15
アプローズたちが魔物討伐に出てから翌日のことだった。いつものように、レクサスに魔法を学び、実践していた紫音は新しい魔法を一つ覚える。
「そう、そうやってまず空中を歩く感じだ」
レクサスの両手に軽くつかまり、丁度つかまり立ちができるようになった子供が親の手をとって歩くように空中を歩く。紫音はゆっくりと高度を上げるレクサスについていくように、足を動かして空へと昇った。
城の屋根を超えたあたりで、周りを見渡した紫音はすごいと興奮気味に微笑んだ。もっと飛びたい。そう思った紫音は自分に翼があると想像してみた。すると、さらに安定感のある浮遊感を感じた。
「空飛ぶのって気持ちいい!」
「だったら、少し遠出してみるか?」
「うん、もっと飛びたい!」
よしとレクサスは頷いて、片手を放し、紫音の隣に並ぶ。
「とりあえず、東の端まで飛んでみるぞ」
紫音はワクワクしながら、レクサスと東の端を目指した。眼下には街がジオラマのように小さく見える。やがて風景は広い草原に変わり、黒い羊のような生き物の群れがのんびりと草を食んでいた。そんな草原にも赤れんがの屋根の集落がいくつも見えた。また、他にも青々と風に揺れる麦が見えたり、二人に気づかないで忙しく働いている人々が見えた。そして、森が目前に迫ってきたところで、二人は地上に舞い降りた。そこは、小高い丘で一面に白い花が揺れていた。
「うわぁ、綺麗!ねぇ、これなんていう花?」
「スプリングホワイトという。ここはこの花の群生地だ。他のところでは咲かない」
竜胆を真っ白に染め上げたようなスプリングホワイトは、さわやかな風に優雅に揺れていた。紫音はしゃがみ込んで、花に顔を近づけると金木犀のような甘い香りが鼻先をくすぐった。二人はしばらく無言で花を眺めていた。しかし、その沈黙も長くは続かなかった。グルルっと紫音の腹の虫が泣いたのである。レクサスは苦笑して「帰ろう」と言った。紫音は顔を赤くして頷く。そして、照れ隠しのように「帰りは自分で飛びたいんだけど、まだ無理かな」と言った。
「やってみればいい。落ちそうになったらすぐに捕まえてやる」
レクサスは苦笑しながら、そう答えた。
無事に一人で城まで飛び、中庭に降りた紫音はぐうぐうなる腹の虫に自分でも呆れていた。
「たくさん飛んだから疲れたんだろう。昼食にしよう」
レクサスはそう言って、紫音の手を取ると自室に向かった。丁度お昼時ということもあり、ティーノはすぐに料理を運んでくれた。
「今度遠出するときは、声をかけてくれ。うまい弁当つくってやるからな」
ティーノがそういうと紫音はうれしそうに「楽しみ」と笑った。それから、レクサスと二人で昼食を平らげ、眠くなった紫音はソファーで横になった。スースーと気持ちよさそうに眠る紫音の頬にレクサスはそっと口づける。本当はもっと触れたいのだが、紫音が嫌がるので我慢していた。初めて眠った顔を見たときはどこか苦し気だった紫音の顔は、今では無防備なほどに穏やかでほんの少しレクサスを悩ませるのだった。
レクサスが執務室に戻ると、カムリが珍しく硬い表情で出迎えた。
「何かあったのか」
「ナイトメイアの辺境伯が来ている」
「では、謁見の間に通してあるのだな?」
カムリは静かにうなずいた。
「何もそんなに警戒することはないだろう」
「そうだといいんだけどね。なんだか嫌な予感がしてさ。同盟国といっても紙切れ一枚の机上の関係だからね。少しは警戒した方がいいんじゃないか?」
「わかった。用件次第だな」
レクサスは頷いて謁見の間に出て行った。
「お初におめにかかります。ナイトメイア辺境伯のアベンシス・ブラストと申します」
真っ白な髪を後ろで無造作にひとくくりにし、片膝をついて胸に手をあてて深く頭を下げた男は、中年というには、たくましい体つきをしていた。レクサスは無表情のまま、「ナイトメイアからの使者として歓迎する」と言った。
「それで、用件はなんだ。ブラスト辺境伯」
「では、早速用件をのべさせていただきます。実はわが国では豪雨に悩まされておりまして、こちらには天候を操る姫巫女様がいらっしゃると聞きおよび、お力添えをいただきたく王命により惨状つかまつりました」
「姫巫女はまだ魔法の訓練中だ。簡単に貴国に向かわせるわけにもいかぬ」
「レクサス王はご存知ないかと思われますが、我が国は昨年も作物が不良で今年打撃をうければ、貴国に援助を求めるしかなくなります。ですが、この国もその余裕はないはず。そう言った場合に起こるのが戦争と言うものではございませんか?」
「貴国は我が国と一戦を交えると言うか?」
「その覚悟をしなければならないほどに、切迫しているということを申し上げただけでございます。本気でこの国を攻めようと王がお考えになれば、使者を立てることなく侵攻してくるでしょう。その前に、平和的に物事を進めることが大事だと王妃様の助言がございまして、わたくしが使者としてまいりました。良いお返事をお聞かせ願いたい」
「あいわかった。議会と検討するゆえ、二日後の昼にまいれ」
レクサスはそう言い残して謁見の間をでていった。すぐに衛兵に中央審議会の幹部たちに招集をかけるよう命じた。一時間後にレクサスを交え、検討会議がはじまった。招集された幹部たち五人は、レクサスからの話にしばらく考え込んだ。ナイトメイアとは一応の同盟関係がある。だが、魔力の強い魔人の軍団を迎え撃つのは鬼人といえども容易なことではない。兵士の総数自体圧倒的に向こうが上である。そして、様々な意見を交わした結果、抗戦するのは得策ではなく護衛をつけて姫巫女をナイトメイアに派遣すべきという結論に達した。レクサスは一つだけ条件をだす。紫音の意思を尊重したいと。幹部たちは了承した。そして、万が一抗戦になった場合の策をこれから検討することで、会議は閉会した。
紫音が目を覚ますと、カムリが紅茶をいれてくれた。レクサスがいないのでどうしたのかと聞くと、来客中であるという。なんでも、東の隣国であるナイトメイアというところから使者が来ていて対応しているということだった。
「どんな国なの?」
「魔人の国だよぉ。俺の古巣」
「へぇ、ちょっと行ってみたいな。もっと魔法が使えるようになったらだけど」
何も知らない紫音は無邪気にそう言った。
「あんまりおすすめできないなぁ」
「危険な国なの?」
「まあ、魔力が強い者が大きな顔で支配している国だからね。ここほどのんびりした国とはだいぶちがうねぇ。俺がここに来たのは、内乱の激しい時代だったからなぁ」
「今も内乱が続いてるの?」
「いや、もうだいぶ前に今の王家が平定したよ」
「だったら、そんなに危なくはないんじゃない?」
どういったらいいのかなとカムリは悩む。現在のナイトメイアを知らないカムリとしては、なんとも言い難いのだ。同盟を結びに来た王子のことは、覚えている。カムリを物珍しそうにながめていた。魔人の中でも変身能力を持つものは少ないからだろうが、それだけではないような気もしていた。
同盟を結んでからも、時々、レクサスに会いに来ていたようだが、何を考えているのかまるで読めない少年だった。だが、それもかなり昔のことで、あの少年が王位についているのかどうかも定かではない。
「もし、どうしてもシオンちゃんが行きたいってときには、俺が案内しよう」
「レクサスがついてきそうだけど」
「ああ、それはないよ。結界を張り続けている間わね。王は森の外には出られないから」
「もしかして、出ちゃうと結界が壊れちゃうの?」
「その通り。王は新王が誕生するまで、この国の外にはでられないんだぁ」
「そっか……やっぱり王様って大変なんだね」
紫音はレクサスと一緒にいられるのは、この国の中だけなのだと思うとナイトメイアへの興味が薄れるのを感じた。いつかこの城を出て行かなければと言う思いも、無意識のうちに消え去っていることに紫音自身はまだ気がついていなかった。