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2日後、僕はさっそく入院生活をスタートさせた彼を見舞うために病院を訪れた。
病棟に付いて、ナースステーションの受付のような場所に座っている人に「面会なんですけど」と言えば、すっと白い紙が差し出された。
そこには、面会相手の名前と自分の名前を書く欄。そして、自分と面会相手の続柄を書く欄があった。
「友人」と書くだけで十分だったのに、わざわざ「幼馴染」と書いてしまった自分に少し笑える。
「あの、これ」
書き終わった紙を差し出せば、受付の人はその紙を数秒見た後にパソコンに目をやった。そして彼の部屋の番号を告げると、にこりと微笑んだ。
受付の人が彼の名前を呼んだ時、ナースステーションの中でパソコンを叩く男性と目があった。僕が少しだけお辞儀をすると、彼も小さくお辞儀をした後すぐにパソコンに目線を戻した。
僕は、がらがらとワゴンを押す看護師を横目に廊下を歩く。そして彼の部屋の前に立つ。プライバシー保護のためだろうか。彼の部屋の番号はあってもその下に彼の名前はなかった。
本当にこの部屋なのか。
もし間違ってたら嫌なんだけど。
そんな思いがぐるぐる渦巻いて、横にすっと開けばいいだけの扉の前で数秒立ち止まっていた。
「八尋、お見舞いにきてくれたんだ」
そんな時、後ろから聞きなれた女の声が。
振り向けば、そこには美沙子がいた。
「部屋ここで合ってるか不安になったんでしょ? 私も昨日すごく戸惑っちゃったよ」
彼女は、すっとしたスキニーパンツに、去年買ったお気に入りのPコートを着ていた。
ぱっちり開いた目に、ちょっと入れすぎ感のあるオレンジのチーク。いつもならそれをからかうんだけど。何となく今日は、からかう気にはなれなかった。
「っていうか八尋、来るなら連絡してよ」
ちょっと苦笑しながら美沙子は部屋の扉を開けた。
そして「八尋きたよー」なんて部屋の中に居る彼に向かって言葉をかける。
「あ、八尋」
彼の過ごす部屋は個室らしかった。僕は何故か四人部屋だと思い込んでいたから自由に話せる事にすこしほっとした。
部屋の窓からは、街一面が見渡せるようになっている。
この病院に来た時は、なんでこんな坂の上になんか建てるんだか。なんてアクセルを踏み込みながらぶつぶつ文句を言っていたが、この景色のためだったら許せる気がする。
僕が彼よりも、窓から見える景色に夢中になっているもんだから。美沙子はちょっと僕の服を引っ張りながら「ちょっと八尋」なんて声を出した。
ごめん。なんて小さく呟いた後にベッドの上に座る彼を見た。
青色のダッセェ寝衣を着ている彼。先ほど廊下ですれ違った患者皆が同じような服を着ていたから病院のものなのだろう。
それにしても、ストライプのスーツをあんなに綺麗に着こなしていた彼だったのに。
「八尋。土曜なのにわざわざ来てくれてありがとう」
綺麗なラインの入った二重の瞳。
もう十分だよってくらいに高い鼻。
廊下ですれ違ってきた患者の誰よりも、彼は若くて格好が良かった。
美沙子は、窓の近くに置いてあったスーツケースの前にしゃがみ、スーツケースの中身を何やらごそごそと漁っていた。
どうにも、そのスーツケースは彼が家からもってきた生活必需品たちや衣服などが詰まっていたようだ。
数か月前、その黒スーツケースを引っ張って。泣きそうな顔で「出張行きたくねぇ……」なんて言っていた彼が懐かしい。
「病院って、もっと優しいと思ってたんだけど。意外と厳しいよね。あれは自宅から持ってきてくださいとか、売店で買ってください。とかそんなのばっかりだもん」
背中しか見えなかったが、もの言い的にきっと彼女は口をとがらせているだろうと思った。
まだ生活感のしないクリーム色の壁に囲まれた個室。
彼は立ち上がり、スリッパに足を突っ込むとテレビの置いてある棚の前にしゃがみこむ。
どうにも棚の一番下には冷蔵庫が設置されていたらしい。
冷蔵庫のぶうんと鈍い音が耳にやってきた時素、直に驚いた。病室に冷蔵庫まで付いて居るとは思っていなかったので。
「はい八尋、これなんかさっき美沙子が買ってきたやつ」
彼は冷蔵庫の中から、りんごジュースを取り出すと僕に手渡した。
そして冷蔵庫の扉をばんと閉めた後、自分はベッドに腰かけて。ぴっとベッドサイドにあったパイプ椅子を指さした。それに座れっていう意味だろう。
「ごめん、なんかこんな微妙な時間に来て。もっと朝から来れたら良かったんだけど」
時計を見れば午後四時。
目の前の彼が口を開く前に、スーツケースの中身の片付けを終えたらしい美沙子が立ち上がりくるりと振り返ってから口を開く。
「面会は二時から八時までだよ。だから朝来たってだめ」
美沙子のそんな声を聞きながら、ベッドの端に腰かけていた彼はスリッパを脱いだ後にベッドに寝転んだ。
60度ほど頭部挙上されたそのベッド。
美沙子が打って変わって、先ほど彼が座っていた場所にとんと座り込む。
「意外。朝に面会くる方がいいと思ってた」
「朝来たって、みんなラウンドで忙しいから」
少し笑いながら、彼がそう呟く。
ラウンドってなんだ?なんて僕の顔は語っていたのだろう。
彼はまた少し笑いながら「あれ、朝は体温測ったりで忙しいから」と付け足した。
「それより八尋、ここ来るの大変じゃなかった?」
美沙子はそう言って首を傾げた。
美沙子は、身長が驚くほど低い。(確か140㎝代)
だから、ベッドに腰かけても床に足がつかない。僕はぷらぷらと揺れる美沙子の足を見つめながら口を開く。
「車で来たから。そこまで大変じゃなかった」
「あーそっか。私も車運転できたらなー。電車何回乗り換えたと思う?」
そういって美沙子は笑った。
彼の入院する事になった、この県で一番大きな病院は僕たちの住んでいたクソ田舎町から少し離れていた。
高速道路を使っても、確か一時間はかかったはずだ。
「八尋、今日さ。帰りこいつ乗せてやってくれない?」
「……やだよ。だって美沙子、車酔いするじゃん……」
「途中で何回か休憩入れてくれたら大丈夫だもん!」
だもん、ってなぁ。十代の女の子じゃあるまいし。
車の中、ゲロまみれにされたら嫌なんだけど。なんて冗談を言えば、彼は声を上げて笑った後に「懐かしの美沙子ゲロエピソード」を嬉々とした表情で語っていた。
彼がわざとらしい大げさな動作で、(たいして似てない)美沙子のものまねをする。
美沙子はそれに「もうやめてよその話!」なんてプンスカ怒っている。
どうにも、ここが病室だとは思えなかった。
「そういえば、もっと点滴とか色々してるイメージあったけど。何もないんだ」
そう言った事を後悔した。
僕の目の前の美沙子の表情が、かちりと固まったからだ。
それとは対照的に彼はいつもの通り柔らかい笑みを浮かべていた。
「明日から、色々はじまるらしいよ」
美沙子が言うべきセリフを、彼はぽつりと呟いた。
色々はじまる、という言葉がやはり彼は病気なんだという事を再確認させるようだった。
そう言えば、2日前の美沙子は電話越しに「彼の病気は絶対に間違いなんだ」なんていう自論を展開していた。
目の前の美沙子の顔を見る。彼女は黙って唇を噛み締めていた。 おそらく、彼は僕に話した事以上の話(病状とか、余命とか色々?)を、美沙子に話したのだろうと思った。僕の単なる予想でしかないが。
*
結局、彼は僕に自分の病気について詳しく話す事はなかった。
ただ三人でいつものようにどうでもいい会話をして。二人して美沙子をちょっとバカにして笑ってみたりして。
そして午後七時。
部屋の電気を消して三人で窓から見える夜景を見ていた。
僕が通ってきた高速道路が見える。均等に並べられた街灯の光と、高速道路を走る車のライトがとても綺麗だ。
そういえば、この二人の付き合って5年目記念日なんていうどう考えても二人で盛大に祝うべき日に、なぜか三人で綺麗な夜景を見に行った事を思い出した。
どう考えても僕はいらないだろ。なんて何度も主張したのに。
二人が「いやぁ三人で見た方が楽しい」なんていうアンポンタンな主張を突き通すから。
そんな懐かしい思い出に目を細めていた時、ぎしとパイプ椅子がきしむ音がした。
「ここの個室、ちょっとお金が別にかかるけどよかったよ」
「……死に場所には、もってこいって感じ」
その時の僕は、そう呟く彼の顔を見る事ができなかった。
僕の前に居る美沙子は、彼の手をぎゅっと握って微笑む。
「そんな事言わないで、大丈夫。絶対、絶対大丈夫だから」
美沙子は彼に言い聞かせるような、そんな物言いだったが。
僕には美沙子が美沙子自身にそう言い聞かせているようにしか聞こえなかった。