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彼が入院生活をはじめてからというもの、僕は欠かさず毎週土曜日に病棟を訪れた。
初めは「面会の方ですか?」なんて言いながら面会の紙を用意してくれていた医療事務の人も、僕が毎週土曜日同じ時間に「5A病棟」に現れるものだから。
いつしか「こんにちは高島さん」という微笑み付きの挨拶に変化していった。
僕はてっきり入院病棟というものは医者がうろちょろしているものだと思ったが、実際はそうでもなく。
僕が彼の部屋に居た時に、医者の訪室があってもただ軽く頭を下げた後にすぐ彼の診察に移り、数十分もしないうちに病室を後にするのだ。
僕は医者の先生の胸元でぶるぶる震えている医療用PHSを見て、医者とは本当に忙しいものなんだな。なんてぼんやり考えていた。
その代わりというかなんというか。彼の担当看護師の福島さんとはよく話をした。
福島さんは、男性の看護師だった。わりとガタイのいい男だったので着ているナース服も少しぴっちりとしており「白衣の天使」というよりは「近所のうさんくさい整体師」という方がしっくりきた。
「高島さん、こんにちは」
「……こんにちは」
この病院の規則なのか。それとも福島さんの単なる趣味なのか。
彼はいつも僕が病棟を訪れる時間になると、ナースステーションで電子カルテとにらめっこするのをやめて彼の部屋まで僕の隣を歩いてくれた。(まぁ、三回に一回の割合で別の人が案内してくれたけど。多分彼にも休みの日があるのだろう)
福島さんは、どうにも僕たちと同い年らしい。
それを知った時は「同い年で同じ性別だから、彼の担当看護師なんですか?」なんて安直に質問してしまったが「いや、受け持ちになったのはたまたまです」なんて彼は笑っていた。
「最近、調子どうなんですか」
「え、俺ですか? まぁそこそこっす」
「……あんたのじゃなくてさぁ」
僕がそう言うと、「あ、すみません」なんて世界一かわいくないテヘペロを披露された。
僕がじとっとした瞳で彼を見ていたのに気付いたのか、福島さんは「すごく頑張られてますよ」と言った。
体調、ばっちりなんですよ。なんて答えが返ってくる訳がないとは分かっていたけど。
彼の病室の扉を開くのが嫌になった。
土曜日が来るたびに、先週の彼はもういなくなっている。
土曜日が来るたびに、僕は少しずつ弱っていく彼に会う。
土曜日が嫌いになったのは、間違いなく彼のせいだ。
「八尋」
ベッドの上の机(福島さんいわく『オーバーベッドテーブル』)に肘をついて本を読んでいた彼が僕の顔を見て、少し眉を下げる。
福島さんが「じゃあ帰る時またナースステーションに声かけてください」なんていつも通り言うのを背中で聞きながら僕はベッドに座る彼を見た。
(いま小説を書いてる僕が、詳しく彼の体の様子やらを書き上げるとあの時を思い出してちょっと辛くなるので割愛)
「……っていうか、体調どう? ……大丈夫?」
大丈夫な訳がないのに、語彙力が足りないせいでいつもそう聞いてしまう。
彼も彼もで「うーんまぁそこそこ」なんていう曖昧な言葉を返してくる。
「いま何の本読んでんの」
「なんか美沙子が持ってきたやつ」
そう言って彼が茶色の、書店名が書かれたブックカバーを外すとこんにちはしたのはなんと「子犬の飼い方」というもの。
つぶらな瞳の柴犬が僕を見ている。彼は少しだけ肩を震わせて笑みをこぼした。
「美沙子マジでセンスおかしい。八尋から言っといてよ。もうちょっとまともなもん持って来いって」
「……真面目にお前が読むから美沙子も狂ったセンスのまま突き進むんだって」
「『犬かわいいから、これ見て元気出して!!』って言われたら読むしかないっていうか……」
彼が目を細めて笑う。苦笑のように見えるけど、じつは彼女への愛おしさに満ち満ちた笑みであると僕は知っている。
僕はいつもお昼過ぎに訪室をして、外が暗くなるまで彼の病室に居た。
その間、美沙子は彼の面会に来る事はなかった。
二人してテレビをぼんやりみて最近のアイドルはどーだのこーだの言い合ったり。
彼が入院している間の美沙子のちょっとしたドジ話をしたり。
彼が見るからに体調が悪い日は、病室に踏み込むなり「今日はもう帰ろうか?」なんて僕は言ってしまうのだが。彼はいつも困ったような笑みを浮かべながら「そこにいてほしい」と小さく呟くのだ。
二人してグースカ寝ているだけの日もあった。彼いわく、ただ一週間に一回僕に会うだけで、何だか気持ちが楽になるらしい。ちょっと意味がよく分からないけど。
美沙子は「八尋と、男二人で話したいって言うからさぁ」なんて若干不服そうに口をとがらせていたが、いつも4時半頃になると必ず彼の部屋を訪れた。
部屋に顔を出すたび、少しだけほっとした表情を見せる美沙子。
別に一日くらい面会を休んだっていいのに、休めないのにはきっと訳があるのだろう。
「美沙子、今日福島さんいた?」
「うん。いたいた」
美沙子はしゃっと部屋の窓に付いているカーテンを閉めながら彼の言葉に答える。
そして、僕をちらと見た後にすぐ彼に視線を戻す。
「福島さんに『吐きそうだから、ゲロボックス持ってきといて』って言っといて」
「……やっぱり気持ち悪い? 吐きそう?」
美沙子が眉を下げて彼に問いかける。
彼は、口の前に手をやって「うーん……」とこれまた曖昧な返事をしている。
美沙子は彼の点滴棒に掛けられている謎の袋(薬の袋なのか?)を見上げて、「やっぱりこれ、強いのかなぁ」なんてぼそっと呟く。
そこから先、美沙子と彼は医療用語満載な会話を始めたがぶっちゃけ記憶に残っていない。
なぜならその時の僕はただ、彼と美沙子は医者でも看護師でもないただの「一般人」だったのに。普通の結婚前のカップルから、こんな医療用語が飛び出すわけなんかないのに。なんてやるせない気持ちでいっぱいだったからだ。
*
土曜の夜には、いつも美沙子を車に乗せて家まで送った。
その日の夜は雨が降っていた。個人的に雨の高速道路は嫌いだ。
ワイパースイッチを「ふつー」に入れる。
そういえばこれ、ローマ字で名前あったはずだけどなんだっけ。いつも「おそい」「ふつー」「やばい」という自分の感覚でやっている為思い出せない。
なんとも言えない鈍い音を立てながら、ワイパーがフロントガラスの雨粒をふき取っていく。
美沙子はぼんやりとフロントガラスを見つめながら口を開く。
「八尋が毎週土曜日に来てくれて、本当にありがたく思ってる」
「……そう? 俺は二人の世界を邪魔してるんじゃないかと」
ぽろっと出てしまった本音に、隣の彼女はくすりと笑った。
この車の右側を大型トラックが鈍い音を立てて、加速しながら抜いていく。
「そんな事ないよ。いっつも『今日は八尋が来てくれるから』って思ってるからだろうね。八尋が来てくれる時は結構調子いい日が多いんだよ」
僕は言葉を失った。
あざが多くなってしまった腕であったり、がさつきが酷くなった唇であったり、本当に血が足りてるのかと思うくらい青白い肌であったり。
僕はあの病室を訪れるたびに、彼の調子の悪さに胸が痛むというのに。
「調子、いい方なんだね……」
あれで。と付け足しかけた自分が嫌になった。
「八尋。あとね、いっつも土曜の夜に私を家まで送ってくれてありがとう」
「ああ別に……」
「わたし、運転できたらよかったのにね」
彼女が伏せ目がちに、そう呟く。
高速道路のトンネルに差し掛かって、オレンジのランプが車内を照らす。
耳に膜が張るような感覚がいやで、ぐっと唾をのみこむ。
車内では、美沙子の好きな歌手が愛を歌っている。
トンネルを抜けた後、彼女をちらりと見る。
美沙子は、ただぼんやりと自分の両手の手のひらを見つめていた。
「私ね、最近考えてる事があるんだ」
「……なに?」
「私の両手、なんでこんなにダメダメなんだろうって」
「どういう意味?」
少しだけアクセルを強く踏み込みながらそう言う。
高速道路で脇見運転をできるほどのスキルの持ち主ではなかったから、ただまっすぐ前を見ていたからその時の美沙子の表情は分からない。ただ、声は震えていたからなんとなく想像はできた。
「八尋の両手があれば、運転することができるでしょ」
「……うんまぁそうなの、か?」
「お医者さんの両手があれば、手術をすることができるでしょ」
「……だね」
「看護師さんの両手があれば、点滴を変えることができるでしょ」
「……うん」
場違いなほど明るい曲が車内に流れ出す。
僕は、隣の美沙子の姿を見ることができなかった。
「私の両手じゃ、彼に何もしてあげれないの」
「ただ手を握って、祈ることしかできないの」
ね、ダメダメでしょ?
僕がちらりと横目でみた彼女は、そう言って大粒の涙をこぼしていた。