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どうしてこうなったのだろうと、響紫音は痛む腰をベッドの中でさすりながら思い出す。
それはいつものどうしようもない日だった。朝から両親は離婚のことで喧嘩していたし、それを振り切るように登校してみれば、新調したはずの上履きには罵詈雑言が書かれている。悪い時には悪いことが重なるとはよくいったものだなと紫音は思っていた。みんな何が気にくわないのだろうと、いじめの当初は思っていたが、だんだんと感覚がマヒしてきたのか、最近では何も感じない。
最初はうまくいっていたと思う。クラス替えで仲の良い友達とは別のクラスになったけれど、新しい友達はできた。御園生ひかりという少し大人しい子だった。新しいクラスになって二か月ほどたってからだったろうか。よく覚えてはいない。おはようと声をかけた相手に、無視された。聞こえなかったのかなとそのときは気にもしなかった。紫音はそれがいじめの始まりだなんてこれっぽっちも思っていなかったのだ。
体操服が隠されたり、教科書が破かれたりして、嫌な予感は日に日につのった。ひかりもいつのまにか、口をきかなくなり、他のグループに入り込んでいた。そして、放課後にひかりが久々に声をかけてきたので何かと思えば、いわゆる呼び出しだった。使われてない古い倉庫でぼこぼこにされた。ご丁寧に、制服で隠れている腹や背中をけられたり、殴られたりした。そんな日々が二か月続いた。紫音も最初は抵抗していたけれど、それは無駄な行為だった。そんなころの両親の離婚話。
そんなどうしようもない日。
いつものようにひかりが呼び出しのパシリにされていた。だが、その日はなぜか紫音は呼び出しに応じなかった。荷物をもってさっさと帰ろうとひかりを無視して昇降口までたどり着く。追いかけてきたひかりは、今にも泣きそうな顔で、紫音の腕をつかんでいった。
「どうして帰るの!日崎さんが呼んでるっていってるじゃない!」
「どうして?行けばどうなるかわかってるのに?いい加減、付き合いきれないのよ」
「それでも、行かなかったらもっとひどい目にあうよ!」
紫音は、悲し気にふっとわらう。あんたがそれをいうのかと。きっと、ひかりはずっといじめられていたのだろう。何がきっかけで、その矛先が自分に向いたのか紫音にはわからない。けれど、ひかりに同情する気にもなれないほど、すべてがどうでもよくなっていた。仲の良かった友人もいつの間にか疎遠になった。大恋愛の末、でき婚した両親は十七年の歳月を無駄にするかのようにいがみ合っている。
「明日なんてどうでもいいわ」
そう言って、紫音はひかりの腕を振りほどこうとした。
その瞬間、めまいのようなものに襲われて……。
気がついたら、異世界でしたみたいな冗談のような話になっていた。
(今の状況も冗談ならどんなにいいだろう)
そんなことを紫音は考えたが、体の痛みが現実だと訴える。そして、ベッドがぎしりと鳴いた。
「起きられるか?」
そう問う声は、低く通りの良い男の声だ。
「おい、起きてるんだろう?」
男は、無造作に紫音の頭に手を置いた。
「何をすねてるんだ?食っていいっていったのはお前だろう?」
紫音は、反射的にベッドから顔をあげて男を睨むと意味が違うと怒鳴った。男は目を丸くして、それから首を傾げた。銀の髪が揺れて、金の目が細められる。
「まさかとは思うが、お前、俺が人間を食う魔物だとでも思ったのか?」
「そうよ!なのに……」
まさか、抱かれるとは思っていなかったのだ。知らない世界にいきなり引きずり込まれて、挙句いらないと捨てられた。そんな自分なんてどうなってもいいと思っていた。魔物にくわれて死ぬのも悪くないと心の底から思っていた。だが、現実は紫音を生かした。それも、見知らぬ男に抱かれるという形で。
最悪だと紫音はぎゅっと唇を噛んで布団にもぐりこんだ。男は布団ごと紫音を抱きしめて、困ったように背中をなでる。紫音は、声を殺すように泣いた。それからしばらくして、泣きつかれたのか眠ってしまった。男は布団をそっとめくり、涙にぬれた寝顔を見つめる。なんとなく瞼に口づけて、ベッドを離れた。
男の名前はレクサス・マキャベリアという。紫音を見つけたのは、偶然ではない。人間が異世界の者を召喚しようとしていると報告があったので、面白半分で部下のカムリを監視につけた。カムリは何にでも化ける能力者で、レクサスとの付き合いも長い。彼の報告によると、召喚されたのは少女が二人。どちらが聖女なのかと人間たちは騒いでいたというが、すぐに魔力計測のできる水晶を二人に触れさせた。そのとき、光を放ったほうは、聖女と認められたが何の変化も示すことのできなかった紫音は、魔物の跋扈する森に捨てられたのである。
レクサスはその報告を受けてすぐさま紫音のもとに姿を現した。そして、黒髪に黒い瞳がとても美しく、また、珍しかったので興味をそそられてそばへと寄った。すると、紫音は、食べるのかと聞くので、レクサスは食べていいのかと問い返した。そして、かすかに笑って紫音は、答えたのだ。食べていいよと。
レクサスはその言葉を同意と受け止めて、ことに及んだのだが、どうやらそれが間違いであったことを知って、少なからず困惑していた。
(そういえば、まだ名前もきいていなかったな……)
レクサスは、ソファーで丸くなって眠る猫にカムリと呼びかける。猫はあくびをすると、一瞬にして人間の姿になった。灰青色の髪に紫の目の幼さの残る青年は、眠たげになんですかぁと答えた。
「あの娘の名前はわかるか?」
カムリはうーんっとうなって記憶をたどる。
「たしか……シオンっていってたねぇ。つか、寝たんでしょ。名前くらいちゃんと聞きなよぉ」
カムリはあきれる。
レクサスはシオンと口の中でつぶやいた。そして泣きつかれて眠る顔を思い出して、妙な罪悪感がわいてきた。
「なんだぁ?機嫌でも損ねられたかね」
カムリは珍しいモノでも見るように、にやにやと笑いながらレクサスを見る。閨の相手がすねようが泣こうが気にもとめない彼が、珍しく何かを気にしているのがわかって面白かったのだ。
「……別に大したことじゃない。それより、異世界人は何を食べるんだ?」
「そんなこたぁ、ティーノに聞けばいいじゃないか。本当にどうしちゃったんだい?」
「うるさいな。何でもいいからうまいものを用意しろ」
へいへいとカムリは、部屋を出て厨房へ向かった。
レクサスは、なんとなく深いため息を吐いた。