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王の侍従は、息を殺し、存在感を消していた。王に長年使えてきて自然と備わった習性でる。しかし、心はひどく乱れている。バレンシア公爵は、王を静養させるだけと言っていたが、それは本当だろうか?公爵の言葉に王は動揺されておられた。問いを重ねる静かな言葉に、表情はこわばらせ、徐々に疲労の色が濃くなっていった。侍従の脳裏に酔って独り言のようにつぶやいた王の言葉が蘇る。
『似るはずがないのに似てしまうとはな……ああ、わかっているさ。……お前との約束だけは守るとも……』
あれは王子たちの成人の儀の後ではなかっただろうか?モビリオ様は、自分は臣下であると言って、成人の儀を辞退し、ディオン様の祝賀パレードに軍人の一人として参加された、あの日の深夜。
あの言葉は何を意味しているのだろう?本当にこのままディオン様が王になってよいのか?これはバレンシア公爵のクーデターではないのか?
侍従の中で膨れ上がった疑問が、彼を無意識に動かした。そっと足が扉の方に動き出す。
ディオンは力強く剣を握った。そして呪文を唱えた。
「炎天刺殺」
その途端、王の侍従は強い炎に包まれて灰となった。シルフィは、ひっと小さな悲鳴をあげる。バレンシア公爵も眉をひそめた。魔法士たちも動揺を隠せない。その様子を見たディオンはニヤリと笑う。
「これで、余計なことをいうものはいなくなった。そうだろう?バレンシア」
バレンシア公爵は深いため息を呑み込むようにええと答えた。
ディオンは自分の力に酔いしれていた。
「では、行ってくる」
そう言って姿を消した。後に残った者たちは、戦慄した。バレンシア公爵は少々ディオンを甘く見ていたかと思ったが、表情にはださず、粛々と召喚の間の浄化を命じた。
黒の剣は封印の呪文が書かれた綿布に包まれてはいたが、封印されているわけではないので、誰もがそれに触れることをためらっていた。バレンシア公爵は仕方なく、自ら剣を箱に収めた。禍々しい瘴気が纏わりついてくる。空気は穢れていく。
魔法士たちは個人的な思いを振り払うように、箱を取り囲み、浄化の呪文を唱え始めた。
バレンシア公爵は微かに安堵する。魔法士たちが浄化に集中してくれたことに。ただ、コレオスの死は彼にとっても痛手だ。もう、誰にも剣の封印はできないだろう。わずかな希望は、ディオンが無事にひかりを連れ帰ること。それが叶えば、黒の剣の瘴気も弱まるはずだとバレンシア公爵は考えていた。
しっとりと落ち着きのある装飾を施された天蓋付きのベッドには、ひかりが苦痛の表情を浮かべ、眠っていた。ディオンは、あれほど鬱陶しいと感じた少女を眠っていればかわいいものだと思い、ひかりに触れようと手を伸ばした。だが、その手はまるでひかり自身に拒否されたようにはじかれる。
(結界か?)
生まれて初めて触れた目に見えない壁に、ディオンは少々困惑した。だが、それもほんの一瞬だった。
(こんなもの、すぐに消し飛ばしてやる)
「ようやくおでましか。トリビスタンの王太子」
結界を破ろうと剣を構えたところに、声をかけられ慌てて振り向くと、いつからいたのか銀髪の男が立っていた。洗練された服をまとい、無表情でこちらを見ている男は、美しい彫刻のようだ。ディオンは思わず見惚れてしまう。
「俺の首を取りにでも来たか」
ディオンは、そう言われて我に返った。
「貴様が悪魔か」
「お前の国ではそういうらしいな。だが、俺はお前と勝負する気はない」
「なんだと?」
「お前を倒すのはモビリオだからな」
そういわれて、ディオンは怒りをふつふつと感じはじめた。悪魔は、ディオンがモビリオに勝てないと案に言っているのだと感じたからだ。
「モビリオなど、私の敵ではない」
「ほう、よほど腕に自信があると見えるな。ならばついてこい」
そう言って、何のためらいもなく悪魔はディオンに背を向け、あけ放たれていたドアをくぐって寝室をでていく。ディオンは一瞬、このまま背後から奴を刺し貫けばと思ったが、威圧感のある背中に剣を向けることはできなかった。仕方なく、後に続くとその先には、剣と盾をもった軽装のモビリオがいた。
「さて、ここで暴れられても困る。戦うにふさわしい場所へ移動するぞ」
悪魔は何気ないしぐさで、足元に複雑な魔方陣を浮かび上がらせた。そこに、モビリオは無言で進み立つ。ディオンは警戒しながらも魔方陣の中に入った。その瞬間、軽いめまいを覚え、とっさに身をかたくした。気がつけば、闘技場のような場所にモビリオと二人だけで立っていた。悪魔の姿はすでにない。
(逃げたのか?)
そう思い軽く目であたりをみると、モビリオの後方の観覧席で黒髪の少女の横に悠々と座っていた。悪魔はこの国を支配しているはずで、庶民が座るような場所に座すると言うのはディオンにしてみては意外なことであった。そして、観覧席のあちこちで自由気ままななりで、角の生えた人間がこちらを好奇の目で見ていることに気がつく。
ディオンは心の中で舌打ちした。こうなったら、さっさとモビリオを倒して、悪魔の首を持ち帰る他ないと思い、剣を構えた。モビリオもまた戦闘態勢に入った。一気に片を付けたいディオンは、儀式の間でつかった呪文を唱える。一瞬にしてモビリオは火柱に包まれた。しかし、その火柱から飛び出してきた影がディオンに襲い掛かる。モビリオは無傷で剣を振り下ろしていた。ディオンは驚いたようにたたらを踏んで後退した。尻もちをつかなかっただけよいというものだろう。困惑するディオンに対しモビリオは剣戟を緩めない。ディオンは必死でそれをかわし、受け流し、どんどん後退していく。押され気味のディオンは、なんとかモビリオの剣戟を振り払い、新たに呪文を唱えた。
「氷片剣華!」
鋭くとがった氷の破片がモビリオを襲う。モビリオは、氷片を剣で薙ぎ払いながら後退した。ディオンは間を置かずに次々と呪文を唱える。モビリオはそれを剣や盾で受け流しながら、ディオンとの距離を一定に保っていた。その状況にディオンは勢いづく。地をけってモビリオとの距離を縮めようとした。だが、モビリオは容易に距離を縮めさせない。魔法も放ってこない。
(なぜだ?なぜ、魔法を使わない?)
そんな疑問がディオンの脳裏によぎる。一方、モビリオの方はディオンがばてるのを待っていた。魔法を使わないのは、ディオンの鎧に施された装飾の中に魔法をはじく石がちりばめられていることに気づいたからである。魔法を使えば、それだけ体力と気力を失うことは分かっていた。ならば、体力を温存し、相手がばてたところを狙うのが定石である。それにディオンがどこまで無限の魔力を使いこなせるかわからない。
モビリオは、焦る気持ちをぐっとこらえて、白の剣を睨み付けた。
(そうか!白の剣を恐れているのだな)
ディオンはニヤリと笑う。
「風神石火!業火炎輪!天羽雷撃!」
モビリオの周りで激しい爆発が続けざまに起こった。後退も前進もできないほどの爆発である。観覧席にも爆風で舞い上がった土煙と火の子が届く。紫音は思わず立ち上がろうとしたが、レクサスに抱き寄せられモビリオの姿を確認できない。しばらく土煙で二人がどうなっているのか観客席からはわからなかった。魔法を放ったディオンは、これでモビリオを粉砕したと思っていた。ところが、土煙に紛れて激しい剣戟が襲い掛かった。剣はディオンの兜を跳ね上げた。さらに、腹に蹴りを食らい、ディオンは前のめりになる。そして、容赦なく背後から重い剣戟を食らい、地に這いつくばった。モビリオは、這いつくばっているディオンの右手に剣を突き立てようとした。だが、ディオンは素早く身を転がし、その剣から逃れた。よろよろと立ち上がるディオン。白の剣を睨み付けるモビリオ。土煙は晴れて、二人がまだ戦っているのが見えた。紫音は、レクサスの腕の中で震えていた。間近で見る決闘は、とても恐ろしかった。兜を失ったディオンの額にはうっすらと血がにじんでいる。モビリオは無傷だったが、その佇まいは鬼神を思わせるほどの気迫だった。ディオンは剣を握り直し、深く息を吸い込む。
(なぜ魔法が効かない!)
じわじわと焦りを感じるディオン。それと同時に体から力が奪われているような感覚を覚えた。それでも、モビリオに対する敵意は鎮まることはない。長年の鬱積した気持ちを晴らすかの如く、モビリオへと向かって行く。モビリオは、やすやすと攻撃を受け流し、容赦なく攻めに転じる。
(くそっ!)
まるで今まで一度も本気を出していなかったかのような痛烈な剣戟にディオンはいらだちを覚えた。モビリオの剣戟は重い。受け止めれば、手がしびれるような感覚に何度か剣を落としそうになるディオン。呪文を唱えようとしても、そのすきさえ与えない激しさである。ディオンは、接近戦を不利と見たのか、転移して距離をとる。呼吸は少しずつ乱れ始めた。鎧がひどく重く感じる。モビリオが魔法を使わないのであれば、鎧に意味はない。だが、今更脱ぎ捨てることもままならない。ディオンは歯噛みしながらも、距離をとり、呪文を唱えた。爆撃のような攻撃が次々と放たれる。モビリオは、うまく盾を使い攻撃から身を守る。それでも、今までに感じたことのない激しい衝撃を受ける。
(ヒカリの魔力をこんなことに使うなんて……)
モビリオはディオンを許せないと思った。魔物を倒すことさえ、気が咎めるほど繊細なひかり。今もきっとうなされているだろう。それを思うとディオンに対する怒りが沸く。それでも、ひかりを守るためにモビリオは感情的になろうとする自分を必死に抑え込んだ。
(白の剣。あれを奪うことだけに集中しろ。シオン様との約束を思い出せ)
モビリオは冷静に戦いを進めていくために、死なず殺さず白の剣を奪うという約束を思い起こしていた。そして、ひそやかな声で「回復」と呪文を唱えた。一方、ディオンは冷静さを欠いていた。回復の呪文など頭にない。自分が疲れている自覚さえないほど、怒りに心を支配されていた。
(呪文が効かないのであれば、転移の術で翻弄してやるまで!)
ディオンは、転移の魔法を使い、接近戦を試みた。モビリオの目前に現れては剣を振り下ろし、はじき返されれば、背後に転移する。だが、モビリオは後ろにも目がついているかのように、やすやすとディオンの攻撃をかわした。ディオンはまるでからかわれているような気分を味わう。モビリオにとっては、殺気立っているディオンの攻撃はとても読みやすかった。これが、実践を経験しつくしている者としていない者の差である。バレンシア公爵が危惧していたことは的中していた。
ディオンの鎧は、モビリオの反撃であちこちが凹んだり傷ついたりしていた。銀色の輝きさえくすんで見えた。魔法を防ぐための鎧は、辛うじてディオンへの打撃を防いでいた。そのことにさえ、気がつかないディオンは無謀にも剣を振り回した。モビリオは、じっくりと狙いを定め、白の剣を叩き落とすと、水平に剣を走らせ、ディオンを吹き飛ばした。
(終わった……)
そう思いながらも、油断なく白の剣を拾い上げるモビリオ。ディオンは、悔し紛れに「殺せ!」と叫んだがモビリオの耳には入らない。モビリオはすぐにもひかりのところへ行きたがっている。観覧席のレクサスを見上げると、紫音の手をとり立ち上がっていた。そしてすぐさま、モビリオの側に転移してきた。レクサスはすぐにモビリオを連れて転移した。残されたディオンは、アプローズと魔法師団が身柄を抑えた。