれん草のスープ……?

ライオン男はトレーから、ハンバーグと、ほうれん草のスープを、夏希の側に置いた。 同時にガラステーブルにあの硬い音が鳴る。コツコツ……。夏希のよく知る硬い音……。それからお箸も夏希の側に置く。 私の良く知るお箸……。

 さあ食べよう、と言い、ライオン男は手を合わせて、いただきます、をした。 そのいただきますは、夏希の心を引っ掻き、何かを思わせたけど、そのまま手を合わせていただきますをした。 ライオン男は箸を手に取り、ハンバーグにそのまま突き刺した。 夏希は自分もハンバーグを食べようと思ったけど、とりあえずライオン男を眺めることにした。 ライオン男は 箸でハンバーグを切り離すと 、それをつまんでゆっくりと器用に口へ運んだ。夏希はその様子を見て不思議に思った。 というのも、彼の勇ましさとその器用さが、どこかそぐわなかったからだ。 夏希はそのままライオン男の口を眺めた。ライオン男の口の動きは、確かに猛獣のそれだった。 夏希はライオン男のその口の動きと、実際のライオンが獲物に食らいつく口の動きを重ねて見ていた。

「そんなに私が珍しいかい?」

 ハンバーグを飲み込むと、彼はそう言った。夏希は失礼をしてしまったと思い、ごめんなさいと謝った。 「別にいいんだよ、謝らなくても、君が見たければ好きなだけ見ればいい、それより食べなくていいのかい?」と優しい口調でライオン男はそう言った 。ライオン男の優しい態度に夏希は少し安心した。ライオン男は短気な人じゃないんだ、と思った。そして同時に、ライオン男の口を猛獣だと思ったことを、なんだか申し訳なく思った。 夏希はハンバーグを口へ運んだ。 ハンバーグは予想通りの味だった。 ハンバーグの匂いを嗅いだ時すでに夏希は味を思い出していたのだ。 柔らかい肉の食感……、中から溢れる肉汁……、その旨味……。 そしてその瞬間、夏希の頭にまたリビングの映像が浮かび上がってくる。始めに浮かび上がったのはリビングのテーブルだった。 木性の四本足のテーブルの光沢。 いくつかの白色の皿が置かれている……。 それからガラスコップ……。 奥に暗いキッチン……。 そして正面に座る母。 母が何かを言う。 でもはっきりと聞こえない。 夏希は瞳を閉じて耳をすませる。 しかしその記憶は薄暗い闇の中へと吸い込まれていく。


目を開けるとライオンがいた。

 

「どうだい、おいしいかい?」 ライオン男のその言葉は、夏希の意識の外側で響いた。【どうだい、おいしいかい?】 だからその言葉は、少し非現実的な響きを持っていた。 夏希はそれを意識に染み込ませた。 はい、と夏希は頷いた。

 「そうか、それは良かった。少し落ち着いたかな?」

 すぐに返事することができなかった。 母の事を思い出せなくて複雑な気持ちになっていたからだ。 そのせいで、夏希は少し間をおいてから不自然に、はい、と言った。 ライオン男の赤い瞳がその様子を捉えていた。

「だが顔が少し曇っているように見えるね」

ライオン男はそう言うと、ハンバーグと、ほうれん草のスープを黙々と食べ始めた。 そうすると夏希も食事に集中することにした。 夏希は食事をしながら正面のライオン男の方を時々観察していた。彼はやはりとても上手に箸を使った。 同時に、コツコツ、という、ガラステーブルとお皿が出す音を、夏希は眺めていた。 左手のガラス戸から差す光が時折強まって、白いお皿とガラステーブルがキラキラ光った。 そのキラキラと、コツコツが、夏希の心に何かを言っていた。 やがてライオン男は食事を終えて、ソファから立ち上がり、 それからガラス戸の方まで歩いて、彼は外の景色を見始めた。  

 


 食事を終えると、ライオン男はお皿をキッチンへ持って行き、 それを洗い始めた。 そうやってテーブルに一人残された夏希は、どこか無力さを感じていた。 広いリビングのソファに座りながらも、まるで自分が何をすれば良いか分からなかったからだ。夏希が座るその前には、大きなテレビモニターがあって、その画面の黒には、色彩を失った、そして一回り小さくなった自分の姿と、ガラステーブル、それとソファなどが、 黒く薄く写っている。 夏希が動くと、モニターの中の彼女も 同じように動く。 しかしそれは何も示さない……。ライオン男が誰であるかも、自分が誰であるかも教えてくれない。 そこには、ある法則に従った予定調和しかない。 右を向くと黒い夏希も同じように右を向く。 そしてその右の先には、お皿を洗うライオン男がいるのだ。

夏希は左手のガラス戸から見える外の景色を眺めた。 地面には緑色の草が生い茂っていて、そこに木が2本立っていた。 正面には二階建ての家。 その家にも、この家とおそらく同じ大きさのガラス戸がついている。 カーテンは淡い緑で中はしっかりと閉ざされている。

いつのまにか水道の音がなくなっていた。

視線を戻すと、ライオン男がいる。 そして彼は言う。 「さて、外を散歩しようか」散歩?……、外にでるんだ……。 「パジャマ」とライオン男は言った。 夏希はパジャマを見た。「着替えた方がいいね」着替えた方がいい……。

どうすれば良いのかわからず、ライオン男を見た。「 今朝、君が起きた部屋にタンスがあっただろう。着替えてくるといいよ」 勝手に入っていいんですか、と夏希は訊いた。 「ああ、もちろんだよ、あれは君の部屋だ。勝手に出入りしていい」

 夏希は妙に”ぎこちない気持ち”で部屋へと足を運んだ。 キッチン側にある廊下を歩く。 そこの先に手すりのついた木製の茶色い階段……。 そこを上って、また廊下を少し歩く……。 そしてその突き当りに、夏希が今朝起きた部屋があった。

扉を開けた。

 夏希は部屋を眺めた。 今朝と何も変わっていなかった。 木製のテーブルと椅子…。 白い布団のベッド…。 赤いポータブルラジオ…。 全身鏡…。 小さな窓…。 そしてタンス。

当たり前だが、今朝起こったことは現実だなんだと夏希は改めて実感した。 継続的に夏希は現実を生きていた。 おそらくライオン男がいなくなったことで、改めて現実と向かい合ったのだろう。 少し曇った心で夏希は、タンス、とつぶやいた。 タンスの一番上の段の棚を開ける。 黒いワンピースと、ボタンシャツ ……。二つのうちの、 黒いワンピースを取り出して、 全身鏡の前でサイズを確認してみた。 サイズはぴったりだった。 夏希はパジャマを脱いで自分の体を点検した。 細い腕……、細い首……、その首元の鎖骨……、 小麦色の肌……。 12歳の小さな胸……。

12歳?

自分が12歳であることを夏希は思い出した。 夏希はそのままワンピースをすっぽりとかぶった。 そして鏡でその姿を確認する。 黒いワンピースを着た自分の姿。 なんとなく夏希な心は弾んだ。お散歩と口にしてみせる。

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