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「入ってくんな」
とある土曜日。
いつも通りに病室の扉を開けると、病室の中から聞こえてきたのはそんな言葉だった。
「あ、俺だけど……」
俺だけど、じゃなくてしっかり名前を名乗りましょう。なんて小学校でも習った事だよ。
病室の中をのぞけば、いつもはテレビを見ていたりベッドの上で漫画を読んでいたりする事の多い拓也が、今日は布団を頭までかぶって横になっていた。
さっきの「入ってくんな」という言葉がいまいちまだ咀嚼しきれずに、もう一度「俺だけど」と言ってみる。
「拓也ー」
「……」
「あのさ」
「……」
「漫画持ってきたけど」
彼は微動だにしない。
俺は持ってきた漫画10冊の入ったスーパーの袋が、ぎゅいぎゅいと手に食い込む感覚を感じながらもう一度口を開く。
「なんか体調やばめ?」
「……」
「……あのさー」
「入ってくんな、って言ってんだろ!!」
からん、と何かが床にあたる音がする。
見れば、彼が「ゲロボックス」と呼んでいるプラスチックの容器が床に転がっていた。
彼が投げたのだ。そう理解はしているのだが、立ちすくんでしまう。だって、彼はとても温厚な人間で、こんな風にものを投げてくる事なんてなかったから。
「え」
「出てって」
「……」
「はやく」
「えっと、」
「出てけ」
そんな声に、何も言えなくなった。
とりあえず少し欠けてしまったプラスチックの容器を拾って、漫画を近くの椅子の上に置いておく。
「また、来るよ……」
ぽつ、と出た言葉に返事はなかった。
部屋を出て、扉を閉めてもなお続く胸の痛み。今日の夜はよく眠れないだろうな、なんて予想。
病室の扉を閉めて、少しもたれかかってみる。中から大きな咳をするような音がした。
病室の前の廊下を、ピンク色のかなりダサめな服を着た掃除のおばちゃんがリネン類の入った大きなかごを押して歩いて行く。
そういや、と思って手に持ったまま出てきてしまった欠けたプラスチックの容器にふと目をやる。
そんな時ちょうど、僕の目の前をきっちりと前髪を止めた水色の服を着た看護師さんが通ったので「あの」と声をかける。
「すみません、これ、ちょっと壊しちゃったんですけど」
俺がそう言うと、その看護師さんは急に目をキョロキョロとさせて「あ、え、」とどもった。
なんだ?え?これ壊したらそんなにヤバい奴だったの?なんて思っていれば、ちょうど横を福島さんが通りかかった。
「あ、あの、すみません、この方が、その」
「あ、高島さん。こんにちは」
水色のナース服を着た看護師さんは、しどろもどろに何かを説明しようとしているが福島さんが「うん、分かった」とだけ言うと大きくお辞儀をしてそそくさと廊下を歩いて行った。
なんだ?なんて思ってその人の背中を見ていれば、福島さんは僕からプラスチックの容器を奪い取った後に「あれ、看護学生さんだから」なんてまじまじと容器を見ながらそう言った。
「学生さん? ナース服着てましたけど?」
「臨地実習ですからね。学生さんも着ますよ」
ふうん、なんて思っていれば、まだプラスチックの容器をじろじろと見つめる福島さんが口を開く。
「今日、もう帰られますか?」
「あ、え、はい……」
福島さんは、特に何も言わずに勝手にナースステーションの方に足を進めていく。
その横を何となく付きながら歩いて居れば、福島さんはちらりと俺の方を見た。
「これ、落としました?」
「あ、ええ……えっと、俺が」
「床に叩きつけられた、って感じですけどねぇ」
ちょっとだけ嫌味な笑顔を浮かべた福島さんがそう言う。
あんた、いつから鑑定士になったんだよ。なんて思いつつ「……なんか機嫌悪くて。投げつけられた的な……」とぼんやりとした物言いをしておく。
「ちょっと今ね、副作用が凄いみたいですし」
福島さんはそうとしか言わなかった。
なんとなくムスっとしまう自分がいて嫌になる。自分は「怒りをぶつけられて大変でしたね」なんて言葉を期待していたようである。
「ムカつきましたか?」
福島さんが、ちょっと小声でそう言ってくる。
いや、ほんと俺はあんたの友達じゃないんだけどさぁ。なんて思いつつ「ムカつく、というよりは悲しい的な」と呟く。
福島さんの胸ポケットの中で、医療用PHSが揺れる。
それをぱっと確認して少しだけどこかのボタンを押した後に、福島さんは少しだけ困ったような顔をする。
「神野さんにも、あんまり無理しないように。とお伝えいただければ」
福島さんのその言葉で、はっと気づく。
神野美沙子は、お見舞いを欠かさない。俺以上に、こんな状態の彼に何度も出くわしてるはずだ。
こんな時に、走馬灯のように蘇るのが優しかった拓也の姿で嫌になる。
嫌味っぽい俺と、勝気で意地っ張りな美沙子の仲裁役だった、そんな彼の姿で。
――八尋~美沙子~、もうどっちが勝ちでもいいからさ~さっさと帰ろ~――
どうでもよくないから!!!なんて言い張って、結局帰り道の間ぐちぐち喧嘩を続ける俺たち二人の横で、呑気に拓也は自転車を押しながら鼻歌なんて歌ってた。
俺がいなくなったら、どうするんでしょうね。お二人さんは。なんて拓也は呑気に笑ってた。
本当に、俺たちはどうしたらいいんだろうね。なんて高校の制服を着て夕焼けに照らされるあの日の拓也に問いかけてみたいよ。
*
「八尋、美沙子ちゃん来てるけど」
母にはデリカシーという文字を辞書で調べ直してほしいと常々思っている。
ノーノックで俺の部屋の扉をどん、と開いた後母がくいと外を指さしながらそう言った。
ベッドから起き上がって見れば、なんとなく暗い表情の母と目があう。どうせ今日の夕飯時に「なんで拓也くんと美沙子ちゃんばっかり」なんてまた泣くに違いない。
それにしても、こんな休日に美沙子が家にやってくるなんてなんの用事があるんだろう。
そう思いながら、コートに袖を通した後、スヌードをぐるぐる巻きにして階段を下りる。
そう言えば、美沙子が一人で俺の家を訪ねてくるなんて、何年ぶりだろう。本当に小学生の時以来かもしれない。
家の扉を開けば、カランコロンなんて母親がつけた大層な鐘の音がする。
目の前には、冷たい風に鼻をすすり少しだけニヒルな笑みを浮かべた美沙子の姿があった。
「きちゃった」
わざとらしい、そんな物言いをする美沙子。
散歩の途中なのか、彼女はリードを握っていた。その先には美沙子の家の愛犬しまじろうが。(美沙子の凶器的ネーミングセンスの被害者)
「……なに、急に」
「いやあ、別に。しまじろうの散歩のついでに八尋の家が見えたもんだから。一緒に散歩でもしないかと」
自分の足元に寄ってくるしまじろう。少しかがんで頭を撫でた後に「今日、拓也は?」と聞いてみた。
美沙子はいつも通りの明るい表情を見せながら「たまには休めって言われた」と返してくる。
「まぁ、べ」
「よし、じゃあ行こう」
で、でたーーーー。と思わず言いかけた。
美沙子の昔からのくせ。人の話を聞かずに独断専行スタイル。久々に体感したけど。
(ここでさぁ、美沙子の歩く幅小さくて、女の子なんだなって実感した。なんて描写を入れてあげたいけど、きみは元陸上部だし普通に僕の歩幅に合っているし(むしろ先行気味)、ごめんね。)
息を吐けば白くて、それが澄んだ空気の中に溶けていく姿はいいな。と思った。
土曜はほとんど病院にいるし、日曜日はよっぽどの予定がない限りは外にでたりなんかしないし。
美沙子はぐんぐん前を進むしまじろうに引っ張られながら、僕の少し前を歩く。
ドラマの撮影なんかに使われそうなくらい綺麗な河原。河川敷に生える草にしまじろうが寄れば美沙子がぐうっとリードを引っ張る。
僕と美沙子の隣を、ウィンドブレーカーに身を包んだ高校生たちが声を走っていく。部活かな。なんて思っていれば美沙子がようやく口を開いた。
「懐かしいね」
「なにが」
「いや、ここ帰り道だったね」
「うん」
「よくここで喧嘩しながら帰ったね」
「俺と美沙子が、ね」
「うん。拓也はいつだってその様子をみながら呑気に笑ってたもんね」
美沙子が鼻を赤くして隣を走っていく高校生を見ながらそう言った。
懐かしさに目を細めたのは僕もだった。
「高校生、いいね」
「まぁね」
「懐かしいな~」
「うん」
「……」
「あの時は『こんなことになるなんて思ってなかった』とかベタなセリフ言わなくていいから」
僕のその言葉に何故か美沙子は黙った。足は止めないけど。
そして横を流れる川をぼんやりと見つめながら、一度だけ鼻をすすった。
「そうだった。八尋は、こうだったよね」
「……何が言いたいわけ?」
「八尋はいつだって、嫌味っぽくてさぁ。私は気が強いし負けず嫌いだったからいつだって口喧嘩してたよね」
「……」
「八尋、ごめんね」
「……なにが~?」
「拓也が病気になってから、ほんとに色々気を使わせちゃってるよね。ほんと、ほんとごめんね。八尋、らしくないよね」
今にも泣き出しそうな声で美沙子がそう言う。
僕は何も返さずにただ、ぼんやりとコンクリートと自分の靴が擦れる音を聞いていた。
「あと、今日ついでに謝っとこうと思って。なんか昨日、拓也が八尋に当たっちゃったってすごく落ち込んでたから」
「……ああ、別に全然」
気にしてないけど。と言いかけて飲み込んだ。完全に虚偽申告になるので。
空気を読めないしまじろうが突然立ち止まる。美紗子は「このタイミングでうんこするかなぁ?」なんてちょっと笑いながら持っていたカバンから袋を取り出した。
無事に処理を終えた美沙子が、ごめんね。なんて少し笑った後に足をまた進める。
「また来てあげてね。本人も謝りたいみたいだし」
「……うん」
「ほんと」
「うん」
「ごめんね」
「……何に謝ってんのさ」
「……何だろうね」
そこまでいうと、美沙子は黙った。
何か言いたい事がありそうな雰囲気を醸し出してはいたが、僕から突っ込んでやろうという気には残念ながらなれなかった。
「看護師さんに、言われたの」
「……うん」
いつもの僕なら、ぜっっっったいに「そんな思わせぶりな発言じゃなくて『なにを言われたか』から話し始めろよ」と言っている。
「病気の痛みとか、苦しさは本人しか分からないんだって」
「うん」
「わたしね、拓也になんでちゃんとご飯食べてくれないの。って怒って喧嘩しちゃってさぁ」
「うん」
「わたし、その、すこしでも長く生きてほしいって」
「うん」
「でも、なんかそのさ、わたしのやってることってさ」
「もういいよ美沙子」
美沙子の声が震えはじめて、聞くに堪えないので、そう言って遮った。
美沙子は泣かなかった。僕は、ここの河原で帰り道どれだけ喧嘩しても絶対に泣かなかった彼女の姿をそこに見た。
美沙子は僕の事を「らしくない」なんて言ったけど「らしくない」のは美紗子もだ。
いつだって、強気で勝気で。拓也が付き合うって言ったときには「完全に尻に敷かれそうだけど大丈夫?」なんて真顔で質問した昔の自分が懐かしい。
「美沙子はよくやってるよ」
「……」
「たとえば俺だとしたら、毎日自分の好きな人が苦しむ姿を見るなんて耐えれないし、逃げたくなる」
「……」
「実際俺も拓也に怒鳴られて狼狽えたし」
「……やひろ」
「でも、美沙子はちゃんと、ちゃんと拓也と向き合ってる」
偉いよ。という言葉までは言えなかった。そろそろ僕も声が震えてきたから。
美沙子のいう「らしくない」言葉のオンパレード。
僕の言う言葉に、美沙子は目をすうっと細めた。
彼女の後ろでは、日に照らされた川面がきらきらと反射している。まるでドラマのワンシーンのように。
「八尋」
「うん」
「わたし」
「うん」
「……そんな言葉に救われてしまう」
涙を見せずに、彼女は少し微笑んだ。