18
ひかりは、暖かい水の中にいた。まるで羊水の中にいる赤子のような気分だった。何もかもがただの妄想で、本当は自分はまだ生まれていないのではないかとさえ思っていた。このまま、ここにずっといたい。嫌な思いも怖い思いも寂しさもない。とても心地よい場所だった。だが、誰かがひかりを呼ぶ声がする。それはとても優しい声だった。
「ひかり、目をあけなさい」
何度目かの声にようやくひかりは、目を開ける。鼻先、数センチのところにどこかで見た様なとても神秘的な美しい顔があった。
「ああ、よかった。ずっと眠り続けてしまうのじゃないかと心配してしまったわ」
美女は微笑み、優しくひかりの頬を撫でた。
「ここはどこ?」
ひかりが尋ねると「結界の中よ」と少し困ったような顔で答えた。彼女をよく見ると、上半身は裸、下半身は蛇のようだった。
「ワゴニア……様?」
「ええ、そうよ」
何がどうなっているのかひかりはわからずに戸惑った。
「怖がらなくても大丈夫。貴女の祈りはとても素敵な響きだったわ。けれど、これ以上祈ることは貴女の命にかかわるのよ」
「命?」
「そう、貴女の魔力は命を削ってしまうの」
ひかりはそうかと思うところがあった。祈りを捧げたときのかすかな疲労感は、そういう意味だったのかと悟る。
「驚かないのね」
「別にもうどうでもいいわ。このまま死んでも誰も悲しまないし、どうせなら、ここで静かに死にたいわ」
「ああ、そんな悲しいことを言わないで。ひかり、貴女はわたくしに十分に尽くしてくれたのよ。お礼がしたくて貴女をなんとかこの結界の中に呼んだというのに……」
ワゴニアは今にも泣きだしそうな顔をする。
「でも、ここから出れば、また祈る日々よ。何も楽しいことなんてないわ」
「だから、貴女に力を授けます。命を削らない無限の魔力を。そうすれば、貴女は祈らなくてよくなるわ。その力を使って自由になんでもできるのですよ」
ひかりは、ぼんやりと考えた。無限の魔力、それを手に入れたら本当になんでも自由になるのだろうか。例えば、ディオンが自分を好きになってしまうとか。
(そんなのどうでもいい)
ひかりは、そんなことより復讐したいと思った。こんなわけもわからない国のために命がけで祈りを捧げてあげたのに、見返りどころか裏切りばかり。そんなひかりの気持ちを見透かしたようにワゴニアは囁いた。
「もし、貴女が復讐を望むなら、わたくしを自由にしてほしいのです。わたくしは、愚かにも人間の青年に恋をして、契約を交わし結界に閉じ込められてしまいました。そのせいで、長い間、祈りに応えて雨を降らせてきたのです。今ではわたくしの神通力は衰えていき、この国の人の祈りでは雨を降らせることができないほどになってしまいました。そして、貴女が苦しめられているのをこれ以上見ていられないのです。ねぇ、ひかり。わたくしをこの結界から自由にしてくださらない?そうすれば、貴女はこの国のことなど気にせずに自由になれるとわたくしは思うのです」
ひかりは考えた。無限の魔力を手に入れて、ワゴニアを自由にすれば、もう誰も雨ごい女などにならなくていい。自分だって自由に生きられる。
「雨は自然に降るからこそ、実りにつながるのです。魔力で気候を操れば、いつか必ず手痛いしっぺ返しを受けるでしょう。現にこの国は年々、干ばつに襲われる年が増えています。このまま、わたくしをしばりつけていれば、やがては自然の雨も降らなくなるでしょう」
ワゴニアは悲しそうに微笑む。それはつまり、旅先で見かけた貧しい人たちが苦しみ続けるということだ。ひかりは、王やコレオスたちには恨みがあるけれど、盗賊に身を落とさなければならないほど貧しい暮らしを強いられている人々には憐れみを感じた。
「いいわ。あなたを自由にしてあげる。どうやって結界を壊せばいいの?」
「聖殿の青い水瓶を粉々に砕いてくれればいいのです。あれを砕けるのは、人間の魔力だけですから」
「わかったわ。そのかわり、無限の魔力はもらえるのね」
「ええ、もう貴女に授けました。わたくしのように不利な契約を結ばないでいいように文字も読めるようにしておきましょう」
そう言って、ワゴニアはひかりの額に口づけた。そして、ひかりは意識を失った。
どのくらい眠っていたのだろうか、目を覚ましたひかりは見覚えのある天蓋の絵をぼんやりとみあげていた。そして、脳裏にははっきりとワゴニアとの約束が焼き付いている。
「ヒカリ様!ああ、お目覚めになられてよかった」
ほっと溜息をついてオーリスはひかりの額に手を当てた。
「熱は下がったようでございますね。すぐに食事の手配をいたしますね。それまでもう少しおやすみくださいませ」
慌てて寝室を出て行こうとするオーリスをひかりは止めた。
「おなかはすいてないわ。それより、着替えを手伝って。すぐに聖殿へ行くわ」
「いけません。もう三日も熱で眠っていらしたのですよ。とにかく食事をなさってください」
オーリスは頑として譲らない。ひかりは、わかったわと言ってベッドから起き上がると自分で衣裳部屋へ入っていった。慌てたオーリスは仕方なく、着替えを手伝った。ひかりは、祈りのためのドレスに着替える。そして、オーリスはすぐに部屋の前の衛兵に食事の支度とコレオスへの伝言を伝えた。それから、粛々とひかりの髪を整え、化粧を施す。ひかりは、それが終わるとオーリスを振り切るように部屋を出て聖殿へ向かった。
(歩いていくのって面倒だわ)
そう思ったひかりは簡単に移動できないだろうかと考えた。すると、一瞬で周りの風景が変わった。
「すごい……」
ひかりは思わず声を漏らした。そこは聖殿だった。ほんの少し考えただけで、転移ができたのである。そして疲れも感じない。ワゴニアの言葉は真実だった。
ひかりはそっとワゴニアの像を見上げた。あの青い水瓶さえ壊してしまえば、約束は果たされる。すっと深呼吸して、壺が粉々に砕けるイメージを作ろうとしたところに、ドアを蹴破るような勢いでコレオスとモビリオ、それに魔法士たちがなだれ込んできた。コレオスは息を整え、ひかりをいたわるようなまなざしで見た。
「ヒカリ様、どうかご無理はなさらないでください。あなた様は、三日三晩も高熱にうなされておられたのです。とにかく休養を……」
「休養など必要ないわ。あたしはこれから祈るんじゃないもの」
ひかりは、冷たい視線をコレオスに向けた。
「あなた、知ってる?あたし、魔法を使うたびに命を削ってたんですって」
コレオスは、ぐっと息をのむ。
「その様子だと知ってたのね。でもね。もう、いくら魔法を使っても命を削ることはないの」
「一体何をおっしゃっているのですか?」
「とぼけなくてもいいわ。わからないならそれでもいい。ただ、あたしはワゴニア様との約束を守るだけ」
ひかりは、そう言って右手を高く上げてそこに光の玉を作った。そして、その玉を青い水瓶めがけて投げつけた。光の玉は青い水瓶を砂のように粉々に砕いてしまった。
誰もがその光景に、驚き愕然とした。聖なる水瓶が割れるなどあってはならないこと。しかもそれを聖女が魔法で粉々に砕くことなど許されることではない。床にばらまかれた水瓶から青い煙がふわりと立ち上った。そこにはゆらゆらと半透明のワゴニアの姿があった。
「やっと、自由になれたわ。ありがとう。ひかり」
揺らめく煙のワゴニアは、そっとひかりの頬を撫でて、一瞬にして消えてしまった。
「なんということだ……」
コレオスは、愕然とした。モビリオも驚きを隠せない。あの青い水瓶は先祖がワゴニアから授かった聖なる水瓶だと言われていた。まさか、その中にワゴニアが存在していたなどと思うことなどなかった。
「ヒカリ、一体どういうことなんだ?」
モビリオはできるだけ落ち着いた声でひかりにたずねた。ひかりは、夢での出来事をかいつまんで話した。
「つまり、ワゴニアは騙されて雨を降らせていたということなのか?」
「そうよ。干ばつが頻繁に起こるようになったのも、魔法で雨を降らせ続けたせいなの。でも、これからは自然に雨は降るわ。干ばつも来るでしょうけど、そんなことは備蓄さえきちんとしていれば、どうにかなるものでしょ」
ひかりは、楽しそうに笑った。そこへ、この騒動を聞きつけた王とディオンが駆け付けてきた。粉々に砕け散った青い水瓶を見て、二人の顔から血の気が引いた。
「な、なんということをしてくれたのだ……」
王は青い顔から真っ赤な顔に変わり、ひかりに詰め寄った。
「お前は何をしたかわかっているのか!」
「ええ、わかっているわ。囚われの身のかわいそうな神様を自由にしてさしあげたのよ」
「なんという馬鹿なことを!これでは誰が祈っても雨が降らぬではないか」
「雨は自然に降るわ。干ばつはあなたがどうにかすればいいじゃない。王宮のモノを売り払って、どこかの国から食料を調達することだってできるでしょう。そんな簡単なこともできないのなら、王様なんていらないわ」
「小娘が、言いたい放題いいよって!衛兵っこの娘を取り押さえよ」
王は激怒して、ひかりを取り押さえるように命じたが、衛兵が彼女に触れたとたんに吹き飛ばされて、壁に激突し気を失った。
「簡単に触らないでね。ワゴニア様から無限の魔力をもらったんだから。下手に近づけば命はないわよ」
ひかりに人を殺すつもりはなかったが、そう言って脅した。それから、ディオンの顔をじっと見つめて言った。
「あなたの鼻がもっと大きくて立派だったら、とても面白い顔になるわね」
「な、何を言っているんだ。ヒカリ」
ディオンがうろたえていると、鼻がむずむずとし始める。周りの人間たちが、一斉にディオンに目を向けると、彼の鼻は大きな鷲鼻になり、鼻の頭は酔っ払いのように赤く染まっていた。ディオンは慌てて近くの窓に目をむけると、そこには醜い鼻の男が愕然とした顔で映っていた。
「ヒカリ!なぜこんなひどいことを!」
「別に対して面白くもなかったわね」とひかりはつまらなさそうに言うだけだった。そして、パシッという音が響き、ひかりは頬に痛みを感じた。
「気は済んだか。こんなくだらないことに魔法を使うな。すぐに戻してやれ」
モビリオは、苦虫を噛んだような顔でひかりを諭した。だが、ひかりは「元の顔なんて忘れたから無理ね」とモビリオを睨み返した。
「あなたはどんな醜い顔にしてあげようかしら」
「好きにすればいい」
モビリオは、ひかりの力に怯えることなくじっと見つめ返した。
「興ざめだわ。部屋に戻って食事でもするわ」
そう言って、ひかりは一瞬にして姿を消した。
「転移魔法まで使えるとは……」
コレオスは唸る。女神が与えた力は、神にも等しい力だとそこにいた者たちは思い知らされた。
ひかりは、一瞬にして部屋へ戻る。オーリスは、突然現れたひかりにきゃっと小さな悲鳴を上げたがあわてることはなかった。
「ああ、びっくりした。脅かさないでくださいませ。ヒカリ様」
ひかりはごめんなさいとつぶやくと、テーブルについて食事をした。食事をしながら、モビリオにぶたれたことを思い出す。自分でも幼稚なことをしたと反省はしていた。それでも、ディオンの顔をもとに戻してやる気にはなれなかった。
(可愛さ余って憎さ百倍ってこういう感覚なのかしら)
ひかりは、ため息をこぼしながらちまちまと食事を口に運んだ。ワゴニアを開放しても、力を手に入れても、何も変わらなかった。傍若無人に振る舞うことさえバカバカしく思えた。食事を終えて、何気なく窓の外を見た。晴れてはいたが、どこかくすんでいる。
「お顔の色がすぐれませんわね。もう少しお休みくださいませ」
オーリスが優しくそういうと、ひかりは頷いて寝室に入った。それから、服も着替えずにベッドにもぐりこむ。
(ワゴニア様の言う通り、確かにあたしは自由だわ。行こうと思えば、きっとどこにでも行ける。けど、行きたいところなんかない。帰りたい場所だってない。自由なのに、どうすればいいのかわからない)
ひかりはぽろぽろと涙を流した。




