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(5)






 二十数年間も生きていれば、一応身の回りの事は何でもできるし、仕事だってなんだってできる。

 無力感を感じる事など、無縁の日々のはずである。







「ごめん、ちょっと、やばい」


 とある土曜日。

 薬の影響か何かはよくわからないけど、食事をあまりとれないくせにお腹がぽっこりしてきた彼がそう言った。僕は、読んでいた漫画から目線を外してベッドに座る彼を見る。


 彼は、真っ青な顔をして、口元に手をやっていた。

 いつも嘔吐しそうになる時と同じようなしぐさであるが、彼的に何か異変があったのだろう。普段なら「ここがこうしんどいから看護師さん呼んで」などと言う彼が、ただ「押して」と真っ青な顔で呟くだけ。



 押すって何を?なんて一秒ほど考え込む。

 そして、あ。ナースコールか。なんて思いつくのがその一秒後。


 とりあえず彼のベッド柵に掛かっていたナースコールを連打してみる。

 僕はこれを押せばすぐさま看護師さんが飛んできてくれると思っていたのだが、数秒後「どうされましたかー」なんていうちょっと間の抜けた声が部屋に響き渡って驚いた。

 要件、伝えてから看護師さんが来るシステムなんだ。なんて感心してる場合か。



「あの、すみません、俺ですけど、その拓也がなんかヤバいって」


 こういう所で、語彙力の無さが露呈するよね。なんて思っていれば「すぐ向かいますね」なんて返事の後、本当にすぐ部屋の扉が開いた。


 僕よりずっと若そうな、少し髪の明るい看護師さんが物品の沢山乗ったワゴンをがらがらと押しながら部屋に入ってきた。

 そして「高木さんどうされました?」なんて質問をしつつも、彼が返事なんかできない事を分かっているらしい。声掛けを行いながらも、目は彼の全身をざああっと上から下まで見ていた。



 すると、本日も出勤ごくろうさまな福島さんが部屋に飛び込んでくる。

 福島さんだけでなく他にも数人のナースがやってきたから、彼のこの状態はよっぽど「ヤバい」状態なんだろう。


 僕はただただ飛び交う医療用語と、ずっと年下そうな女性が「福島さん、~お願いします!」なんて大きな声を出しているのをただぼんやりと見ている事しかできなかった。


 ベッドサイドのこの場所は、ぼくのためのものではない。と気づいたのは福島さんが「ちょっと高島さん外に出てもらってていいですかー?」なんていつもと同じような口調なんだけれども、僕の方を一切見ずに言った時であった。



 その言葉に「ああはい」なんて言って部屋を出て。

 キレイな廊下にぼんやりと立ち尽くす。小学校の時を思いだした。


 この廊下に立っていれば、自然と視界に入るのはナースステーション。

 この部屋とナースステーションはこんなにも近いから、すぐに看護師さんたちがやってきてくれたんだろう。

 白い壁にもたれかかってみる。力がいまいち入らなくてずる。と少し背中と壁のこすれる音がした。



 すると廊下の向こうから、携帯のような機器(たぶん医療用PHSとやら)で何か話しながら大股で歩いてくる医者の姿が。

 忙しそうだな。なんてぼんやり見ていれば、その医者は拓也の部屋の扉を開けて中に入っていったから少し笑えた。



 僕は、数週間前の美紗子が車内で言っていた事を思いだしていた。


 ――私の両手じゃ、彼に何もしてあげれないの――

 ――ただ手を握って、祈ることしかできないの――



 僕も美紗子と同じだ。

 僕も同じように廊下に立って、ただ彼の命に別状がありませんように。と白い廊下に立って祈る事しかできないな、と。



「情けな……」


 こぼれだしたのは、そんな言葉だった。

 僕がもし医者だったら。僕がもし看護師だったら。なんてどうしようもない考えばかりが頭に浮かぶ。


 壁一枚隔てた向こう側で、彼に処置を行っている人たちが、同じ人間だと思えない。

 同じような年月を生きていた人間だとは思えない。

 神や天使だと思えば、少しだけ気が楽になった。


 でも、数十分後部屋から出てきたのはやっぱり同じ人間だった。



 白衣を着た、白髪交じりの初老の男性は一番に部屋を出ていった。医者は忙しい。

 そして、その先生を追いかけるようにして出ていったのはあの若い看護師であった。ナースステーションでパソコンの前に立った医師の横に立ち、なにやら彼の処置についていろいろ話しているご様子。



 そこから一人出てきた後、最後に出てきたのは福島さんであった。

 もう一人の切れ長の目をした長身の女性ナースは僕をちらとだけみると、また廊下を歩いていったが、福島さんはご丁寧にも「高島さん」と声をかけてくれた。



「今日も神野さんって四時くらいにいらっしゃいますか?」


 その質問の意図、ちょっと分かりたくない。

 時計を見れば、まだ一時を過ぎたあたり。美紗子はまだ家を出てすらいないだろう。



「多分そうだと思います」

「じゃ、その時部屋行く前にナースステーションに寄っていただくよう伝えてもらってもいいですか? 俺、日勤だしその時間まだいるんで」


 患者の幼馴染をパシるなよ。なんて思ったが、そういえばこの人はこういう人だった。



「今から美紗子に連絡します。早く来た方がいい感じなんですよね」

「……神野さんの無理のない範囲であれば。あと、ご家族さんも」

「俺、じゃあ今から美紗子を車で迎えにいってきます。電車乗り継ぐより絶対そっちの方が早いし」


 絶対車の方が早い、とは言い切れないと思う。

 ただ、僕がこう言ったのは。

 美紗子が来るまでの間、病室でひとり、彼と向き合うのが怖かったからに違いない。


 自分の無力感に苛まれつつも、美紗子を待っているという事をその時の僕はできそうになかったのだ。







 病棟につくなり「福島さん!」なんてナースステーションの前で美沙子が呼ぶもんだから。

 医療事務の人がびっくりしたような顔で、病棟のどこかにいるのであろう福島さんを電話で呼び出してくれた。

 その時の、医療事務の人が福島さんのPHSに繋がるまでの間、少し切なそうに眉を寄せて美沙子の人差し指で光る指輪を見つめていた、あの表情。今でも鮮明に覚えている。



 福島さんと彼の主治医っぽい人は、ご丁寧にもカンファレンスルームに僕たちを通してくれて、彼の様態について説明してくれた。が、正直言って僕にはちんぷんかんぷん。

 美沙子は後で、彼のおじさんとおばさんにも説明しようと思っているのだろうか。ちゃんとスケジュール帳の白紙のページにメモを取っていた。


 そしてさまざまな質問を投げかけていく。

 医療者の皆様の常套句はいつだって「一概には言えないんですけど」



 今日は安静にしていた方がいい。なんていう福島さんの言葉に美沙子は大きくうなずく。



「今は、寝てるんですよね。ちょっと顔見るくらいならいいですか」


 美沙子のそんな提案に、福島さんは「どうぞ」と笑った。


 彼の部屋の中には、僕の読みかけの漫画がパイプ椅子の上に伏せた状態で置いてあって笑えた。

 彼は、布団を深くかぶって目を閉じている。彼の呼吸に合わせて、白い布団も上下に動く。

 こんな当たり前の光景が、当たり前じゃなくなる日がやってくる事を想像すると背筋が少し震えた。



 夕日の差し込む病室の中、僕は彼の部屋にひとつ医療機器が増えている事に気づく。

 これは一体何なんだろう。何のための機械なんだろう。

 美沙子に聞けば返事が返ってくるだろうか。高校時代、僕が「これなんだっけ」なんて教科書を指さしたあの時のように「これはねぇ」なんてちょっと小ばかにしたような表情を浮かべながら、僕に教えてくれるんだろうか。

 


 美沙子は、起こさないように。と気をつけながらベッドサイドにしゃがみこんで、横向けになって寝る彼の顔を少し覗きこむ。



「八尋、今日はもう帰ろうか」


 ぐっと立ち上がった後、夕焼けに照らされた美沙子がそう言った。

 僕は彼女の顔を見て、美沙子痩せたな。なんてただぼんやり考えていた。


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